法仁のあの恐ろしい囁きから始まった、地獄のような一日。
「次の海で……岩場の陰で……」
その言葉が脳内で不気味な反響を繰り返し、香織、霧葉、貴美、歌乃、里緒の5人は授業どころではなかった。いつ校舎の裏に連れ去られるか、いつ黒塗りの車に押し込められてあの北翼の「甘美な巣窟」へ連行されるかと、物音一つに肩を跳ねさせ、冷や汗を流しながらビクビクと過ごす羽目になったのだ。
そして翌朝。
目を覚まし、自分のベッドの上で無事であることに胸を撫で下ろしながらも、恐怖のカウントダウンは続いていた。
「今日かもしれない」
「今日こそ拉致されるのかもしれない」
それから、生きた心地のしない一週間が経過した。
5人は常に集団で行動し、校内で照仁や法仁の姿を見かけるたびに物陰に隠れ、息をひそめて警戒し続けた。しかし──。
「……ねえ。なんか、おかしくない?」
一週間が過ぎた頃、廊下の陰から京極宮兄弟の様子を伺っていた香織が、ぽつりと呟いた。
そこにいたのは、学校通信教育課程の課題について照仁から冷淡なお説教を受け、涙目になりながら「もう! 照仁様の分からず屋!」とぷんぷん怒っている寛奈の姿だった。
そして照仁といえば、相変わらず冷酷で完璧な無表情を崩さぬまま、寛奈の小生意気な抵抗をあしらい、逃げ出そうとする彼女の首根っこを「飼い犬の首輪を掴むかのような手慣れた所作」でヒョイと掴んで引き戻している。
「……いつもの『チベタンマスティフとポンコツ飼い主』ね」
歌乃が脱力した声を漏らした。
日常における照仁の寛奈に対する態度は、あの「恐ろしい監禁エンド」の猛獣とは程遠い、相変わらずの「不愛想だが過保護な飼い犬」のそれであった。法仁もまた、中等部の友人たちとごく普通に談笑しており、こちらを拉致しようとする気配など微塵もない。
いつもの優雅なサロンに、ドスンと重苦しい沈黙が落ちていた。
陽光が柔らかく差し込む室内。中央のテーブルには、マカイバリ茶園の芳醇な茶葉「シルバーニードルズ」が黄金色の雫を湛え、上品な和三盆の落雁「長生殿」が純白の皿に美しく並べられている。
だが、集まった5人の表情は、まるで明日にでも処刑場へ引き立てられる囚人のように暗く、冷や汗に濡れていた。
「……ねえ。私、もう耐えられないわ」
香織が蒼白な顔で、震える指先でカップを持ち上げた。カチャカチャと磁器が噛み合う不協和音が静寂に響く。
あの日──13歳の法仁様から「次の海が楽しみだね。今度は誰もいない岩場の陰で、君たちの足腰が完全に立たなくなるまで……」と宣告されてから、丸一週間。
いつ黒塗りの車が家に横付けされ、あの幽閉部屋へと引きずり込まれるのかと、彼女たちは生きた心地がしていなかった。朝起きたときに太ももに残っていた謎の紫色の内出血をさすりながら、香織は遺書を書く覚悟すら固めていたのだ。
そんな中、あまりの恐怖と緊張に耐えかねた香織が、意を決して登校時に法仁様へ突撃し、命乞い覚悟で「あの日の発言」の真意を問いただしたのだった。
「……で、法仁様は何とおっしゃったの?」
首元を完全に隠すハイネックの制服を着込んだ貴美が、縋るような目で香織を見つめる。
香織は深く、地獄の底から吐き出すようなため息をついた。
「……法仁様、すっごく不機嫌そうな顔で、こうおっしゃったわ」
『香織さん? 何を言っているの? 去年、砂浜のドッジボールであなた達が5人がかりで僕を集中攻撃して、足腰が立たなくなるまでボコボコにしたじゃないか。だから今年は絶対に逆襲して、君たちの足腰を立たなくしてやるって言ったんだよ。……それ以外に何があるの?』
「………………は?」
サロンの空気が、ピキリと凍りついた。
貴美が固まり、霧葉の手が止まり、里緒の瞳が丸くなる。
しばらくの静寂の後、最初に沈黙を破ったのは歌乃だった。
「ふふっ……くくっ……あはははは! お腹が痛い……! ビーチドッジボールだなんて! 確かに去年やったわね。私たちで法仁様を囲んで、容赦なくボールをぶつけまくって砂浜に沈めたわ……!」
ソファの上で腹を抱え、涙を流して転げ回る歌乃。
しかし、残りの4人に笑う余裕など一切なかった。特に香織は、真っ赤になった顔を両手で覆って絶叫した。
「恥ずかしすぎて死にそう……! 『誰もいない岩場の陰で』ではなくて『砂浜のドッジボールで』だったなんて……! 『たっぷり可愛がってあげる』ではなくて『たっぷりボコボコにしてあげる』という意味だったのね……! 私たちが勝手にパニックになって脳内変換して、勝手に『永久監禁調教エンドだわ!』って震えていただけなんて……っ!」
「ちょっと待って……」
貴美が血の気の引いた顔で自分の首元をさすった。
「じゃ、じゃあ……私たちが夢の中で照仁様や法仁様に二人まとめて『貫通式』にされたり、愛玩情人にされたりしたあのリアルすぎる体験は……何だったのよ……っ!?」
「ただの過剰自爆プレイよ!! 決まっているじゃない」
香織がテーブルを叩いた。
「全部、全部恵梨子ちゃんのあの異常な妄想力と、無駄に解像度が高い怪文書のせいよ!! あの原稿を読んだせいで、私たちの脳が勝手に『京極宮の男=危険な猛獣』って恐怖を増幅させて、法仁様のただの小学生並みの復讐宣言を、極上の官能ホラーに書き換えたの!! そうに違いないわ」
別世界において調教された身体と経験を持って世界をまたいだなどという『荒唐無稽な話』よりよほど『現実的な回答』を導き出す香織。
「……すさまじい過失ね」
霧葉が深く、深くて長い溜息をつき、額に手を当てた。
「華族令嬢としての私の冷静な観察眼と洞察力が、まさか『ビーチドッジボールの宣戦布告』を『永久監禁調教宣言』と誤認するまでに狂わされるとはね……。冷静に考えれば、照仁様の寛奈に対する態度だって、相変わらず『ポンコツな飼い主を過保護に管理するチベタンマスティフ』の域を出ていなかったわ」
「よ、よかった……本当に良かった……」
里緒は胸を撫で下ろし、心底安心したように微笑んだ。
「私、本気で『女官見習いとして幽閉される覚悟』を決めて、実家の自分の部屋の荷物をダンボール三箱分に整理し始めていたところでしたので……」
「整理し始めてたの!? 里緒ちゃんの適応力も大概おかしいでしょ!!」
香織が即座にツッコミを入れる。
「でも……」
貴美が顔を真っ赤にしながら、カップの紅茶を見つめた。
「夢の中のあの熱さ……本当に、本物みたいだったんだもの……。照仁様のあの冷たい指先とか、耳元の吐息とか……思い出すだけで、まだ体が熱くなっちゃう……」
もっとも真実に近い言葉を口にした貴美。
「貴美ちゃん、それ完全に毒されてるから!! 目を覚まして!!」
サロンの中に、久しぶりの賑やかな笑い声とツッコミが響き渡る。
一週間にわたる恐怖と妄想の嵐が去り、彼女たちはようやく、自分たちの「平和な日常」を取り戻したのだ。
──だが、このままにしておくわけにはいかない。
「……さて」
霧葉がメガネの位置を微調整しながら、冷ややかな声で言った。
「二度とこのような『二次被害』や『集団脳内汚染』を引き起こさないために、根本的な原因を絶つ必要があるわね」
5人の視線が、テーブルの中央へと一斉に向く。
そこには、あのすべての元凶──恵梨子ちゃんが狂気的な熱量で書き上げた、手書きの同人原稿と詳細な観察メモが鎮座していた。
「……燃やしましょう」
香織がポケットから、小さなライターを取り出した。
「二度と……二度とこんな悪夢は見ないわ!!」
カチッ、と小さな音が響き、ライターの先から青い炎が立ち上る。
香織が躊躇なく原稿の端に火を付けると、紙はパチパチと音を立てて黒く丸まり、香ばしい煙を上げ始めた。
マカイバリ茶園の「シルバーニードルズ」の芳醇な香りと、紙が焼ける煙の匂いがサロンの中に混ざり合う。
恵梨子ちゃんの「危険すぎる妄想の結晶」は、銀色のトレーの上で、きれいな灰へと変わっていった。
「これで……私たちの平穏は守られたわ……」
灰を見つめながら、5人は深く胸を撫で下ろした。
その時だった。
サロンの大きな窓の外──手入れの行き届いた庭園を歩いていた13歳の法仁様が、ふとサロンの窓に視線を向けた。
灰を囲んでいる5人の姿に気づくと、ニッコリとあどけない少年の笑みを浮かべ──そして、ゆっくりと右手のこぶしを握り締め、パンチを繰り出すようなジェスチャーをしてみせた。
『今年のビーチドッジボールは、容赦しませんからね』
そう言いたげな不敵な笑みを残し、少年は去っていく。
「……ねえ」
香織が引きつった笑顔で呟いた。
「……放課後、みんなでスポーツ用品店に行かない?」
「ええ」
霧葉が深くうなずく。
「ドッジボール用の、一番頑丈で滑りにくい運動靴を買いに行きましょう」
今度は「物理的な意味での足腰の危機」に立ち向かうため、5人は力強く頷きあった。