※この作品はR-18です。

陸仁王物語―異伝―   作:fire-cat

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第18話

 11月下旬。

 宗秩寮および宮内省における六条雅武の昇爵手続きは、これまでの停滞が嘘であったかのように、異例の速度で完了した。京極宮家令としての長年の功績と、本家の承諾という大義名分を得たことで、官僚たちの事務処理は速やかに進行し、六条家が子爵家へと列せられる旨が正式に決定した。

 決定が下りた直後、陸仁は執務室の片隅にいた誓子のもとへと歩み寄り、「そなたの実家を子爵にしてやった」「これで誰にも文句は言わせん」と誇らしげに語りかけた。しかし、自らの手で選択し、陸仁の罪と狂気を共有する「共犯者」となった誓子の瞳に動揺や恐れは一切ない。怯えも追従もなく、「左様でございますか、我が主」と氷のように静かな気高さでその言葉を受け止めた。

 

 六条家が子爵へと昇爵した波紋は、すぐさま若き当事者たちの運命を大きく揺さぶることとなる。

 

 六条家が子爵となったことで、長男である雅忠には木幡伯爵家の次女である彩子との縁談が浮上した。それと同時に、寛代子にも香耶宮家との婚約話が持ち上がり始めたのである。

 婚姻の話が持ち上がってからの雅忠は、自らを殺し、幼き頃より側に寄り添い続けてきた寛代子に対し、明確かつ完璧な一線を引き完璧な臣下へと逆戻りしていた。

 かつてあの嵐の夜、雨音を突く暗闇の中で、主君である寛代子の肌を貪り、一人の男として肉体を重ね合った記憶──あの身勝手で背徳的な狂おしい時間は、今や雅忠の胸を激しい罪悪感で焼き尽くす拷問となっていた。

 来年には互いに別の相手との婚約が本格化する。

 寛代子が迫り来る婚姻の息苦しさに耐えかね、かつてのように自分を求めて頼ろうとしていることを、雅忠は痛いほど感じ取っていた。しかし、だからこそ雅忠は、彼女のために明確な「一線」を引かなければならなかったのである。

 

 宮邸の回廊の影で、雅忠の姿を見つけた寛代子が足を止め、控えていた女官たちを遠ざけて呼び止めることがあった。

 持ち上がる婚約話に対する息苦しさと、押し寄せる焦燥感、そして寂しさに耐えかね、縋るような思いで雅忠の顔を見上げる。

 

「雅忠。……少し、話を聞いてください」

 

 その声に含まれた切ない響きに、雅忠の指先がかすかに強張る。

 

「はっ、寛代子様。臣下として、いつでもお話をお伺いいたします」

 

 その声はどこまでも穏やかで、かつてのように優しかった。だが、その瞳の奥には確固たる一線が惹かれていた。

 

「そこでは話ができません。もう少し近づいてください」

「お戯れをお控えください。殿下は香耶宮家へとお興入れになられる大事なお身体。私のような臣下が、みだりに距離を詰めることは許されませぬ」

「私に……あの話を受け入れろと言うの? 雅忠、あなたは何とも思わないの……?」

 

 寛代子が感情を抑えきれずに一歩踏み出す。

 

「あの嵐の夜の私を……なかったことにしたいの……?」

 

 切なげに声を震わせる寛代子に対し、雅忠は静かに深々と頭を下げた。

 

「……殿下の未来と、ご立場のためでございます。過ちを覚悟に変え、高貴な血を引く者としての責務を果たされることこそが、上にお立つ方の務めにございます。臣下としての本分を弁え、殿下をお守りすることこそが、我が六条家の忠義にございます」

 

 あの夜、彼女の過敏な耳たぶを噛み、濡れた肌を抱きしめ、最奥に想いの丈を迸らせた記憶が、雅忠の脳裏で暴れていた。

 

(殿下、お許しください。我が身が引き裂かれようとも、あなたをこれ以上穢すわけにはいかないのです……)

 

 胸の奥で暴れる「一人の男としての獣」を、必死の理性と臣下としての忠義で抑え込み、雅忠は徹底して冷徹な臣下の仮面を被り続けた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 回廊での出来事ののち、寛代子の沈んだ面持ちを見かねた寛代子付の古参女官から、雅忠のもとへ懇願が寄せられた。

 

「六条様。寛代子様がどれほどお心を痛められているか、お気づきになられませぬか。ご事情はよく理解できます。ですが、幼き頃より支えてこられた六条様にあそこまで距離を置かれては、寛代子様の御心が壊れてしまいます。どうか、一度じっくりとお話し相手になってあげてくださいませ。それが無理なら茶会の場を設けますのでお越しください」

 

 女官の言葉は誠実な懸念によるものであり、雅忠にとっても胸を抉られる思いであった。寛代子の心労を思い、雅忠はその申し出を穏やかに受け入れた。

 

 そうして用意されたのは、宮邸のサロンに差し込む柔らかな午後の光のなかでの茶会であった。

 長テーブルの上には湯気を立てる紅茶と繊細な洋菓子が並べられ、寛代子の対面には雅忠が静かに着席していた。寛代子のすぐ背後や部屋の隅には女官たちが控え、適度な礼節と距離が保たれている。

 

「……どうして、そんなに固苦しくなさるの。以前は……もっと近くで、私の話を聞いてくださったでしょう?」

「これまでの我が身の振る舞いこそが浅はかな無礼にございました。殿下に香耶宮家とのご縁談が持ち上がっております今、過去の甘えを省み、礼節を正すことこそが我が責務にございます」

 

 雅忠の声は至極穏やかで、丁寧な笑みすら浮かべていたが、その表情の奥には一切の感情を差し挟まない冷徹な境界線が張り巡らされていた。

 寛代子は胸を押し潰されるような息苦しさに唇を噛み締め、手元のティーカップへと視線を落とした。

 

「香耶宮家とのお話……。父上も母上も、叔父様や伯母様方も、周囲の官僚たちまで、私に『おめでとうございます』と笑いかけてくるわ。だけど……誰も、私の気持ちなんて聞いてはくれない。私が何を恐れ、何に息を詰まらせているのか……」

 

 寛代子は胸のうちに溜まり続けた鬱屈と焦燥、そして押し寄せる孤独感を、絞り出すように語り始めた。

 

「香耶宮家とは親しい間柄ですから、あの方のことはよく存じています。けれど……いざ婚姻となれば、宮家の姫として生きていく定めだと分かっていても、急にどこか遠い世界へ追い遣られるような……そんな息苦しさに耐えられないの。雅忠……あなただけは、私を理解してくれていると思っていたのに」

 

 涙を含んだ声がサロンの静寂に響く。寛代子は縋るような視線を雅忠へと向けた。

 雅忠はそのすべてを、優しく頷きながら聞き届けていた。

 

「……お辛い胸の内をお聞かせいただき、恐縮に存じます。殿下のお寂しさも、重責ゆえの焦燥も、この雅忠、深く理解しております」

 

 言葉はどこまでも優しく、話も真摯に受け止めてくれる。だが、かつてのように自分を抱きしめてはくれず、一人の男として踏み込んでもこない。

 切なげに息を呑み、声を詰まらせながら、己を求めて叫びたがっている共に過ごした姫宮の姿──。

 

(触れたい……。その手を取り、抱きしめて、『お傍にいます』と囁いて差し上げたい……)

 

 雅忠の胸の奥で、激しい葛藤が吹き荒れていた。嵐の夜に貪り合った彼女の肌の柔らかさ、熱い吐息、己を求めてしがみついてきた細い腕の感触が、鮮烈な拷問となって脳裏を焼き尽くす。

 だが、雅忠は一瞬たりとも指先を動かさなかった。

 どれほど寛代子が悲しげに瞳を揺らそうとも、どれほどその声が切なく震えようとも、雅忠は指先ひとつ動かさず、完璧な臣下としての温和な笑みを保ち続けた。

 

(なぜ……なぜ、そんなに遠くへ行ってしまうの……?)

 

 優しく接し、愚痴を聞いてくれながらも、決して自分を「一人の女」として見ようとせず、「完璧な臣下」としてしか扱わなくなった雅忠の姿に、寛代子は胸を締め付けられるような愛おしさと同時に、狂おしいほどの焦燥感と寂しさを抱いた。

 手を伸ばせば触れ合える距離にいるはずの幼馴染が、自分を「姫宮」として扱い、完璧な臣下として優しく線を引いてくる絶望──。

 

(私を見て……雅忠。冷たい臣下の目ではなく、あの夜のように、私を狂おしく求めたあなたの目で……)

 

 心の中でどれほど叫ぼうとも、雅忠の冷たい仮面が割れることはなかった。互いを思いやるがゆえに引かれたその透明で深い「一線」が、寛代子の焦燥を募らせ続け、精神を蝕んでいった。 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 宗秩寮および宮内省における異例の速度での手続きを経て、六条家が子爵家へと列せられた波紋は、宮邸の奥深くで静かにリハビリを続ける誓子の身の回りにも届いていた。

 かつての誓子は、異性から声をかけられた際、激しいパニックを起こしていた。しかし現在の誓子は、ある「特定の条件」のもとであれば、恐怖に立ちすくむことなく過ごせるようになっていた。

 その条件とは──六条家の身内、主君である慶仁、あるいは若宮である陸仁のいずれかが、触れられるほど近くにいること。彼らが半径二メートル以内に位置し、その人物に触れている状態でありさえすれば、たとえ半径二メートル以内に他の異性が近づいて声をかけてこようとも、誓子は恐怖に立ちすくむことはなかった。

 その佇まいは、周囲から見ればまるで病状が「完治」したかのように映っていたのである。

 

(……しばらく見なかったうちに、誓子の病状はここまで落ち着いたのか? 誓子は治った、のか……?)

 

 その姿を目にした兄の雅忠は、胸の奥で安堵の吐息を漏らしかけていた。御連枝資料室での古文書解読や整理といった職務を淡々と完璧にこなす妹の姿に、あの夜の傷が癒えつつあるのだと信じようとしたのである。

 

 だが──雅忠はすぐに、喉の奥に引っかかるような息苦しい違和感を拭えなくなった。

 誓子と陸仁の間に流れる空気感が、あまりにも異質だったからだ。

 ふたりの距離感は、昨年の嵐の前と変わらぬ近さに戻っていた。

 

(……誓子にとって、共に過ごしてこられた殿下はやはり特別な存在なのか)

 

 疑問を深め、ひとり胸を痛める雅忠。

 しかし、それがトラウマの克服などではなく──陸仁の罪と狂気を共有した「共犯者の絆」によるものであることには、気が付くことは無かった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 六条家の昇爵と、それに伴う若婚姻話の浮上は、夜の社交場や宮中官僚たちの密談において、格好の話題となっていた。

 煙草の煙が燻るサロンで、古参の官僚や華族たちがグラスを手に低い声で議論を交わしていた。

 

「力ある子爵家の次代当主へ伯爵家次女が嫁入りか。前例通りだな。これまでの埋め合わせにはなっておらん。埋め合わせというなら公爵家や侯爵家からの嫁入り、或るいは伯爵家への婿入りでなければ」

 

 一人の男が吐き捨てるように言うと、隣の官僚が眉をひそめて応じた。

 

「嫁を貰う長男は宮家令家の次代当主だ。婿入りすれば宮家令の地位は次男が継ぐ。婿入りが宮家令の地位と釣り合いが取れるかどうか」

「であれば、次男を婿入りさせればよいか。法律で新家の創設は認められない以上は、どこぞの女子しかおらぬ家に婿入りさせるしかあるまい」

「いつの話をしておる。確かまだ義務教育も終えていない歳なのだぞ。大分先の話ではないか。その頃にはさらに功績が増えるぞ」

「六条家は久我家の一門か……婿入り先の確保は難しいな」

 

 ため息をつく華族に別の華族が案を出す。

 

「それならば噂の令嬢を公爵家か侯爵家へ嫁入りさせてはどうだ?」

「それは誰も幸せにならん。公爵家も侯爵家も当代の当主の多くと六条殿は京極宮殿下の縁組の一件から非公式ながら交流がある。無理に嫁がせて嫁ぎ先で何がしかあれば更なる埋め合わせが必要になろう」

 

 政治的な利害と格付けの計算が、冷徹に語られていく。彼らにとって、六条家の功績と被った損害に対し、「子爵」という爵位ひとつでは到底釣合いが取れていないというのは共通の認識であった。

 

「埋め合わせか。今までの功にも誠意を見せるなら寛代子殿下を長男に降嫁させる誉れを与える位でなければ追いつかぬのではあるまいか」

 

 誰かがぽつりと漏らした言葉に、周囲の空気が一瞬緊張を帯びた。

 

「寛代子殿下の降嫁か。それは些かやり過ぎ……いや、あの家との功と報恩の関係を思えばそれでも良かったのかもしれぬ」

「殿下と息子たちは幼き頃からともに育っているから気心も知れていようしな」

「寛代子殿下の降嫁と言う誉れがあれば帳尻が合ったかもしれぬな。縁組の話が表立つ前に誰かが気が付いておれば……。今更言っても詮無き事ではあるが」

 

 当事者である雅忠と寛代子がどれほどその未来を切望し、そして引き裂かれて絶望しているかを知る由もない大人たちが、単なる「損益計算の最適解」として寛代子の降嫁が幻に終わった事を口々に惜しむ。

 その時、会話の端にいた若い華族が、さも名案と思いついたように目を輝かせて呟いた。

 

「ならば若宮殿下への嫁入りであれば埋め合わせになるであろう」

 

 若宮である陸仁の妃として、六条家の娘を嫁がせれば、それこそ最大の報恩であり帳尻合わせになるのではないか──そう言いたかったのだ。

 しかし、その言葉が落ちた瞬間、対座していた古参の宮内官僚はグラスを弄ぶ手を止め、冷ややかな一瞥をくれるだけであった。

 

「精神を病んだ令嬢の宮家への嫁入りか……通常であれば十分な埋め合わせになるのだが、あの一件、実は若宮殿下の激しい拒絶が一因らしい。それは若宮殿下がお認めされておる。であれば、令嬢の嫁入りは若宮殿下が責任を取っただけと言えなくもない」

「……埋め合わせにはならんか」

「当たり前だ。己が引き起こした不始末の責任を取って娶るなど、当然の義務に過ぎん。それを『大きすぎる恩恵を与えてやった』などと誇られては六条殿も令夫人の生家である中院伯爵家もたまったものではあるまい。あれほどの功績を立て続けている家に対して、あまりにも不誠実だ」

 

 官僚の吐き捨てるような言葉に、周囲の華族たちは息を呑み、沈黙した。

 

「あの家に対しては当主が挙げた功績と京極宮家からの報恩の関係がいびつ過ぎるのだ。今までのつけが大きすぎる」

「中院伯爵家からの令嬢の嫁入りを認め、継承権のある男爵家当主として認めたことで、それまで積もった借りもある程度清算したはずだったのだ。だが、その後立てた功績が大きすぎた……」

 

 言葉はそこで途切れ、サロンには重苦しい沈黙が落ちた。

 男たちはそれ以上言葉を重ねることなく、杯の残りを一気に飲み干した。煙草の紫煙が揺らめくなか、誰もが口には出さぬものの、同じ冷徹な結論に達していた。

 政治的な利害、爵位の格付け、そして宮家と家臣筋のいびつな貸し借り──大人たちの打算的な損益計算の渦の中で、六条家と京極宮家の糸はあまりにも複雑に絡み合い、もはや誰にも解けぬ結び目となっていた。

 

 







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