2019年の初秋の穏やかな午後──。
陽光がやわらかく差し込む京極宮邸の広間では、陸仁と誓子の間に生まれた子どもたちが、思い思いの時間を過ごしていた。
十五歳の恵梨子がソファに深く腰掛け、眉間に皺を寄せて一冊の小説を読んでいる。異世界を舞台にした「愚かな王子が健気なヒロインを虐げ、最終的にすべてを失って追放される」という、昨今流行している小説であった。
「父上、この物語をお読みください。そして感想をお聞かせ下さい」
恵梨子が面白半分に声をかけると、書斎机で書類に目を通していた陸仁がゆっくりと顔を上げた。年齢を重ねてなお衰えぬ気品と、どこか底知れぬ凄みを漂わせたその姿は、かつて冷徹な密謀で裏からすべてを手中に収めた、往年の威厳を何ひとつ失っていない。
「ん? この本か? ……ふむ……なるほど。これはまた随分と頭の悪い王子だね」
陸仁は差し出された書籍を流し読みすると、心底くだらなそうに鼻で笑った。自らの智謀と冷徹な密謀によって大人たちを完璧に踊らせ、望む獲物を完全に所有した男からすれば、感情に任せて自らの立場を危うくする創作の中の王子など、愚者の極みに過ぎない。
そんな父の反応を見て、恵梨子はふと素朴な疑問を口にした。
「父上、昔このような真似をなさった事はあるのですか?」
その瞬間、隣で弟妹の世話をしていた十八歳の照仁が「ぶっ」と息を吹き出し、陸仁も思わず短く吹き出した。
「そうだったらなぜ母上がいるのだ?」
「え? それは……実は母上は、この泥棒猫のほ……痛った~!」
不用意な暴言を吐いた恵梨子の頭上に、間髪入れず陸仁の容赦のないげんこつが落ちた。
「馬鹿者。母上に謝りなさい」
頭を押さえ、涙目で父親を見上げる恵梨子。その顔立ちは、かつて身分差に苦しんでいた頃の誓子の面影を色濃く残していた。
「お父様……ひどい」
陸仁は愛おしそうに彼女の頭を撫でると、「そんな顔で睨んでも、許さぬものは許さん」と愛娘をじっと見据えつつ、どこか甘やかすような顔を見せていた。
「母上は立派な人なのだぞ。おじいさまにも聞いてみなさ……今は留守だったか。そもそもだ、父は母上以外に目を向けたことなど一度もない。……そうであろう、誓子」
「おじいさまに聞けばわかる」という言葉の裏に隠された恐ろしい歴史──かつて雅武が隠密記録を取り、陸仁を追い詰めたつもりが、全て陸仁の手のひらの上だったこと──など子どもたちが知る由もない。
陸仁の呼びかけに応じ、お茶の仕度を終えた誓子がそっと寄り添ってきた。
かつて身分差ゆえに「完璧な女官の仮面」を貼り付け、己の情熱を押し殺していた面影はどこにもない。そこにあるのは陸仁の傍らで「庇護と侵犯、そして秘めていた慕情」が一体となった歪んだ安定的関係の中で、自らその檻に入り、愛される喜びを全身で満喫している女性の顔であった。
「ええ。陸仁様……愛しています」
誓子は潤んだ瞳で陸仁を見つめると、我が子たちの前であることも忘れ、吸い寄せられるようにその胸元へ抱きついた。
「私もだ、誓子」
陸仁は甘やかな微笑みを浮かべ、愛しい妻の華奢な身体を力強く抱き寄せた。そしてそのままごく自然な動作で、誓子の唇へと啄むような口づけを落とす。一度唇が重なると二人の間の熱量は一気に跳ね上がり、周囲の空気すら甘く痺れさせるような深い接吻へと移行していった。
「うわっ。また始まった」
顔を赤くする恵梨子に対し、照仁は「お前が悪い」と父親譲りの冷徹な眼差しで一瞥する。その漆黒の瞳に、一瞬だけ、かつて17歳で大人たちを冷徹に嵌め込み始めた頃の陸仁と全く同じ、感情を削ぎ落とした冷徹な鋭さと絶対者の威厳が射し込む。
恵梨子はその威圧感に気押され、瞬時に言葉を呑み込んだ。
十二歳の法仁も「うん、姉様が悪い」と即座に賛同した。
「ごめん。確かに私が悪かったわ……」
顔を隠しながら指の隙間から両親の様子をうかがう恵梨子に、法仁が呆れたように声を上げる。
「弟と妹を外に出さないと教育に悪いと思うけど?」
「そうだな。ほら、外に行くぞ」
照仁が人目も憚らず完全に二人だけの世界に没入し始めた父母を顔を真っ赤にしながら見続ける上の妹の頭を「目を覚ませ。行くぞ」と軽くはたき、正気に戻す。
両手を口元に当てて目を丸くし、「……ねえ、父様と母様、またお口とお口くっつけてるよ。息苦しくないのかな」と見入る弟──普仁に苦笑しつつ、照仁は「大にーさま。わたしも、かーさまみたいに、ちゅーしてほしい!」と無邪気に両手を広げてねだる六歳の妹──紀美子を「ほら、見ないの。行くぞ」と軽々と抱き上げた。
抱き上げられた妹が、照仁の首に小さな手を回しながら「大にーさま、お顔あかいよ?」と無邪気に首をかしげる。
恵梨子が扉の前で後ろを振り返ると、むさぼり合うように互いの身体を服の上から弄りあいつつ抱き合う父母の影が視界をよぎった。
(待って! その先はあと少しだけ待って!!)
心の中で叫びながら、弟妹たちと一緒に大慌てで重厚な扉を押し開け、廊下へ逃げ出した。
静まり返った廊下に出た子どもたちは、顔を見合わせて深々と溜息をついた。
「しばらく入れなくなったな。……さて、どこで二時間ほど潰してくるか。……東園の東屋で昼寝でもするか、雅彰の何度目かの失恋話でも聞いて揶揄っ……慰めてくるか」
「お兄様、それは品がありません。寛奈が怒りますわ。また寛奈に蹴られても知りませんわよ、昔からお兄様は年下の寛奈に反撃できないのですから」
「蹴りなど当たらなければいいのだ。反撃せずとも揶揄うだけで良い反応をしてくれるからな、寛奈は」
「……まったく。それが問題なのです。寛奈に泣きつかれるのは私なんですから。それと、お爺様とお婆様は今日は桑名で講演されております。余計な騒ぎを起こしてお留守番をしている六条のお婆様を困らせると後で何を言われるか分かりませんわ。六条のお爺様もお爺様達とご一緒なのですから叱られるときは倍になりますわよ」
「ふん、古希を迎えてなお全国を飛び回るあの頑強さには脱帽するよ。未だ治水の宮殿下の御威光は衰えず、か。……今日は桑名での講演だったのか。なら大人しく昼寝でもしているかな」
「……それにしても、父上も母上も、早く寝室に移動してくれないかな。……ねえ、そろそろ、また弟か妹が生まれるんじゃないかなって、僕思っているんだけど……」
法仁のつぶやきに「弟が良い!」「妹が良い!」と無邪気にはしゃいだ声を上げる下の弟妹たち。
恵梨子は顔を赤らめつつ、可能性を考えていた。
(さすがにそれはないと思うけど……。あ、でも父上は四十三歳で、母上も三十九歳だもんね。まだ十分現役だから、そのうち絶対出来るわよね……。子どもが出来たと言われたらどういう顔すればいいのかしら……。まぁ普通にしていれば良いわよね)
姉のくるくる変わる表情を見た法仁が『また何か妄想しているな』とあきれつつも、恵梨子の持ち出していた小説に視線を落としつつ呟いた。
「それにしても、この国の王子様たちも父上と母上のようだったら、こんな話できなかったね」
「そうよね」
「ちい兄さま、遊んで! 三兄さまも」
「はいはい。姉様もお願いします」
「えぇ!? 私も!? ……六条の家に遊びに行くつもりだったんだけど。ま、いいか」
楽しそうに笑い合いながら去っていく子どもたちの足音が、廊下の奥へと消えていく。
外界からの冷ややかな見立てや華族社会の計算、かつて慶仁や澄子が嵌めようとした「責任という名の枷」──そのすべてを飲み込み、手中に収めた陸仁と、彼に与えられた絶対的な執着と永遠の庇護の中で幸福に沈む誓子。
閉ざされた広間で重なり合う二人の呼吸は、外界の誰も侵すことのできない、気高くも狂おしい永遠の共犯関係を証明するように、静かに熱く奏でられ続けていた。