※この作品はR-18です。

陸仁王物語―異伝―   作:fire-cat

34 / 60
第25話

 政務室の重厚なマホガニーの机の上には、幾重にも及ぶ公的な書類と、金箔の押し加工が施された皇族会議の決定文書がうやうやしく広げられていた。

 誓子が二十歳の誕生日を迎えて間もない、静かな午後のことである。

 

 机を挟んで座すのは、京極宮家の当主である慶仁、その妃である澄子、そして宮家家令であり誓子の実父である雅武の三人。その顔には、長年にわたる重圧からようやく解放された安堵と、最高位の解決策を完遂したという揺るぎない達成感が漂っていた。

 呼び出された陸仁は、微動だにせず三人に向かい合って立っていた。

 慶仁は机上の書類にゆっくりと視線を落とした後、重厚な声を室内に響かせた。

 

「誓子が二十歳を迎えた。……松殿侯爵家との手続もすべて滞りなく完了している。これにより誓子は六条子爵家の娘としてではなく、由緒ある松殿侯爵家の令嬢として宮家に迎えられることとなった」

 

 慶仁の横で、雅武は深く静かな一礼を捧げていた。実の娘を一度別の家へと籍を移さねばならなかった苦渋と、それでも「高位華族の養女」という最高格の身分を用意し、臣下の娘としての傷を完全に消し去ることができたという誇りが、その胸中に交錯している。

 

「身分上の格付け、華族社会への根回し、そして皇族の体面──すべて完璧に整え終えた」

 

 慶仁は決定文書を指先でトントンと叩き、陸仁をまっすぐに見据えた。

 

「──以上だ、陸仁。縁談の準備が整い次第、誓子を貴様の妃として迎え入れる。これは既に皇族会議においても正式に決定された事項だ。公的にも、法律的にも、もう後戻りはできん」

 

 慶仁の言葉には、当主としての絶対的な威厳と、逃げ場を完全に塞いだという絶対の確信がこもっていた。

 

「これで貴様も、生涯己の犯した過ちから逃れられぬ責任を負うことになる。誓子を生涯かけて償い、庇護し続けるという鎖を……自ら背負うのだ」

 

 澄子は整った面容に冷ややかな静寂を湛え、息子の「降伏」と「免罪の受け入れ」を見届けようと静かに視線を注ぎ、雅武は眉間に深い皺を刻んだまま、娘の未来が「公的な責任」によって保障されたことに安堵の息を漏らしていた。

 大人たちは疑っていなかった。

 松殿家への養女移籍という家格の引き上げも、皇族会議という最高意思決定機関を通した不可逆の決定も、すべては暴走した若宮を縛り付け、被害者である誓子を守るために自分たちが手繰り寄せた「完璧な罠」であると。

 

 しかし、その報告を静かに聞き届けていた陸仁の唇に、ゆっくりと、恐ろしいほどに甘美で冷徹な笑みが浮かび上がっていくのだった。

 

「父上、母上。そして義父殿」

 

 陸仁の低い声が、静まり返った部屋の空気の密度を変えた。

 

「──深く感謝申し上げます。私の望んだ最高の舞台を、これ以上ない完璧な手際で整えてくださった」

 

 その一言に、室内の空気がわずかに変質した。感謝の言葉にしてはあまりにも余裕に満ち、どこか見下ろすような響きが含まれていたからだ。

 

「お気づきではありませんでしたか」

 

 陸仁はゆっくりと背筋を伸ばし、三人を見渡すと淡々と、しかし決定的な真実を語り始めた。

 その佇まいは、糾弾される罪人ではなく、盤上の駒を全て詰め終えた王者のそれであった。

 

「皆さまは、私が責任という鎖に縛られたとお考えのようですが……大きな誤解でございます。私が真に壊したかったのは、誓子の精神でも、ましてや六条の家でもありません。誓子が身分違いを恐れるあまり、私との間に必死に貼り付けていた……あの鬱陶しい『完璧な女官の仮面』です」

 

「何……?」

 

 慶仁が不審げに目を細めた。

 

「誓子は幼い頃から私を慕ってくれていた。私も誓子を妹のように思っていました。ですが……あれは確か、私が17の夏でした。雅忠に届け物をした、成長した誓子に出会った時、私の中で何かが軋んだのです。誓子が仕え始めて二年も経つ頃には、私は誓子の一日の動きを、無意識に目で追っていました」

 

 誓子も同じだったのでしょう。完璧な「女官」の仮面を被った誓子が、己の名を呼ぶとき、一拍だけ遅れる呼吸のこと。廊下ですれ違いざまに、あまりにも滑らかに伏せられる睫毛のこと。自分が他の女官と言葉を交わすとき、近くにいる誓子の指先がほんの僅かに強張ることを、おそらく誓子自身は気づいていなかった──そう語る陸仁の瞳には、昏い熱が宿っていた。

 

「ですが誓子は、私を拒絶するかのように冷たく完璧な礼儀で自らを覆い隠した。……それが、どうしても耐えがたかった。誓子が身分差ゆえに必死で貼り付けていた『完璧な女官の仮面』を叩き割り、その裏に隠された私への慕情を、彼女自身の口から吐き出させたかった」

 

 雅武の息が途切れ、顔から血の気が引いていく。

 

「誓子は六条の家臣としての分を弁え、必死に自らの熱を押し殺していた。あの頑なな防壁を破るには、普通の手段では不可能だったのです。私は誓子のすべてが欲しかった。二年前のあの日の出来事は、本来私が望んでいたものではありませんでした。欲望に負け、誓子を壊しかけてしまった。ですが、あの出来事のおかげで私は望むものを手に入れることができた。臣下としての誓子ではない、私の前でしか見せない乱れた吐息と、隠しきれぬ思慕を吐き出す誓子を」

 

 あまりにも淡々と語られる独占欲の狂気に、部屋を支配する沈黙は重みを増していく。

 

「お二人には感謝しております。私が最も望む形で、誓子を合法的に私のものとするお膳立てをしてくださったことに。誓子の心も身体も、その内に眠る慕情も、完璧な仮面の裏の吐息も……。公的な身分さえ全て私の思い通りになりました。私をここまで導いてくださったこと、深く感謝いたします」

 

 雅武は、喉の奥から絞り出すような声を漏らした。

 

「では……誓子を抱き、追い詰めたのも……全て……」

「ええ。壊すためではない。あの防壁を破り、私に縋らざるを得なくさせるためです」

 

 陸仁は雅武の目をまっすぐに見つめ返した。そこには一切の疚しさも、迷いもない。

 

「今や誓子は、私なしでは生きていけない。そして私も、誓子を誰にも渡さない。父上方が私を縛る鎖だと信じてご用意なさったこの婚姻こそ、私が望み続けた完全な所有の証です」

 

 家令として、そして誓子の父親として、雅武の受けた衝撃は最も深かった。

 娘を救うため、宮家を守るため、隠密の記録を取り、陸仁を「逃げられない公的責任」へと追い詰めたつもりだった。だが、自分が張り巡らせたはずの網は、最初から陸仁の手のひらの上に描かれた模様に過ぎなかったのだ。

 雅武の背筋に、冷たい汗が伝う。恐ろしいほどの敗北感が押し寄せる。しかし、その屈辱の裏側で、雅武の胸には奇妙で歪んだ安堵が芽生えていた。

 

(……若宮様は、誓子を壊すために抱いたのではなかった。娘の本心を引きずり出して愛するために、ここまでの策を弄されたのか)

 

 娘のトラウマと破滅を心配していた父親として、陸仁の狂気じみた執着が「壊すための暴力」ではなく「絶対に手放さないための絶対的な愛と所有」であったという事実は、あまりにも歪んではいるが、絶望の中の唯一の救いでもあった。

 

「我らはまんまと、お前の筋書き通りに動かされていたというわけだ」

 

 慶仁の言葉にも陸仁は答えず、ただ漆黒の瞳に静かな光を宿して微笑む。

 

「許しなど乞いません。ですが……父上達がご用意なさったこの舞台には、心より感謝しております」

 

 深々と頭を下げる陸仁の姿は、礼儀正しく誠実な若宮そのものである。しかし、その姿を前にして、三人の大人たちはもはや言葉を失っていた。

 

「……見事だな、陸仁」

 

 慶仁は、はじめ呆然と息を呑んでいたが、やがてその口元が微かに歪んだ。

 自分の血を引く息子だ。自分と同じく、欲しいものを手に入れるためには手段を選ばぬ激しい熱情を宿した男だとは知っていた。

 だが、その情熱を冷酷なまでの計算で覆い隠し、実の父親と長年政財界や華族社会で丁々発止と渡り合ってきた側近を、見事に踊らせて見せた。

 慶仁自身、若い頃は溢れる情熱と執着で突き進んできた男である。しかし、目の前にいる我が子は、己の情熱と冷酷なまでの計算高さと行動力を過剰なまでに受け継いでいた。

 

(まんまと……嵌められたか)

 

 慶仁の胸中に湧き上がったのは、「してやられた」という悔しさと敗北感。そしてそれを上回る、「ここまでの男に育っていたか」という、鳥肌が立つような歪んだ誇らしさだった。慶仁は思わず「ふ……」と短く息を漏らし、額を押さえた。

 

「……ハッ、ハハハ……!」

 

 笑い声は次第に大きくなり、政務室の重苦しい空気を切り裂いていく。

 それは敗北の悔しさを遥かに通り越し、己の想像を遥かに超えて化け物じみた成長を遂げた後継者に対する、恐ろしいほどの歓喜と称賛の笑いだった。

 

「見事だ、陸仁……! 我らを……この私と雅武を、ここまで完璧に踊らせて見せたか! まさか、この私と雅武が、三十路まで程遠い若造にここまで完敗するとはな……見事なものだな、陸仁」

 

 自分が若い頃に澄子を手に入れた時の強引さなど、この息子の冷徹な密謀に比べれば児戯に等しい。

 慶仁の乾いた笑いが響く中、一人静観していた澄子が、ゆっくりと扇子をパチンと閉じた。

 澄子の眼差しには、驚きとともに、どこか深く納得したような色が浮かんでいた。彼女は陸仁の漆黒の瞳の奥に燃える、決して譲らない狂気的な独占欲を見抜き、優雅でありながらもどこか恐ろしい笑みを唇に刻んだ。

 

「お見事です、陸仁。……その行動力と激しい熱情、そして諦めの悪さ。私たちの良いところも悪いところも、貴方は全て引き継いで生まれたのですね」

 

 澄子は静かに立ち上がり、息子の前に歩み寄った。その顔には悲壮感も怒りもなく、ただ諦念と、すべてを包み込むような深い慈愛の笑みが浮かんでいた。

 

「あの子を……誓子を、壊さずに愛し抜くと、誓えますか」

「もちろんです、母上。私以外の誰にも、彼女の毛髪一筋さえ触れさせはしません」

 

 澄子は溜息混じりに呟くと、悔しさに震える雅武へと視線を向けた。

 

「雅武殿、諦めなさい。あの子のあの目は、一度狙った獲物を死んでも離さない目です。誓子はもう、一生あの子の手から逃げられません。……ですが、あそこまで狂おしいほどの愛を注がれるのであれば、……愛される立場としては最高に幸せなのかもしれませんね……相思相愛である限り」

 

 雅武は深く深く息を吐き出し、力なく頭を下げた。

 

「……若宮様。……見事でございました。もはや、何も申し上げますまい。どうぞ……誓子を、生涯お守りくださいませ」

 

 陸仁は満足げに一礼を返すと、過不足のない優雅な所作で部屋を辞した。

 カツン、と扉が静かに閉じられ、陸仁の足音が廊下の奥へと消えていく。

 残された重厚な政務室には、ただ深い静寂だけが降り積もっていた。

 三人の大人たちは、自分たちが丹念に組み上げたはずの「囚人の籠」が、最初から若宮という怪物を解き放ち、望む獲物を与えるための完璧な道敷きに過ぎなかったという圧倒的な事実に、言葉もなくただ佇むばかりであった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 京極宮邸の政務室で繰り広げられたその「完全なる密謀の種明かし」の真相は、数日の猶予を置かずして、二人の長老皇族──東伏水宮慈照王、香耶宮恒文王の耳へと届いていた。

 慶仁や雅武が「見事な勝利」として受け入れざるを得なかった陸仁の独壇場。しかし、明治・大正・昭和の激動と宮家存続の闇をその身で潜り抜けてきた長老たちにとって、それは単なる「青臭い若宮の智謀劇」に過ぎなかった。

 

 東伏水宮邸の奥深く、外光を遮った重厚な応接間で、香耶宮恒文王は忌々しげに吐き捨てた。

 

「己の息子に手玉に取られて喜ぶバカがあるか! 父親としても宮家当主としても完全なる敗北であり、失策以外の何物でもないものを、己の血筋の業だの誇らしさだのにすり替えて自己満足に浸るとは……実に浅薄で滑稽千万。恩義の清算と私情の暴走を混同しおって! 澄子も『愛される立場としては最高に幸せ』などと、学者らしからぬ冷静さを欠いた能天気な詩的解釈で事を収めようとしておるが、正気の沙汰ではない。これは『婚姻』ではなく、一人の臣下の娘を狂気の檻に閉じ込めただけの怪奇譚だ。宮家の体面を守ったと信じ込み、息子の暴走を『我が子の成長』と錯覚して満足するあたり、慶仁も澄子も、宮家当主夫妻としての器量が根本から欠落しておる」

 

 そして目を閉じ深く息をつく。

 

「雅武も焼きが回ったな。慶仁を地獄へ落とさぬため、宮家を守るために政務の泥をすべてかぶってきた男が、最後は我が娘を破滅させた加害者の『絶対的な愛』などという都合の良い妄想にすがり、敗北を誤魔化すとは哀れなものだ。娘の心的外傷と狂乱を『自分なしでは生きていけないようにするための策略』と告白されて安堵するなど、父親としても家令としても失格だ。奴がこれまで積み上げてきた血の滲むような献身も、この一事をもってすべて台無しではないか」

 

 その激しい叱責を、上座の慈照王は茶器を静かに置きながら冷徹に受け止めた。

 

「恒文王よ、怒る気持ちは判る。だがな、すでに誓子嬢も松殿の籍に入ってしまったのだ。手続き上、誓子嬢は『高位華族である松殿侯爵家の令嬢』として皇族会議を通過し、身分上の格付けは完璧に整えられている。公的に何ら問題のない『正しい婚姻』として外形が完成してしまっている以上、今さらこれを破談にして裏を暴けば、傷つくのは我が皇室の体面ぞ」

「……ええ。わかっております。それに六条の次男の婿入り先と次女の嫁ぎ先の選定が始まり、寛代子と雅忠の縁談で京極宮家と六条家の莫大な宿債を清算した今、今さら白紙に戻すわけにはいきません」

「その通りだ。それに、だ」

 

 慈照王は続けた。

 

「陸仁の異常な独占欲と執着を考えると、下手にこの婚姻を破談にすれば、あ奴がさらに暴走して宮家や皇室全体を巻き込む破滅的な醜聞を引き起こしかねん。誓子嬢という唯一の枷によって陸仁が大人しく宮家を支えるというならば、それが最も安全な抑止力となろう。まして本人がそれを望んでいる状態であればな。毒をもって毒を制す、ということだ」

 

 恒文王は細い眼光を崩さぬまま、静かに手元の極秘報告書を閉じる。

 

「それにしても……臣下の娘の仮面を剥ぎ取り、己に縋らざるを得ぬ恐慌状態に追い込んで完全な所有? 唾棄すべき傲慢さと自己愛ですな」

「あれを『王者の貫禄』と勘違いしているあたりが、まだ三十にも満たぬ若造の浅はかさよ。本物の宮家当主とは、己の欲望のために家や臣下を壊す者ではない」

「陸仁のしたことは、見事な密謀に見えて、その実、極めて危険な綱渡りでございますな。誓子嬢の精神を極限まで解体し、己の望む形に再構築して共犯者へと仕立て上げた。そして大人の罪悪感と体面を利用し、自らが望む『合法的な完全所有』の環境を大人たち自身の手で作らせた。……才知としては恐ろしいものですが、あまりにも歪んでいる」

「うむ。慶仁らは『相思相愛の狂気』などと美化しておるが、これは皇族としての常軌を逸した暴挙に他ならん」

 

 慈照王の眼光が冷たく光る。

 

「陸仁は、自分が盤上の支配者であり、すべてを手のひらで踊らせたと自負しておろう。……だが、あやつが崩したのは誓子嬢の仮面だけではない。自らが背負うべき『宮家当主としての品格』と『公的な倫理』という土台そのものを、己の個人的な執着のために削り取ったのだ。あ奴は『自らの意思で地獄へ落ちる共犯者』を得たと悦に入っておるが……一人の女の人生をそこまで歪めて縛り付けることが、どれほどの『業』を生むか。あの者はまだ、その真の代償を知らん」

 

 長老二人は、陸仁が手に入れた「勝利」の恐ろしい脆弱性を見抜いていた。

 慶仁や澄子が感嘆した陸仁の冷徹な熱情は、一歩間違えれば宮家を根底から破滅させる不祥事の種であった。このまま手を拱いていれば、京極宮家は内側からこの若宮の歪んだ狂気によって自滅する。

 

「……叩き潰すのは容易い。だが、あの怪物じみた執着と智謀は、将来慶仁亡き後の京極宮家を支える絶対的な柱ともなり得る、か」

「いかがなさいますか」

 

 恒文王が問う。

 慈照王は静かに深く頷いた。

 

「あ奴を呼び出す。そして己が万能の神であると錯覚している若造に、皇族の長老として、そしてこの暗い世界を生きてきた先達として、消し去れぬ刻印を刻んでやるわ」

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 数日後。

 陸仁は慶仁らの同席を一切許されぬまま、東伏水宮邸の最奥にある別館へと召還された。

 静寂が支配する部屋の中央。上座には老齢でありながら圧倒的な威圧感を放つ東伏水宮慈照王、そしてその傍らに冷徹な佇まいの香耶宮恒文王が座していた。

 陸仁は過不足のない完璧な所作で恭しく頭を下げた。

 

「頭を上げよ、陸仁。……慶仁や雅武相手に、実に見事な大立回りを演じたそうだな」

 

 慶仁たちを完敗させたあの冷徹な余裕を崩さぬまま、長老たちに対峙する陸仁。

 

「長老方の耳にまで届いておりましたか。……父上方には、私の我が侭と勝手を温かくお許しいただいたばかりでございます」

「『我が侭』で済むと思っているのか、戯けが」

 

 突如として放たれた恒文王の喝破が、部屋の空気を氷結させた。陸仁の眉が、ほんのわずかに強張る。

 

「貴様は慶仁や雅武を踊らせ、誓子嬢の心を折り、自らの望む婚姻を勝ち取ったことで、己が世界のすべてを支配したと思い上がっておるのだろう。だがな、陸仁。貴様が手に入れたものは『勝利』ではない。ただの『底なしの泥沼』だ。貴様は自らの欲望のために、臣下の娘の尊厳を破壊し、逃げ場を奪って己の都合のいい存在へと作り変えた。……それを『愛』と呼び、『共犯』と呼んで誇るか」

 

 陸仁の瞳の奥に、昏い熱が宿る。

 

「……誓子は自らの意思で私を選びました。私と共に堕ちることを受諾したのです。他人が踏み込める領域ではございません」

「黙れ」

 

 慈照王が静かに、しかし絶対的な威圧をもって言葉を遮った。

 

「己を信じていた誓子嬢に密室で極限の恐怖を与えおった事、すべて判っておるわ。周りを話術によって欺き、孤立させ、支配者である貴様しか縋るものを残さぬ状況を作っておいて、よくも『選択』などと言えたものだ。貴様の仕掛けた茶番など、すべてお見通しだ。恥を知れ!」

 

 慈照王の低く乾いた一喝が響いた。

 

「陸仁、貴様がやったことは一歩間違えれば皇室の尊厳を地に墜とし、京極宮家を断絶に追い込むほどの愚行ぞ」

 

 慈照王は立ち上がり、ゆっくりと陸仁の目の前へと歩み寄った。その老いた眼差しには、陸仁の狂気をすべて見透かした冷ややかな真実が宿っていた

 

「皇族の威信を損なうような真似は二度と許さん。誓子嬢を生涯手放さず、己は完璧な皇族として生涯を捧げよ。そして次世代を担う多大な子孫を残し、宮家を揺るぎないものとせよ。健全な子孫繁栄という結果を残すことこそが、貴様が背負うべき『罪』の償いだ。公的な体面は保たせてやる。結婚も許そう。だが勘違いするな。これは貴様の勝利ではない。貴様が愛と呼ぶその執着は、誓子という女を永遠に生殺しにする呪いであり、同時に貴様自身を一生涯縛り付ける『絶対の籠』なのだ」

 

 慈照王は陸仁の肩に、重々しく手を置いた。

 

「もし誓子が崩壊し、あるいは貴様の執着がわずかでも破綻したとき──その時こそ、貴様という人間と京極宮家の終わりだ。我らは、その兆しが見えた瞬間、貴様からすべてを剥ぎ取り、闇へと葬り去る。我らが幽明境を異にしても他の宮家が其方を見ていることを忘れるでないぞ」

 

 恒文王もまた、冷酷な声で追撃する。

 

「慶仁は甘い。己の血の濃さに喜んでおるが、我らは騙されん。貴様が手に入れた『完璧な妃』とやらは、貴様の罪の結晶だ。……貴様は生涯、己が犯した狂気の代償を支払い続ける『囚人』であることを忘れるな。誰一人として、貴様の犯した過ちを忘れてはおらんのだからな」

 

 陸仁の喉が、わずかに乾いた音を立てた。

 慶仁や雅武を完璧に陥れ、「勝者」となったはずの己の足元。そこには想像を遥かに超える皇族の古く暗い「掟」と「罰」が、冷たく横たわっていた。

 陸仁は深く、深く頭を下げた。その唇から笑みは消え去っていたが、瞳の深淵には揺るぎない決意が宿っていた。

 

「……望むところでございます。完璧な皇族として公務を果たし、多くの子孫を残して見せましょう。お二方の条件、終生心に刻みつけます」

「……行け。誓子という犠牲の上に成り立つ、貴様の歪んだ王国へ」

 

 慈照王の冷ややかな一言を背に、陸仁は静かに長老の館を辞したのだった。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 東伏水宮邸を後にした陸仁は、夕闇が迫る宮邸の長い廊下を一人歩いていた。

 長老たちから突きつけられた冷酷な警告。己が成し遂げた完璧な勝利の裏にこびりつく、決して消え去ることのない「罪と呪い」の刻印。

 しかし、己の部屋の前へと辿りついた時、陸仁の唇には再び、あの昏く甘美な笑みが戻っていた。

 

(……罪? 罰だと? ……結構なことだ)

 

 陸仁は扉の取っ手に手をかけた。

 長老たちがどれほど言葉を尽くして己の暴挙を愚行と罵ろうと、慶仁たちがどれほど敗北の笑いに甘んじようと、そんなことはどうでもよかった。

 陸仁が欲しかったのは、公的な体面や王者の威厳などではない。

 ただひとつ。この扉の向こうにいる、あの唯一無二の存在だけだ。

 静かに扉を開けると、室内にはほのかな黄昏の光が差し込んでいた。

 部屋の奥、姿見の前に立っていたのは、二十歳を迎えたばかりの誓子であった。

 松殿家の養女としての格付けを終え、間もなく慶仁や皇族会議の決定に従って陸仁の妃となるべく準備を進める彼女は、かつての「完璧で冷徹な女官」の衣装を脱ぎ捨てていた。

 陸仁の気配に気づいた誓子が、ゆっくりと振り返る。

 その瞳には、かつて避難小屋や地下資料室で見せていた恐怖や怯えは微塵もない。かといって、臣下としての服従でもない。

 そこにあるのは、陸仁の手によってすべての仮面を叩き割られ、肉体も精神も解体された末に、自らの足で立ち上がり「陸仁という毒」を自ら呑み干すことを決意した者だけが宿す、凄絶なまでに気高き狂気であった。

 

「……お帰りなさいませ、若宮様」

 

 誓子の声は、優雅で、どこか滑らかに澄んでいた。

 陸仁は歩み寄り、誓子の華奢な肩を後ろから抱き寄せる。誓子は拒むことなく、その体温に自然と身を委ね、自ら陸仁の首元へと白く細い腕を回した。

 

「……父上方も、長老方も、すべてが私たちのために舞台を整えてくださったよ、誓子」

 

 陸仁が耳元で囁くと、誓子は微かに口元を緩めた。

 

「……左様でございますか。皆様、私どもが『責任』という鎖で繋がれたとお信じなのでしょうね」

「ああ。だが事実は違う。……お前を縛っているのは、法律でも、身分でもない。……私という存在そのものだ」

「ええ……知っております。……私が貴方様から逃れられぬように、貴方様もまた、私という呪いから死ぬまで逃れられません」

 

 ふたりは鏡越しに、互いの瞳を見つめ合った。

 そこにあるのは、救いようのない共犯者の姿だ。

 二年前のあの秋、密室で始まった暴虐と開拓。大人たちの思惑と引き剥がし工作。そして先程の長老たちの冷厳なる警告。

 ……そのすべてを呑み込み、踏み台にして、二人は今、完全なる「ひとつの狂気」へと昇華していた。

 

「行きましょう、地獄の果てまで……私の若宮様」

「ああ。……どこまでも一緒だ、誓子」

 

 重厚な宮邸の静寂の中、ふたりの影は夕闇に溶け合い、一つに重なり合っていく。

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 ──そして、時は無情なまでに静かに、しかし確実に流れ去っていった。

 

 2000年代から2010年代へと至る歳月の中、京極宮家は誰もが羨むほどの安定と繁栄を誇っていた。

 誓子は松殿侯爵家からの入第という完璧な形式のもとで陸仁の妃となり、公の場では一点の曇りもない優雅な微笑みを浮かべる完璧な皇族として振る舞い続けた。

 陸仁と誓子の間には、長男の照仁を筆頭に、長女・恵梨子、次男・法仁、三男・普仁、次女・紀美子と、次々に輝かしい命が誕生していった。

 一方、寛代子と雅忠もまた、始まりこそ政治的清算の婚姻であったものの、互いを尊重し、静かで誠実な夫婦生活を重ねていた。二人の間には長男の雅彰、長女の寛奈が誕生し、穏やかな家庭が築かれた。

 陸仁が公の場で見せる「完璧な宮家当主としての公務」と、長老たちとの約定を果たさんとするかのような「揺るぎない子孫の繁栄」という圧倒的な実績。その光り輝く栄華の前に、かつての血を吐くような葛藤も、密室で繰り広げられた狂気も、歴史の重い扉の奥へと深く埋もれていく。

 

 誰もが彼らを「理想の夫婦」と讃え、若宮の若き日の熱情は美しい純愛物語として華族社会で語り継がれるようになった。

 彼らがその胸の奥底に、決して解けることのない狂気の鎖を抱き続けていることなど、もはや知る者は誰もいなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。