※この作品はR-18です。

陸仁王物語―異伝―   作:fire-cat

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第23話

 2000年2月。

 松殿侯爵家で起きた誓子の心的外傷後ストレス症の発症という極秘情報は、秘密裏に処置されたはずであったが、その異様なる歪みは水面下で浸透し、宮内省、さらには皇室の長老である香耶宮恒文王と東伏水宮慈照王の耳へと届いていた。

 この状況を受け、香耶宮恒文王は東伏水宮慈照王と極秘に会談を行った。

 

「例の噂をお聞きしましたかな? 今が良い機会でしょう。……寛代子と、我が孫の婚約の件を大至急、白紙にもどします」

「……良いのか? 噂では、雅忠と寛代子は去年の暮れ、互いに想いを残しながらも『臣下と皇族』として一線を引き、涙を飲んで決別したと聞くが?」

 

 慈照王の問いかけに、恒文王は冷酷なまでに断烈な鼻笑いを漏らした。

 

「若者どもの涙や覚悟など、皇室百年の大計の前には一片の塵に過ぎませぬな。あやつらが勝手に閉じた扉なら、我らが上から叩き割ってこじ開けるまで。愛だの諦めだのという小事のために、皇室と六条家の構造的危機を放置できませぬ」

「……こうと決めたら相変わらず容赦がないな、恒文王殿。……だが、道理だ。香耶宮家が自ら婚約を『辞退』し、議題を『寛代子殿下の六条家への降嫁』に差し替えれば、京極宮家も慶仁も逃げ道がなくなる」

「それだけでは足りませぬ。誰の面目も潰さぬ完璧な手配を整えねば。我が孫には、鷹司公爵家の規子嬢との縁を頂きましょう。あの姫なら我が孫との釣り合いは取れる」

「ふ……鷹司公爵家に嫁いだ西園寺真理子殿の薫陶を受けた規子嬢か。其方の孫が和歌の歌合戦で苦労しそうだが、面目は十分以上に保たれよう。……では、雅忠の婚約者であった木幡伯爵家の彩子殿はどうする?」

「木幡家には皇女降嫁という『不可抗力の国家的事情』を理由に円満解消を申し入れ、彩子殿には即座に別の良縁を斡旋しましょう。徳大寺か正親町三条に年頃の若者がいたはず。宮内省に圧力をかけ、今夜中に試案を作らせましょう。……この案、慈照王は乗りますかな?」

 

 慈照王が低く笑った。その声には、かつて数々の政変を裏で動かしてきた怪物としての凄みが宿っていた。

 

「乗るも何も、最初から答えは決まっておろう。……慶仁らの甘い妄想を打ち砕き、皇室と華族の鎹を打ち直す。宮内大臣を呼び出そう。恒文王、病み上がりなのだから無理はなさるなよ」

「閻魔に嫌われ、長生きしてみますかな」

 

 慈照王が去り静まり返った執務室で、恒文王は卓上の菊花紋の書簡を冷ややかに見つめた。

 当事者たちの悲恋も、親たちの勝手な算段もすべて踏みにじり、長老たちの冷徹な盤面の上で、一度閉ざされた降嫁の扉が力づくで今、再び開かれようとしていた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 二人の長老皇族は、単なる臣下の家騒動を超えた「皇室の将来と、かつて宮家を救った六条家への報恩」という大意において完全に意見を一致させた。

 一方で、六条雅武の長男である雅忠の婚約者・彩子の実家である木幡伯爵家側も、六条家を取り巻く不穏な空気や誓子の異状を察知していた。娘の将来と家格の保身を考慮した木幡家は、「六条家との縁組み」に対して密かに強い躊躇と難色を示し始めていた。

 

 数日後、香耶宮恒文王は京極宮当主である慶仁と宮内大臣を別邸へと呼び出した。室内には重苦しい威厳が満ちていた。慶仁が恭しく着座するやいなや、恒文王は鋭い眼光を向け、一切の含みを持たずに重大な裁定を告げた。

 

「我が孫と寛代子殿下の婚約の話は、取りやめといたす。寛代子殿下は、六条子爵の嫡男、雅忠に降嫁させるべきである」

 

 唐突で思いもよらぬ決定に、慶仁は激しく息を呑み、驚愕の表情を浮かべた。

 

「恒文王殿下……! 一体いかなる理由でございましょうか。香耶宮家との縁組は双方の合意のもと進められておりましたし、何より寛代子を、恩ある雅武の息子とはいえ家令である六条家の嫡男に下すなど……」

 

 困惑を隠せない慶仁に対し、恒文王は静かに、しかし含みを持たせた深みのある声で言の葉を重ねた。

 

「慶仁よ。お前は誓子嬢の引き取り先として松殿侯爵家を養女先とし、それを経由して陸仁の正室に迎えることで、六条家への報恩と責任を果たしたつもりでいるのだろう。……だがな、それは単なる『義務の遂行』に過ぎん。莫大な恩義に対する報恩にはなっておらんのだ」

「義務の遂行、でございますか……?」

 

 言葉の意味を汲みかねる慶仁を見つめ、恒文王は首を横に振った。

 

「松殿侯爵家が養女として引き受けてくださったのは結構なことだ。だがな、かつてお前がどれほどの危難において六条雅武に救われ、その献身によって今日があるかを思い出せ。いま、六条は娘の発症によって塗炭の苦しみに喘いでおる。そこに『病んだ娘を引き取り、若宮の妃にしてやる』という一方的な救済を差し出すことが、本当に恩に報いる姿勢と言えるか? それは宮家の体面を守るための恩着せがましい処理に過ぎん。そもそも六条の娘がああなった一因は其方の若宮にあるのだぞ。若宮の妃にすることは当然の義務を果たしたにすぎん」

 

 恒文王は一拍を置き、慶仁の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。

 

「本当に功恩の清算を為すならば六条の次男を娘しかおらぬ家に婿入りさせ、次女を格上の家に嫁がせるよう、京極宮家が斡旋する程度のことはせねばならぬ」

「なるほど。それほどの斡旋を提示すれば、寛代子の降嫁までは求めずに済むとおっしゃるのですな」

「通常であればな。だがな……今儂が述べたことだけでは足りぬのだ、京極宮家にはそれだけの宿債があったと心得よ。六条の功に報いるにはそれだけでは足りぬのだ」

「は? 先ほどの件だけでは足らぬと? それほど雅武に恩があったとは……?」

「甘い! ……其方、今まで六条の何を見ておった! 到底足らぬわ! 宿債の完全な清算には京極宮家の姫である寛代子を、六条の嫡男である雅忠に嫁がせるしかないのだ。六条の次男の婿入りと次女の格上の家への嫁入りという利に加え、臣下たる六条家に対し女王たる寛代子を降嫁させるという最大の栄誉と血の結合を与えることこそが、六条雅武の功績と犠牲に対する真の報恩なのだ」

 

 さらに恒文王は、慶仁の浅薄な計略を打ち砕くように続けた。

 

「高位華族の養女という上辺の体裁を取り繕ったところで、他家が難色を示せばすぐに破綻するような脆い策など何の意味もない。香耶宮家が自ら身を引く。それによって京極宮家は世間に対し『六条家への格別の功とそれに報いるための降嫁』という絶対の大義名分を得るのだ。これならば、誰も文句は言えん」

 

 長老の言葉に込められた圧倒的な大局観と、自らの認識の甘さを突きつけられ、慶仁は返す言葉を失い、ただ深く頭を垂れるしかなかった。

 恒文王は「京極宮家の六条家に対する宿債の清算」を絶対の大義名分とし、正式な皇族会議に諮られる前に、香耶宮家側から「孫と寛代子の婚約」を自主的に辞退する手順を定めた。これにより、議題は「寛代子の六条雅忠への降嫁」へと一気に差し替えられることとなった。

 さらに、雅忠と木幡伯爵家二女との婚約についても、長老皇族の裁定と皇族の降嫁という不可抗力を前に、皇族会議前に円満解消される手はずが調えられた。

 報告を受けた木幡伯爵は、安堵と複雑な思いの混ざり合った溜息をつき密かに胸を撫で下ろした。

 

 長老たちの冷徹かつ大局的な決断により、個人の惑いを置き去りにしたまま、巨大な運命の歯車が音を立てて回り始めた。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 香耶宮恒文王と東伏水宮慈照王による大局的な決断は、一瞬にして波紋を広げ、関係各所の思惑を鮮やかに整理していった。それは、誰の面目も潰さず、傷も残さず、すべての当事者を納まるべき場所へと収める緻密な手配であった。

 宮内省と東伏水宮慈照王の手配は迅速を極めた。香耶宮恒文王の孫と寛代子女王との婚約打診は、「皇室の歴史を鑑み、六条家への報恩を為す為の香耶宮家側からの自主的な辞退」という形で処理された。これにより香耶宮家の威信はいささかも損なわれることなく、むしろ皇室全体の大義を優先した高潔な英断として華族の間に強く印象付けられることとなった。

 さらに、自ら辞退をした香耶宮恒文王の孫に対しては、即座に次の縁談が調えられた。相手は旧摂家の一角、最高峰の家格を誇る鷹司公爵家の令嬢、規子であった。

 香耶宮家の若き孫は、新しく提示された縁談の書類と写真を前に、どこか安堵と戸惑いの混ざり合った複雑な表情を浮かべていた。写真に写る淑やかな令嬢の姿を見つめながら、彼はぽつりと呟いた。

 

「た、鷹司公爵家の規子嬢ですか。……いえ、不服はございませぬ。あの方は寛代子とは異なり、深窓の姫君という言葉が良くお似合いの方。そこに不満はないのですが、御母堂が少々……」

 

 言い淀む孫の様子に、傍らに控えていた側近がくすりと笑みを漏らし、口を挟んだ。

 

「ええ、御母堂はあの伝説の西園寺の真理子様でしたから、規子嬢もその薫陶を受けておいでで、和歌に比類無き才能をお持ちとの事です」

 

 側近の言葉に、孫は小さく首を振り、天井を見上げて大きな溜息をついた。周囲の笑いを誘うように困り顔を浮かべ、言葉を継ぐ。

 

「さて、私では和歌の歌合戦に勝てるか自信はありませぬ。父上! ……お爺様もお笑いにならないでください。もとはと言えばお爺様が──」

 

 上座で満足そうに微笑む恒文王を見やりながら孫が文句を言うと、その場に和やかな笑いが溢れた。寛代子との婚約が破談となったことによる香耶宮家内の動揺は影を潜めた。

 一方、六条雅忠との婚約が取り交わされていた木幡伯爵家においても、事態は円満かつ極めて平穏に決着を見た。2月に起きた誓子の恐慌発症の噂を聞きつけ、六条家を取り巻く不穏な情勢に強い不安と躊躇を抱いていた木幡伯爵家にとって、今回の事態は願ってもない救いの船であった。

 宮内省から提示されたのは、「皇女たる寛代子女王の六条家への降嫁につき木幡伯爵家からの婚約の円満な解消の申し出」という、国家的な強い要請であった。不可抗力とも言える大義名分を前に、雅忠と木幡伯爵家二女・彩子との婚約は、一切の遺恨を残すことなく円満に白紙解消された。

 それだけに留まらず、六条家との縁組みを辞退することとなった木幡伯爵家に対し、皇族の後押しを受けた宮内省はすぐさま徳大寺侯爵家との良縁を斡旋した。六条子爵家から徳大寺侯爵家というさらなる高位華族との縁組みへの差し替えに、木幡伯爵は自室で朗報を受け取るやいなや、相好を崩した。

 

「何と。六条家との縁が切れたかと思えば徳大寺侯爵家との縁が結ばれるとは。これは我が家にも運が向いて来たのやもしれん」

 

 父の喜ぶ声を聞きながら、二女の彩子は静かに微笑み、窓の外の空を見つめた。

 

「そうでございますね」

 

 彩子は胸の中で、幾度も文を交わしあった時間に思いを馳せ、静かに祈りを捧げた。

 

(雅忠様、彩子は幸せになります。雅忠様もどうかお幸せに)

 

 誰一人として面目を潰されることなく、傷つくこともない。長老皇族たちの冷徹なまでの権謀術数と完璧な手配により、盤上の駒はすべて完璧な位置へと配置し直されたのであった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 納采の儀が滞りなく執り行われ、京極宮邸の大広間ではその婚約を寿ぐ華やかな宴が開かれていた。

 会場には慶仁と澄子をはじめ、京極宮家にゆかりのある華族たちが一堂に会し、酒杯を掲げて至高の吉事を祝福している。歓談の声と祝賀の言葉が満ちる中、大人たちの表情に浮かんでいたのは、単なる慶びだけではなかった。

 

「これで……ようやく、ひと段落付きましたな。後は六条の次男の婿入り先と次女の嫁入り先を決定すれば六条家との宿債は清算されますな」

 

 慶仁と澄子の傍らで、列席した華族の一人が安堵の笑みを漏らした。かつて六条雅武によって宮家が救われたという絶大な恩義、そして誓子の発症によって生じた泥沼の失策。それらすべてに対し、寛代子を六条家の嫡男へ降嫁させるという最高の栄誉をもって応えた──。慶仁と澄子もまた、にこやかに頷き合いながら、胸の内で深く息を吐いていた。これで宮家の体面は保たれ、今まで気が付かなかった六条家への宿債も清算されたのだ。という思いが、彼らの顔に満足げな笑みを浮かべていた。

 その賑やかな宴席の中心で、主役である二人だけは、周囲の熱気から切り離されたかのような静寂の中にいた。

 雅忠は一挙手一投足の所作に至るまで、寸分の隙もない完璧な「臣下としての礼儀」を保ち続けていた。未来の宮家令として、あるいは降嫁を受ける臣下として、立ち振る舞いに一切の乱れを見せない。しかし、杯を交わすわずかな合間に寛代子と視線が重なった瞬間、その瞳の奥には言葉にできない切なさと、運命の皮肉を噛み締める色が濃く滲んでいた。

 寛代子もまた、恭しく礼を執る雅忠の姿を見つめながら、胸を押し潰すような複雑な思いに苛まれていた。

 かつてあの別館で、「寛代子殿下」と恭しく呼ばれ、明確な線を引かれて拒絶されたあの日。どれほど切望しても手に入らないと絶望し、諦めたはずの「雅忠の妻」という立ち位置。それが今、こうして自分の元へともたらされた。だが、それは純粋な愛の結実として与えられたものではなく、宮家と六条家という巨大な「政治的清算の道具」としてあてがわれたものに過ぎない。

 求め続けた結末が、最も望まぬ形で叶えられたという不条理。

 祝福の歓声とグラスの重なる甲高い音が響き渡る大広間で、大人たちの安堵の視線を浴びながら、二人は互いに秘めた切なさを胸の奥底へと押し隠し、ただ静かに微笑みを交わし合うのであった。

 年末のあの昼を最後に「二度と交わらない」と心に決め、互いの手を離した二人であった。己の感情を殺し、未来の臣下と宮家の皇女として徹頭徹尾境界線を引くことこそが、互いへの唯一の誠実さであると信じ込んでいた。血を吐くような覚悟をもって諦めたはずの想いが、今や自分たちの意思とは一切無関係なところで手繰り寄せられている。

 皇室の将来、臣下への宿債清算、巨大な政治の権謀術数。個人の情愛など歯車の一片に過ぎない不可抗力の波によって、一度切り裂かれたはずの結び目が再び、強固に縫い合わされたのである。

 やがて宴が果て、納采の儀に纏わる一連の公的な務めを終えた後、人目が途絶えた静かな別館の廊下で、雅忠と寛代子は二人きりになった。

 静寂が二人を包み込む。寛代子はゆっくりと振り返り、眼前のおごそかな身なりをした雅忠を見つめた。その瞳には、溢れ出そうになる涙と、逃れられぬ運命に対するかすかな苦笑が浮かんでいた。

 

「雅忠……。運命って皮肉よね。あの血を吐くような覚悟は何だったのかしら」

 

 ぽつりと漏れ出た寛代子の声は、震えていた。己の想いを封じ込め、香耶宮家の若宮との婚姻を受け入れようと必死に耐え抜いた日々が、一瞬にして上書きされたことへの惑いと、偽らざる切なさがそこにはあった。

 雅忠は一歩を踏み出し、恭しく頭を下げかけたが、その動作を途中で止めた。もはや彼らの間を隔てる臣下としての壁は、皇室の裁定という巨大な大義名分によって打ち砕かれていた。雅忠は深く息を吐き出し、静かに言葉を返した。

 

「ええ。ですが……」

 

 言葉は途切れたが、その一言に込められた重みを寛代子は正確に汲み取った。運命の悪戯であろうと、政治の道具であろうと、目の前にいる男が自分を思っているという事実だけは揺るぎないのだと。

 

「ええ。想いが適ったわ。ねえ、あの別れの時の言葉、信じてもいいのよね」

 

 寛代子は雅忠の胸元へ一歩歩み寄り、すがるような眼差しで彼を見上げた。雅忠はまっすぐに彼女の瞳を見つめ返し、力強い声で応えた。

 

「あの言葉は偽りなき私の心です」

 

 次の瞬間、抑えきれなくなった感情が溢れ出し、二人はどちらからともなく互いを強く抱きしめ合った。

 交わした腕の力強さと相手の温もりだけが、狂おしい現実の中で唯一の真実であった。二度と触れられぬはずだった腕の中に寛代子を抱き締めながら、雅忠は己の運命の不条理と、それ以上に胸を焦がす愛おしさを噛み締めていた。

 

 二人が身を寄せる廊下の角、少し離れた柱の陰で、その光景を静かに見守る人影があった。京極宮家に長年仕え、二人のかすかな情愛と葛藤を誰よりも近くで見守り続けてきた年配の女官である。

 女官は胸の前で両手を固く握りしめ、目元を濡らしながら、声にならない祈りを呟いた。

 

「姫様……ようございました」

 

 

 自らの意思を超えた巨大な渦に呑み込まれながらも、重なり合った二人の影は、深く静かな静寂の中に溶け込んでいった。

 

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