2000年1月下旬、京極宮邸の政務室には重々しい静寂が満ちていた。
室内の文机の上には、厚みのある和紙で仕立てられた書類の束が美しく整えられて並べられている。光沢のある墨で記されているのは、六条雅武の長女・誓子を松殿侯爵家へ養女として移籍させるための、水面下の手続きに関する一切の記録であった。
戸籍の異動に関する合意文書、両家の親族書、そしてしかるべき手続きを経て作成された誓約書。慶仁、澄子、そして六条雅武の三人は、秘密裏に進めてきたこの複雑極まりない工作を、ついにすべて完了させたのであった。正式な入籍および法的効力の発生は、「誓子が二十歳を迎える冬」と明確に定められている。
卓上に揃えられた寸分の隙もない書類一式を見つめ、慶仁は深く椅子に背を預け、安堵の息を吐き出した。
「……これで、すべての手はずが整ったな」
慶仁の呟きに、傍らに立つ妻の澄子が静かに頷いた。
「ええ。松殿侯爵家との打ち合わせも、宮内省との水面下の調整も終えました。これで誓子の引き取り先は完璧に確保されましたわ」
慶仁たちの狙いは、誓子を松殿家の養女という高位華族の格へ一度引き上げ、その上で陸仁の正室として京極宮家へ迎えることにあった。そうすることで、かつて誓子の心的外傷後ストレス症発症のきっかけを作った陸仁に「公的責任」という重大な鎖を嵌め、一生をかけてその責任を負わせる手筈を完成させたのである。
さらに政務室の卓上には、もう一束の書類が用意されていた。誓子(松殿家養女)と陸仁との婚姻を正式に認可させるため、皇族会議へ提出する予定の決定文書草案である。慶仁と雅武は、事前に各皇族当主や宮内省幹部への丁寧な根回しを行い、すでに必要な承諾と合意書を取り付け終えていた。正式な可決は春から夏に予定されている寛代子の納采の儀の直前と設定されていたが、慶仁たちにとっては形式的な手続きを残すのみの、完璧な「王手」であった。
六条雅武は控えていた位置から一歩前へ進み出ると、慶仁と澄正に対して恭しく頭を下げた。
「宮様、妃殿下。長きにわたるご苦慮、誠にありがとうございました。これで家令としての責務を果たすことができ、娘の将来にも確かな道筋が立ちました」
雅武の言葉に、慶仁は満足げな笑みを浮かべた。
「何を言うか、雅武。お前がかつて我が宮家のために尽くしてくれた恩に比べれば、これくらい当然のことだ。これで京極宮家の体面も守られ、誓子の将来も完全に防衛された。何一つ抜かりはない」
三人の胸中にあったのは、自らの策謀が完璧に結実したという揺るぎない勝利の確信であった。
数日後、香耶宮恒文王の執務室において、密かに東伏水宮慈照王との会談の場が設けられていた。卓上には、1月下旬に京極宮邸の政務室で行われたという「松殿侯爵家への養女移籍完了」に関する内偵の報告書が置かれている。
「恒文王よ。慶仁たちはあの書類の山を前に、これで一切の不安を払拭し『完璧な王手』を指したと深く安堵していたそうだな」
慈照王は、呆れと静かな怒りが入り交じった低い声で報告書を指先で弾いた。
「ええ。誓子嬢を松殿侯爵家の養女とし、陸仁の正室に迎えることで、すべてを『公的責任』という鎖で縛り付けたつもりなのでしょう。慶仁殿も澄子妃も、自らが敷いたレールによって京極宮家の体面と誓子嬢の将来を完全に防衛したと、微塵も疑っていないようです」
恒文王は冷ややかに応じ、静かに首を振った。
「浅薄極まりない。病んだ娘を高位華族の籍を借りて引き取るなど、単なる若宮の不始末の処理であり、当然の義務の遂行に過ぎん。莫大な犠牲を払ってきた六条家に対する真の報恩などでは断じてないのだ」
「その通りですな。他家の名誉ある籍を盾にして体裁を取り繕ったところで、そのような脆い策は何の意味も持ちません。何より恐ろしいのは、雅武があの決定を家令としての責務と受け入れ、歪な関係を自己犠牲として飲み込んでしまったことです。慶仁は乳兄弟の情に甘え切り、その歪さに全く気が付いておらぬようで」
恒文王は深く溜息をつき、老境に入ってなお鋭い眼光を窓の外へ向けた。
「だからこそ、我々が介入し、寛代子を六条の嫡男である雅忠へ降嫁させるという真の報恩を突きつけるほかなかったのです。あの者たちの自己満足を放置すれば、京極宮家と臣下との不均衡は限界を迎え、いずれ内側から崩壊していたでしょう」
「ああ。完璧に築き上げたと思い込んでいるあの書類の山の下で、どれほど恐ろしい個人の感情と狂おしい歪みが圧縮されているか。慶仁たちには、生涯理解できまい」
二人の長老皇族は、当主たちの見通しの甘さと、自らが下した大局的決断の重さを噛み締めるように、重々しい沈黙を共有した。彼らの冷徹な政治的視座だけが、宮家を覆う危うい現実を正確に見抜いていた。
政務室での合意を経て、宮邸内ではもう一つの処置が静かに実行された。二十歳の誕生日を間近に控えた誓子の、居室の移動である。
松殿侯爵家への養女移籍の手続きが水面下で完了したことにより、宮邸内における誓子の立ち位置は一変していた。単なる家令の娘や静養中の身ではなく、「松殿家の養女として将来の若宮妃となる人物」という極めて高い格と儀礼上の取り扱いが求められるようになったのである。
これにより、当初予定されていた女官たちの共同部屋への配置は白紙撤回され、誓子は本館内に新設された、その格に相応しい別の個室へと居室を移動させられることとなった。
部屋の移動に伴い、側で仕える女官たちの態度にも明らかな変化が生じていた。
「誓子様、お荷物の運び出しはすべて完了いたしました。新しいお部屋へご案内いたします」
恭しく頭を下げて案内する女官の姿を、誓子は静かな瞳で見つめていた。衣服や身の回りの調度品が運ばれていく様子を眺めながら、誓子は自らの置かれた運命の奇妙さを噛み締めずにはいられなかった。
自分の意思や心の傷とは無関係なところで、大人たちの思惑と書類の手続きだけが着々と進み、己の立場が書き換えられていく。新しい部屋の重厚な扉が開かれたとき、そこには華やかでありながらも、どこか冷ややかな静寂が広がっていた。
慶仁、澄子、雅武が「完璧な防衛」と「安堵」を疑わずに噛み締めていたその裏で、大人たちの誰も予測し得ない巨大な運命の歯車が、音もなく回転を始めていた。