※この作品はR-18です。

陸仁王物語―異伝―   作:fire-cat

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※漆黒編第10話の後書きに登場人物、11話の後書きに、設定を明記しました。


第21話

 晴れ渡る空の下、とある都市の駅前広場は埋め尽くされた群衆の歓声に揺れていた。

 昨年、大きな被害をもたらした集中豪雨災害や台湾島中部で発生した地震からの復興現場を視察する為、京極宮夫妻と若宮である陸仁が別行動をとり、復興現場を訪問していた。

 京極宮夫妻には雅武の長男である雅忠が、若宮である陸仁には雅武が供奉していた。

 陸仁が整った容姿に爽やかな微笑みを浮かべ、集まった人々へと優やかに手を振る。

 その一挙一動には隙がなく、若々しさと高貴な品格が同居し、威厳を持ちながらも親しみやすさを感じさせる振る舞いは、民衆の心を瞬く間に掴んでいった。地元の代表者と言葉を交わす際も、相手の目を見つめ、深々と頷きながら温かい言葉をかける。その姿に感極まって涙を流す老人の姿もあった。

 数歩後ろに控える六条雅武は、その光景をを見つめていた。

 目の前で発揮される陸仁の民を惹きつける資質は本物であった。これほどまでに頼もしく、皇族として申し分のない若宮は他にいない。臣下としての雅武の胸には、誇りと感嘆の念が確かに湧き上がっていた。

 しかし次の瞬間、その思いは重苦しい無念さと苦痛へと変わる。雅武の脳裏に浮かぶのは、宮邸の奥で怯え続ける娘、誓子の姿であった。

 

(誓子の件さえ絡まなければ、これほど頼もしく優秀な若宮はおられないのに……なぜ、あの子であらねばなかったのだ)

 

 胸の奥で呟いた言葉は、吐き気のような苦さを伴って雅武の喉を焼いた。

 昨年、子供たちがお忍びで出かけたハイキング。

 あの日から、六条家と京極宮家の運命は狂い始めた。誓子の精神は深く傷つき、異性を極度に恐れるようになった。そして今や、彼女の平穏は陸仁という存在の近くにいることだけに依存している。

 陸仁が見せる完璧な微笑みの裏にある冷徹な計算や、誓子に対する執着を、雅武は知っている。民衆から熱烈な讃辞を送られているこの輝かしい若宮が、自らの娘の精神を縛り付け、逃げ場を奪っている張本人でもあるという事実が、雅武の心を切り刻んだ。

 親として娘を救いたいという思いと、臣下として宮家に仕え、若宮を支えなければならないという誇り。二つの感情が激しくぶつかり合い、答えの出ない葛藤となって雅武を苛む。

 歓声はさらに大きくなり、陸仁は満足げに手を振り返した。太陽の光を浴びて輝く若宮の横顔を見つめながら、雅武はただ無言で頭を下げ、深すぎる陰影を胸の内に隠し続けるしかなかった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 一方、その頃。

 京極宮邸の広大な敷地は静寂に包まれていた。当主である慶仁と澄子、若宮の陸仁がそれぞれ地方への旅路につき、同行する六条雅武と雅忠もまた宮邸を不在にしていた。

 表向きは平穏そのものの静けさであったが、邸内の奥深く、北翼に位置する誓子の居室の周辺には、目に見えない歪みが確実に生じ始めていた。

 誓子の精神的な均衡を保っていたのは、彼女のトラウマを覆い隠す特定の「重石」の存在であった。陸仁、あるいは父の雅武や兄の雅忠、そして当主の慶仁という絶対的な存在が手を伸ばせば触れられる至近距離に位置していること。それこそが、彼女が異性への激しい恐怖や過呼吸を抑え込み、静穏を装うための唯一の依存条件であった。

 しかし今、その精神的繋ぎ止め役となり得る存在は、一人として宮邸内に留まっていなかった。

 

 昼下がりの静寂を破り、廊下から足音が近づいた。留守中の宮邸の務めを果たすため、書類を抱えた家従が部屋の扉を開けた。家従は室内へ踏み込むことなく、入り口で膝をつき、恭しく声をかけた。

 

「六条様、失礼いたします。御連枝資料室の整理書類をお届けに……」

 

 その一言が、静まり返っていた部屋の空気を一瞬にして引き裂いた。

 誓子の視界に、入り口に立つ男性の姿が飛び込む。距離にして数メートル。普段であれば、陸仁や身内がすぐ傍らに立つことで遮断されていたはずの「他者の男性」という脅威が、一切の緩衝材を持たずに直撃した。

 

「──あっ」

 

 小さな悲鳴が誓子の喉から漏れた。次の瞬間、彼女の瞳から理性の光が急速に失われていく。

 息が吸えない。肺が凍りついたように動かず、猛烈な過呼吸が誓子の華奢な身体を打ち叩いた。身体中の血が引き始め、指先が急速に冷たくなっていく。

 

「六条様……!?」

 

 異変を察知した家従が慌てて身を起こし、助けを呼ぼうと一歩足を踏み出した。だが、その動きこそが決定打となった。

 

「嫌……! 来ないで……! 寄らないで……!」

 

 誓子は頭を抱え、喉を押し潰したような絶叫を上げた。彼女の脳裏に激しくフラッシュバックしたのは、あの嵐の夜の恐怖、己の存在を根底から打ち砕いた暴力の記憶であった。

 近くに自分を護る陸仁や当主である慶仁の姿はない。手を差し伸べてくれる父も兄もいない。完全に孤立無援の闇に放り出されたという絶望的な恐怖が、誓子の精神を容赦なく破壊していった。

 

「あ……ああああっ!」

 

 足をもつれさせながら、誓子は部屋の隅へと後退りした。背中が壁に激突してもなお、その場所から逃れようと壁に爪を立て、必死に身を縮めさせる。瞳は焦点を取り戻せず、狂乱したように左右へと泳ぎ続けていた。呼吸は極度に浅く速くなり、喉からはヒューヒューと悲鳴のような風切り音が漏れる。

 

「誰か! 誰か来てくれ!」

 

 家従は青ざめ、廊下へ向かって叫んだ。その声を聞きつけ、宮邸内にいた女性の家従たちや、寛代子、そして家令の妻で誓子の母である聡子が駆けつけてきた。

 

「六条様、お気を確かに!」

「誓子! どうしたの!?」

「誓子! しっかりなさい」

 

 女性たちが取り囲み、必死にその肩を抱きかかえようとする。しかし、一度解き放たれた恐慌状態は収まる気配を見せなかった。誓子は助けを求めて手を差し伸べる女性たちの手すら振り払い、自身の腕を強く爪で掻きむしりながら、意味をなさない拒絶の言葉を叫び続けた。

 彼女が今まで見せていた落ち着きや穏やかな態度は、病の完治などでは断じてなかった。ただ陸仁という互いに執着しあっている存在が近くにあることで辛うじて破綻を防いでいただけに過ぎないという残酷な事実が、覆しようのない形で露呈した瞬間であった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 数日後、地方視察の務めを終え、旅装を解く間もなく宮邸へ戻ってきた雅武らを待っていたのは、異様な重苦しさに包まれた玄関であった。

 留守を守っていた家扶の白元が、蒼白な顔を深く垂れ下げ、震える声で告げた。

 

「六条様。皆さまの不在中、ご令嬢が男性家従と接触され、重度の恐慌を起こされました。寛代子殿下や六条夫人たちが対処いたしましたが……」

 

 報告を聞く雅武の顔から、すべての血の気が引いていった。完璧な若宮の供奉を終え、誇りと苦痛の狭間で耐え続けていた彼の足元が、音を立てて崩れ去っていく。完治したと信じ込もうとしていた娘の精神は、最初から何一つ救われてなどいなかったのだ。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 京極宮邸の応接間には、息を詰まらせるような重苦しい空気が満ちていた。

 留守中に起きた誓子の恐慌は、宮邸内に留まらず、秘密裏に進められていた計画の根底を揺るがす事態へと発展していた。誓子の落ち着きは病の完治などでは決してなく、特定の存在がすぐ近くにいることで辛うじて保たれていた異常な依存状態に過ぎなかった。その残酷な現実が隠し通せなくなったのである。

 

「他家へ嫁がせられる状態ではない」

 

 その噂は、隠蔽の糸をすり抜けて高位華族たちの耳へと瞬く間に届いた。

 かつて純潔事件の際に配慮を見せ、六条家が子爵へ昇爵したことを受けて「誓子を養女に迎え、名目上の格を上げた上で陸仁の正室とする」という極秘の打診を受けていた公爵・侯爵家は、一転して強い難色を示し始めた。養女引き受けに伴うリスクと、精神の破綻した令嬢を抱える恐れに、高位華族たちは次々と背を向けたのである。

 当主である慶仁と澄子の元には、極秘裏に送られた辞退の使者が相次いで訪れていた。

 

「妃殿下……申し訳ございませぬ。徳大寺家の総意としてこの件はご辞退申し上げます」

「申し訳ありませぬ、殿下。近衛家並びに鷹司家、この件ばかりはお役に立てませぬ」

「西園寺家も、この件ばかりはご容赦願います」

「久我家も六条家の事ゆえ何とかお力にはなりたいのですが、こればかりは……」

 

 使者が紡ぐ拒絶の言葉を前に、澄子は深い溜息をつき、持参された書類を机の上に落とした。慶仁もまた、固い表情のまま沈黙を守るしかなかった。

 世間や華族社会への体裁を整えるため、「公・侯爵家の養女経由で陸仁の正室にする」という慶仁と澄子の筋書きは、完全に暗礁に乗り上げた。

 名分を整えて陸仁に正妻の枷を嵌め、同時に誓子の身分と六条家への責任を果たすという完璧な解決策は見事に潰れ去った。誓子の異常な依存と精神の脆弱性が露呈した今、高位華族の誰一人としてその火中の栗を拾おうとはしない。

 報告を受けた六条雅武は、その場に深く頭を下げたまま動くことができなかった。臣下として宮家に尽くし、親として娘の幸せを願ってきた道筋が、すべて塞がれていく。

 陸仁という存在なしでは正気を保てない娘と、その娘を精神的に縛り付ける陸仁。そして、その二人を正式に結びつけるための梯子をすべて外された現実。京極宮家と六条家は、逃げ場のない八方塞がりの袋小路へと、着実に追い詰められていった。






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