※この作品はR-18です。

陸仁王物語―異伝―   作:fire-cat

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第5話 宮内省、松殿侯爵家、そして取引

 六条邸が絶望と恐怖の沈黙に沈んでいたその翌日。宮内省の通称「奥の院」と呼ばれる特別会議室は、建物の古びた石壁さえも震わせんばかりの、異常な熱気に包まれていた。

 緊急招集されたのは、宮内省次官をはじめとする数名の幹部、そして皇族の身辺と婚姻を管理する宗秩寮総裁であった。彼らの前に、たった一枚の「親展」の書状が置かれている。

 差出人は、二十一歳の若宮──陸仁王。

 そこには、一分の隙もない美しい毛筆の文字で、こう記されていた。

 

『今般、北関東における避難先での不測の事態に鑑み、宮内省女官・六条誓子を我が妃に迎える。即座に婚約内定の手続きを進めよ』

 

「……狂気の沙汰だ」

 

 宗秩寮総裁が、掠れた声で呟き、額の汗をハンカチで拭った。

 

「六条雅武の娘だと!? 確かにあの家は子爵家だが、それは本家の話だ。六条雅武は分家、家格で言えば男爵だ! 伏水宮系を統べる藩屏の長、京極宮家の妃など、前代未聞、宮中の法秩序が崩壊する!」

「しかし総裁、若宮様はこうも書き添えておられる」

 

 次官が、忌々しげに書状の後半を指さした。そこには、幹部たちの心臓を凍らせるに十分な、冷酷な「脅迫」が並んでいた。

 

『もし宮内省が家格を理由に本件を拒む、あるいは引き延ばすのであれば、私は明日、山小屋における六条誓子との「一夜の全貌」を、実名をもって国内外の新聞社へ直接公表する。宮内省が隠蔽に動く前に、私の乱行として世界に知らしめても一向に構わない』

 

「己の醜聞を人質に、国家を脅迫されている……!」

 

 次官は絶句した。

 もしあの夜の出来事が「若宮の御乱行」として外電にでも流れれば、宮廷の権威は失墜し、宮内省の首脳陣は全員、引責辞任どころか社会的な死に追い込まれるほどの国家的危機となる。陸仁はそれを百も承知で、自分の名誉ごと宮内省を刺し違えの刃で脅しているのだ。

 

 その時、会議室の重い樫の木の扉が、前触れもなく内側から押し開けられた。

 現れたのは、仕立ての良い漆黒の三つ揃いのスーツを隙なく纏った、陸仁その人であった。二十一歳とは思えぬ堂々たる体躯と、慶仁譲りの冷徹な眼光だけで、室内の官僚たちを一遍に圧する。

 

「熱心な議論の最中、失礼する」

 

 陸仁は促されもしないのに上座の椅子を引き、傲然と腰を下ろした。手袋を嵌めた長い指先が、机の上に静かに置かれる。

 

「若宮殿下! これは一体どういうことですか!」

 

 宗秩寮総裁が堪りかねて立ち上がる。

 

「六条の娘との婚姻など、宮内省が認めるわけにはまいりません! 社交界ではすでに、山小屋での一件が不穏な噂となって流れております。それを敢えて妃に迎えるなど、火に油を注ぐようなもの。噂が本当であれば、それは力関係を利用した殿下の……その、不徳の致すところということになってしまう!」

「不徳、か」

 

 陸仁は、ふっと薄い唇を歪めて笑った。その笑みの昏さに、総裁は思わず気圧されて一歩退く。

 

「ならば、お前たちの言う『不徳』の帳尻を合わせるのが、宮内省の仕事だろう」

「な……っ」

「私は、あの密室で誓子を抱いた。衣服を剥ぎ、その身体をこの手で捩じ伏せ、私のものに仕立て上げた。──それが事実だ」

 

 陸仁は淡々と、しかし極めて冷酷に、密室の既成事実を言い放った。

 幹部たちの顔から、一斉に血の気が引いていく。

 

「もし、彼女の胎内にすでに京極宮の血が宿っていたらどうする? 一ヶ月後、二ヶ月後、六条の娘の身体に変化が現れた時、お前たちはそれを『狂言』として闇に葬るつもりか? ──私の血を引く我が子を、六条の娘の私生児とするというなら、私はこの宮内省を絶対に許さんぞ」

 

 部屋を支配したのは、息が詰まるほどの沈黙だった。

 陸仁の言葉は、単なる脅しではなかった。六条の娘が若い男盛りの若宮に一晩中むさぼり尽くされたのであれば、確率は絶望的に高い。もし妊娠が発覚してから大慌てで婚姻を進めれば、それこそ「手籠めの隠蔽」が完全に証明されてしまう。

 

「殿下……、しかし、筋が通りませぬ。男爵家の娘をそのまま入れるなど、他の華族や、妃殿下の御生家である九条家が黙っておりません」

 

 次官が、震える声で妥協点を模索するように切り出した。

 

「ならば、形を作れ」

 

 陸仁は冷ややかに言い放ち、カフスボタンに指をかけた。

 

「六条のままでは格が足りないというなら、しかるべき華族の籍に放り込めばいい。宮内省の得意な『法解釈のこじつけ』と『戸籍の操作』の出番だ。幸い、我が京極宮家には、命に代えても守らねばならぬ『絆』を持つ華族が、一つあるはずだが?」

「……松殿、侯爵家……」

 

 宗秩寮総裁が、はっと目を見開いてその名を呟いた。

 

「そうだ。かつての伊勢の悲劇──台風による猛烈な高潮と流出した丸太が揖斐川の堤防を粉砕したあの濁流の中で、身を挺して父上を守って散った寛子叔母上の実家だ。松殿家であれば、私の懐刀である六条の娘を養女に迎える大義名分が立つ。宮内省の諸君、お前たちの選択肢は二つだ。大人しく松殿家と調整して『美談としての御成婚』を演出するか、あるいは、明日、私の御乱行の号外を新聞に躍らせるか」

 

 陸仁は立ち上がり、コートを軽く羽織った。

 

「猶予は三日だ。色よい返事を期待している」

 

 足音高く去っていく二十一歳の主君の背中を、宮内省の大人たちは、ただただ恐怖と戦慄のなかで見送ることしかできなかった。

 自らの「血」と「醜聞」そのものを最大の政治的凶器に変えてみせた若宮。その底知れぬ冷徹さこそが、宮内省を完全に屈服させたのであった。

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 宮内省が若宮の脅迫に屈したその夜、宗秩寮総裁は極秘裏に麹町にある松殿侯爵邸の門を叩いていた。

 三日の猶予などないに等しい。もし若宮が本気で国内外の新聞社に「山小屋の一夜」を実名リークすれば、伏水宮系を統べる藩屏の長である京極宮家のみならず、宮廷全体の権威が失墜する。宮内省にできることは、陸仁が提示した唯一の抜け道──六条誓子を大華族の養女に仕立て上げるという「戸籍のハッキング」に縋ることだけだった。

 

 松殿侯爵邸の重厚な応接室で、宗秩寮総裁から事の顛末をすべて聞かされた松殿侯爵は、しばらくの間、無言でパイプの煙をくゆらせていた。

 

「──なるほど。あの若宮様が、そこまでの無茶を宮内省に吹っかけられたか」

 

 松殿侯爵はそう呟くと、ふっと不敵な笑みを漏らした。総裁が青い顔で戦々恐々としているのとは対照的に、その眼光にはかつて「伊勢の悲劇」の激流を生き抜いた大貴族としての、図太い胆力が宿っている。五摂家筆頭たる九条公爵家の分家という、華族社会でも最高峰の家格を持つ松殿家だからこそ、この未曾有の醜聞にも動じることはない。

 

「侯爵、笑い事ではございません!」

 

 総裁が身を乗り出す。

 

「社交界ではすでに、山小屋での外泊が『若宮の御乱行』『側近の娘への無体』として水面下で囁かれ始めております。宮内省としては、一刻も早く松殿家の籍に娘御を放り込み、家格の帳尻を合わせて御成婚の体裁を整えたいのです。しかし、ただの六条の娘を養女に迎えるなど、松殿家の一族が納得いたしまするか……」

「総裁。お前たちは相変わらず、物事の表面しか見ておらんな」

 

 松殿侯爵はパイプを灰皿に置くと、ずしりと重い声で語りかけた。

 

「六条雅武殿は、我が姉・寛子とともに慶仁殿下を支えた戦友だ。その実直極まる六条殿の娘御が、若宮様との一泊の件で苦境に立たされているとな? ……形の上では若宮様の暴挙に見えるが、あの鋭利な若宮様が、ただの情欲だけで自らの名誉を人質にするはずがなかろう」

「と、おっしゃいますと……?」

「若宮様は、その身を挺して、六条の娘を守り抜く覚悟を決められたのだ。宮内省という分厚い壁から彼女を略奪するために、あえて自ら『悪魔』の役を買って出られた」

 

 松殿侯爵は立ち上がり、窓の外の夜の庭園を見据えた。

 

「よろしい。あの時、我が姉は殿下をお守りして散った。ならば今度は、我ら松殿が、姉上とともに殿下をお支えしていた六条殿の娘を守り、若宮様の未来をお守りする番だ。宮内省よ、我が松殿の家名、喜んでお貸ししよう」

 

 宮内省が胸を撫で下ろしたのも束の間、翌日の午後、松殿侯爵邸に漆黒のロングコートを纏った陸仁が単身で姿を現した。政治的実権こそ持たない皇族ではあるが、応接室で松殿侯爵と対峙した二十一歳の若宮が放つ気迫は、宮廷の法秩序をその手で書き換える独裁者のそれであった。

 

「宮内省から話は聞いているだろう、侯爵」

 

 陸仁はソファーに深く腰掛け、まっすぐに松殿を見つめた。

 

「ええ、若宮殿下。我が松殿家は、喜んで六条誓子殿を養女としてお迎えいたします。これで家格の障害は消え、宮中も『伊勢の悲劇の絆が紡いだ美談』として処理せざるを得なくなるでしょう」

 

 松殿侯爵は微笑みながらも、その目を細めた。

 

「ですが殿下。これは国家と社交界を相手取った、大いなる欺瞞です。我ら松殿が家名という盾を差し出す以上、殿下にもそれ相応の『誠意』を見せていただかねば、他の者が納得いたしません。皇族・華族に政治の権力なぞありませぬが……だからこそ、我らは『名誉』のために生き、名誉のために死ぬのです」

「名誉の取引か。いいだろう、何が望みだ」

 

 陸仁の声音には、一切の躊躇もなかった。

 

「此度の御成婚の折、宮中における松殿家の席次、京極宮家におけるわが一族の礼遇を、未来永劫、京極宮家の次席乃至第三席として保障していただきたい。当代の妃殿下の御実家が第壱席であることは不動ですからな。さらに……現在、五十二歳であられる慶仁殿下が、かつて亡き姉・寛子に下賜されるはずだった、あの幻の宝冠(ティアラ)。あれを、新妃となる誓子殿の頭上に戴かせていただきたい。松殿の娘が京極宮の最高の栄誉を纏うのであれば、我が一族は文字通り、殿下の御乱行を覆い隠す『完璧な盾』となりましょう」

 

 それは、実権を持たぬ貴族社会において、何よりも重い「血と格式の最高報酬」の要求だった。防災活動に専念し、今なお現役で強大な影響力を持つ慶仁と澄子の影を背負いながらも、陸仁は眉一つ動かさず、懐から万年筆を取り出すと、宮廷内の約束手形とも言える覚書に流れるようなサインを入れた。

 

「……これで満足か、侯爵」

「見事なご決断だ、若宮殿下」

 

 松殿侯爵は深く満足そうに一礼した。

 

「家名と格式のために、これほどの手回しをされるとは……。慶仁殿下以上の苛烈さ、恐れ入りました」

「勘違いするな」

 

 陸仁はコートを手に立ち上がり、冷ややかに言い放った。

 

「私はただ、私の所有物を、ふさわしい最高級の額縁で飾るだけだ。そのための費用なら、いくらでも払う」

 

 そう言い残し、若宮は足早に松殿邸を去っていった。

 こうして、国家の戸籍操作と重厚な格式取引の裏で、六条誓子は「松殿侯爵令嬢」という偽りの仮面を与えられ、京極宮家への嫁入りが決定した。裏にある御乱行と、それを隠蔽するための冷徹な裏取引の真実を、社交界の誰もがまだ知らぬままに。

 

 

 





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