2000年2月。冷たい寒気が立ち込める季節、八方塞がりとなっていた京極宮家と六条家に、救いの手が差し伸べられた。
他家からの養女打診の辞退が相次ぎ、計画が完全に暗礁に乗り上げる中、名乗りを上げたのは松殿侯爵家であった。当主である慶仁の妃、澄子は九条公爵家の出身であり、松殿家はその九条家の分家にあたる。さらに過去には、伊勢湾台風で惜しくも命を落とした妃候補、松殿寛子を通じて、京極宮家および六条家の双方と浅からぬ縁を結んでいた。
松殿家は「名目上の養女でも構わないのであれば、誓子様を当家の養女として迎えよう」と申し出た。世間や華族社会の目を遮り、陸仁との婚姻へ繋げるための名分を求めていた宮家にとって、この申し出はまさに絶望の淵で差し伸べられた蜘蛛の糸であった。
養女縁組の手続きを進めるにあたり、まずは顔合わせと挨拶を兼ねて、陸仁と誓子が松殿侯爵家の邸宅を訪問することとなった。
松殿家の応接間に通された際、誓子の様子は終始異様であった。見知らぬ邸宅という慣れない環境、そして身内以外の視線に晒される恐怖から、誓子は極度の不安に支配されていた。彼女は陸仁の傍らから片刻も離れようとせず、彼の衣の袖や腕に必死に縋りついていた。指先は白くなるほど強く陸仁の上着を掴み、その身体は細かく震えている。
対面した松殿家の人々は、その光景を温かい目で見つめていた。誓子が陸仁の体温を頼りに必死でパニックを抑え込んでいるという実態を知る由もない彼らは、その様子を「若宮様と睦まじく寄り添う可憐な令嬢の姿」として微笑ましく受け取ったのである。
「仲睦まじいことで結構でございますな。若宮様とこれほどお心が通じていらっしゃるのであれば、当家の養女となられても何の心配もいらないでしょう」
当主の言葉に、陸仁は穏やかな笑みを浮かべ、優しく誓子の背に手を添えて頷いた。
「誓子は少し人見知りをいたしますので。こうして私が近くにおれば安心するのです」
陸仁の完璧な応対と、それに身を委ねる誓子の姿は、表面上はどこまでも穏やかで、微笑ましい婚約内定の風景そのものであった。しかし、その静けさは、陸仁という存在が間近にいることで辛うじて保たれている、危うく脆い「偽りの安定」に過ぎなかった。
松殿侯爵家の当主から別室での書類確認を促され、陸仁がほんの僅かな時間、誓子の傍らを離れた時のことであった。
「失礼いたします。ご挨拶に伺いました。誓子様、本日はようこそお越しくださいました」
陸仁の姿が部屋から消えた直後、挨拶を交わすために応接間に入ってきたのは、松殿家の息子であった。
その瞬間、誓子の体温が急速に奪われていった。
陸仁という絶対的な視界の遮断材を失った空間で、見知らぬ異性が至近距離に立ち、自分へと声をかけている。その事実が、誓子の脳裏に嵐の夜の恐怖を鮮烈に蘇らせた。
「──あ、あ」
喉から引きつったような音が漏れ、誓子の瞳から理性の光が吹き飛んだ。激しい過呼吸が襲いかかり、息を吸うことも吐くこともできなくなる。指先は冷たく強張り、身体はガタガタと震え出した。
「誓子様……!?」
異変に気づいた松殿家の息子が一歩足を踏み出した。だが、その動きが決定打となる。
「嫌ぁぁぁっ! 来ないで! 近寄らないでっ!」
誓子は頭を抱え込み、喉を押し潰すような悲鳴を上げた。足をもつれさせながら後退りし、部屋の隅の壁に背中を打ち付けながら身を縮めさせる。焦点の合わない瞳で左右を見回し、意味をなさない拒絶の言葉を狂乱したように叫び続けた。
「──! 誓子!?」
悲鳴を聞きつけた陸仁と松殿家当主が、廊下を駆け戻ってきた。
応接間の惨状と、壁際で爪を立てて怯える誓子の姿を目にし、松殿家の父子は言葉を失い呆然と立ち尽くした。
陸仁は素早く誓子の元へ歩み寄ると、その華奢な身体を抱き寄せ、穏やかに背をさすった。陸仁の体温と匂いを感じ取ると、誓子の激しい恐慌は徐々に収まりを見せ、彼女は陸仁の胸に顔をうずめてしゃくりあげ始めた。
陸仁はあえて痛切な情を滲ませた表情を浮かべ、愕然としている松殿家当主へと視線を向けた。
「見てしまったか」
静まり返った部屋に、陸仁の押し殺した声が響く。松殿家当主は息を呑み、震える声で返した。
「これは……」
「噂には聞いておろう、誓子の様を」
「噂には聞いておりましたが、これほどまでとは……」
当主の言葉を受け、陸仁は深く重い息を吐き出した。
「ああ。私や父、六条の身内が近くにいなければ発症してしまうのだ」
「何と……。では、殿下が先ほどまで近くにおられたのは」
「そうだ。誓子を恐慌状態に陥らせないためだ」
語られる事実に、松殿家当主の顔に動揺が広がる。
「殿下。六条殿を守りなさるのは……あの噂の通り故ですか?」
「そうだ」
陸仁は迷いのない目で頷いた。当主は深く納得したように頷きを返す。
「なるほど。子爵令嬢のままでは家格の違いで娶れぬから、我が松殿の養女とされたわけですか……」
「ほかならぬ松殿家ゆえ、真実を話そう」
陸仁はそう前置きすると、痛みに耐えるかのように表情を陰らせた。
「お聞きしましょう、その真実とやらを」
松殿家当主が居住まいを正すと、陸仁は静かに語りを再開した。
「昨年の秋に我々がピクニックに行った際、嵐に遭ったときの出来事は聞いておろう」
「背びれ尾ひれがつき、不敬極まりない噂であれば」
「その噂は私も知っているが、噂の結末は合っている。そこに至るまでは事実無根のことが面白おかしく吹聴されておるがな」
当主が息を呑むのを確かめ、陸仁は静かに語り継いだ。
「あの夜、様子を見に行った私に、激しい雷鳴に目を覚まし、暗闇と雷雨に怯えきった誓子が、取り乱して抱き着いて来たのだ。噂のように六条夫人と間違えられて抱き着かれたわけではない。幼き頃より共に過ごした誓子には、私としても特別な情があってな。無下に引き離すこともないと、かつて幼い頃にそうしたように、彼女の背を撫でて慰めておったのよ」
陸仁は自責の念を込めるように、腕の中の誓子を強く抱きしめた。
「うかつにも、誓子がもう昔の幼子ではないということを忘れてな。誓子は見ての通り女性として非常に魅力的だ。抱きつかれ、慰めてはいたものの、あの時は軽装でな。普段の装いからは想像もつかない、あまりにも無防備な姿だったのだ」
当時の情景を思い起こさせるような間を置き、陸仁は絞り出すような声で言葉を続けた。
「抱きしめているうちに、身体の柔らかさと香りに男として理性の限界を感じてしまってな。誓子の名誉と尊厳を絶対に汚してはならないと、突き放したのだ。誓子はあの夜の恐怖と、何より信じていた私に乱暴に拒絶されたという精神的衝撃で錯乱してしまった。結果として私が彼女の心に消えない傷を負わせてしまったのだ」
その言葉には、己の過ちを悔いる苦痛が色濃く滲んでいた。
「誓子の心には、私が理性を保つために彼女を拒絶し、激しく突き放したあの瞬間が、恐ろしい『男の暴力』として固定されてしまっている。誓子も理解はしているのだが、どうにもならぬのだ」
一呼吸を置き、陸仁は残酷な現実を語った。
「誓子が安心できる異性と言えば、我が父と弟、六条の身内、そして傍から見れば理不尽極まりないとは思うが、幼き頃より共に過ごしてきた加害者の私だ。誓子はもはや、他家へ嫁には行けぬ」
陸仁の表情には、重い決意が宿っていた。
「家令の六条に我が宮家は大きな借りがある。その六条の娘である誓子を壊したのは私だ。私には誓子を娶らねばならぬ義務がある。さもなくば我が宮家は永遠に卑怯者になってしまう。この病は遺伝するものでもない。子孫に引き継がれることも無いのだ」
語り終えた陸仁は、誓子を抱いたまま、松殿家当主に向かって深く頭を下げた。
「ここは見なかったことにしてくれ。頼む」
若宮である陸仁が頭を下げる姿に、応接間には静寂が落ちた。
若宮が見せた痛々しいまでの誠実さと、語られた凄惨な裏事情を察した松殿家当主は、隣に立つ息子へと向き直り、静かに問いかけた。
「何か特別な出来事があったか?」
息子もまた当主の意図を察し、冷静な口調で応じた。
「いいえ、何もございません。若宮様はお疲れの御様子。転寝なされて悪い夢でもご覧になったのでしょう」
出来事そのものを無かったことにするという松殿家の決断を受け、陸仁と誓子は無言のまま、深く感謝の頭を下げた。