豪奢なサロンの空気は、繊細な絹レースと洗練された香水の香り、そして立ち上るマカイバリ紅茶の甘やかな湯気に包まれていた。
アーチ型の大きな格子窓からは、午後の柔らかな陽光が惜しみなく注ぎ込み、磨き上げられたフローリングの上に幾何学模様の光の絨毯を描き、天井から吊り下げられたクリスタルシャンデリアは、太陽の光を受けて眩い虹色の粒を壁面の木目調パネルへと散らしていた。
数時間に及ぶ厳密なドレスフィッティング──仮縫いから刺繍の微調整、トレーンの引き方に至るまでの立ち会い──を終えたばかりの五人の令嬢たちは、それぞれの白銀や純白のドレスを身に纏ったまま、中央の円形テーブルを囲んで静かなアフタヌーンティーのひとときを楽しんでいた。
十七歳の頃、あの温泉の湯煙の中で「私たちは将来どうなってしまうのかしら」「どんな未来が待っているのだろう」と、期待と少しの不安を交えて語り合っていた少女たちも、今や二十四歳。華族社会の洗礼を受け、淑女としての優雅さと気品を完全に開花させた大人の女性へと成長を遂げていた。
テーブルの最左翼、クラシカルな装飾が施されたアンティークチェアに腰掛けているのは、公爵家五女の香織である。
彼女が纏うのは、デコルテラインが印象的に開いた、繊細なハンドメイドレースの長袖ウエディングドレスだ。手首までびっしりと覆う植物モチーフの刺繍レースが、彼女の華奢な腕のラインを際立たせている。香織はポニーテールに結い上げた艶やかな黒髪を揺らし、片手を顎にあてて、どこか気恥ずかしさと感慨の入り混じったような、思案深げな表情を浮かべていた。
「……ねえ、みんな。未だに自分でも信じられない時があるのよ。あの十三歳だった法仁様が……お菓子が大好きで、ドッジボールの靴を大事そうに抱えていたあのかわいらしかった少年が、まさかこんなに背が伸びて、堂々とした皇族の青年になられるなんて」
香織の呟きに、隣にすっと立っていた伯爵家令嬢の霧葉が、すっきりと開いたノースリーブのドレス姿のまま腕を組み、フッと口元を緩めた。
霧葉は装飾を削ぎ落としたモダンで直線的なシルエットの白ドレスを纏い、背中まで流れる黒髪ストレートロングと相まって、サロンの中で際立った知性と凛々しさを放っている。
「何を今更おっしゃるの、香織。法仁様があなたに向ける情熱と一途さは、それこそ数年前から何一つブレていなかったでしょう。年下だからと高を括って油断していたあなたが、見事に外堀を埋め立てられて王手をかけられただけのことですわ」
「ちょっと霧葉、言い方! 外堀埋め立てだなんて……まあ、否定はできないけれど……っ」
香織は顔を赤らめ、ドレスの裾を少しだけ弄くった。
法仁が成人を迎え、正式な納采の儀を経て香織を正妃として迎える準備が進む中、法仁が見せた執着と誠実さは、香織の心を完全に捉えていた。かつての幼さは姿を消し、今では香織を庇護し、一生をかけて愛することを誓う立派な男性として彼女の前に立っているのだ。
「ふふ、でも香織ちゃん、本当に幸せそうよ」
中央のテーブル奥で、青い小花柄が繊細に描かれた磁器のティーポットを優雅に傾けているのは、子爵家令嬢の貴美である。
彼女は豊かなウェーブヘアをハーフアップに結い上げ、胸元に細かいパールとレースが散りばめられたエレガントなドレスを身に纏っている。両手で丁寧にティーポットを持ち、湯気とともに立ち上るベルガモットの香りをサロンいっぱいに広げながら、立ち立ちの姿で一人ひとりのカップへとお茶を注いでいく。
貴美の視線の先には、テーブルの中央に飾られた豪華な三段のアフタヌーンティースタンドがあった。上段には色彩豊かなマカロンや愛らしいプチフール、中段には焼き立てのスコーンとクロテッドクリーム、下段には小ぶりなサヴォイビスケットが美しく並べられている。
「私こそ、六条雅彰様──寛奈のお兄様との婚約が決まった時は、運命の不思議さを感じましたわ。六条様は本当に誠実で、隙なくお仕事をこなされる堅物な方ですけれど……私と二人きりになると、とても細やかに気遣ってくださるの」
貴美の婚約者である六条雅彰は、寛奈の兄であり、京極宮家を家従として支える極めて几帳面で真面目な青年である。寛奈を通じた友人関係から始まり、やがて正式なお見合いを経て重なった交際の中で、貴美は彼の内に秘めた温かさに深く惹かれていた。
「寛奈ちゃんとも、これで本当の義理の姉妹になるわけですしね。あのおっとりした寛奈ちゃんが照仁様のもとへ嫁がれてから、宮家での暮らしにもすっかり馴染んでいるのを見ると、私も頑張らなくてはと気が引き締まりますわ」
「まあ、義理の姉妹と言うなら、私と霧葉ちゃんほど奇妙で素敵な縁はないんじゃないかしら!」
そう言って弾けるような笑顔を見せたのは、貴美の隣の椅子に腰掛けている侯爵家四女の歌乃である。
歌乃はボリュームのあるふわふわとしたウェーブヘアを揺らし、首元が大きく開いたパフスリーブとフリルが幾重にも重なる可愛らしいドレスを纏っている。彼女は両手で小さなティーカップを包み込み、心から楽しそうに目を細めていた。
歌乃の婚約者は、霧葉の兄──伯爵家の堂々たる後継者である。そして、立ち姿でクールに佇む霧葉の婚約者は、歌乃の兄である公安関係者の青年なのだ。
「だって考えてもみなさいよ! 霧葉ちゃんのお兄様が私にプロポーズしてくださって、私の兄様が霧葉ちゃんを射止めたでしょう? つまり、私と霧葉ちゃんはお互いの兄と結婚して、二人揃ってお互いの『義理の姉妹』になるのよ! 昔からの親友が、まさかこんな形で二重の親族になるなんて夢にも思わなかったわ」
「ええ、本当にね……」
霧葉はメガネのフチをすっと指先で押し上げ、どこか遠い目をした。
「歌乃の兄様は……公安の要職に就いておられるから、観察日記の怪しいお話に出てくるような『重大な脅迫者が捕まっていない』なんていう奇妙なセキュリティ上の理由ではなく、純粋に現実の職務として多忙を極めておられますわ。夜中に突然呼び出されたり、何日も連絡が取れなくなったり……不器用で、己の身を顧みずに仕事に没頭する方だから、私が側について手綱を握って差し上げなければ、いつ倒れてしまうか分かったものではありません」
「ふふ、霧葉ちゃんったら、もう完全に『しっかり者の妻』の顔になっているわよ」
歌乃がくすくすと笑い、霧葉は「当然の義務を果たしているだけです」とすまし顔で返した。
そして、テーブルの最も右側、柔らかな光が差し込む窓辺の椅子に静かに座っていたのは、子爵家出身の里緒である。
清楚な黒髪ショートボブが印象的な彼女は、首元を美しく見せるボートネックの七分袖ドレスに身を包んでいた。ウエストにキュッと結ばれた黒いサッシュリボンが、彼女の細身なシルエットと白磁のような肌をひときわ引き立てている。里緒は伏し目がちな瞳で静かにティーカップを持ち、可憐で落ち着いた雰囲気をサロン全体に漂わせていた。
「里緒ちゃんのお祝いたちも、本当に特別な段取りを踏みましたものね……」
香織が改めて里緒のほうを振り返り、柔らかい眼差しを向けた。
里緒の婚約相手は、法仁の従兄にあたる皇族であった。子爵家という家格から直接宮家へと入第するには、社会的な権威や格式の調和を図る必要があった。そのため、一度香織の実家である公爵家に「養女」として籍を借り、公爵家令嬢という高い格式を整えた上で、正式に宮家へ嫁ぐという非常に丁重かつ重厚な手続きが執られたのだった。
「ええ……」
里緒はティーカップをソーサーに戻し、静かに両手を膝の上で重ねた。
「一時期とはいえ、香織ちゃんの公爵家に養女としてお世話になり、香織ちゃんの『義理の妹』として籍を置かせていただいたことは、私の人生において最も大きな庇護でございました。香織ちゃんのお父様やお母様も、本当の娘のように優しく温かく迎えてくださって……」
「何を言っているのよ、里緒ちゃん。我が家にしてみれば、あなたのように思慮深く愛らしいお嬢様が娘になってくれたなんて、大喜びだったのよ? お父様なんて『里緒が本当にうちの娘であったら良かったのに』なんて漏らしていたくらいなんだから」
香織が笑うと、里緒も頬を少しだけ緩め、深く感謝するように頭を下げた。
「宮家での生活は、学ぶべきことや引き受けるべき重責が多く、時には身が引き締まる思いがいたします。ですが……殿下はとてもお優しく、私の歩みに寄り添ってくださいます。何より、こうして香織ちゃんやみんなと繋がった縁があるからこそ、私はどこへ行っても恐れずに立っていられるのですわ」
サロンの中に、温かな沈黙が流れた。
貴美が人数分のカップにお茶を注ぎ終え、自らも優雅に椅子へと腰掛ける。五人はそれぞれの手元にあるティーカップを掲げ、カチャン、と微かな磁器の音を響かせて小さく乾杯を交わした。
「……思えば、数年前のあの温泉の夜が懐かしいわね」
歌乃がティーカップを傾けながら、遠い目をしてつぶやいた。
「あの頃の私たちは、十七歳で……華族としての運命や、周囲から寄せられる期待にどう応えればいいのか、本当は少しだけ背伸びをしながら怯えていたのよね。誰と結ばれるのか、どんな人生を歩むのか、全く見えなかった」
「ええ」
霧葉が静かに頷く。
「あの頃、恵梨子様が面白おかしく書いてくださった『観察日記』という怪文書に腹を抱えて笑い転げていたのは、どこかで私たちが抱いていた未来への緊張や恐怖を、笑い飛ばしたかったからなのかもしれませんわね」
「そうね……」
香織は自分の腕を覆う優美なレースを愛おしそうになぞった。
「あの作中世界では、私たちが勝手に勘違いして自爆したり、国家権力や宮家の完璧すぎる大外堀埋め立てに絶望して『詰みだー!』なんて悲鳴を上げていたけれど……」
香織はそこで言葉を切り、サロンの窓の外へと視線を向けた。
窓の向こうには、手入れの行き届いたサロンの庭園が広がり、青々と茂る樹々が心地よい風に揺れている。
「現実の私たちは、誰も誰かに無理やり囚われたわけでも、逃げ場を失って屈服したわけでもない。法仁様も、六条様も、歌乃と霧葉ちゃんのお兄様方も、そして里緒ちゃんの宮家の殿下も……全員が私たちのことを一歩一歩、時間をかけて真摯に思い続けてくれた。私たちが自分で選び、自分の足で歩み寄ったからこそ、今日という日があるのよね」
「香織ちゃん……」
貴美が感動に目を潤ませ、胸の前で手を合わせた。
「本当にそうですわね。私たちは確かに、華族という定められた世界の中に生きています。けれど、この籠の中は決して暗く冷たい場所ではありませんでした。こんなにも素晴らしい親友たちと出会い、互いを尊重し合える素晴らしい伴侶と結ばれて……私たちは最高に幸福な『檻』の中で、自由で豊かな花を咲かせているのですから」
「ふふっ、貴美ちゃんったら、なんだか詩人みたい!」
歌乃が嬉しそうに笑い声を上げる。
「でも、本当にその通りですね」
里緒も優しく微笑み返した。
立ち姿の霧葉は、腕組みを解き、静かに自分のティーカップを手に取った。
「さあ、みなさん。しみじみとするのはここまでにして、ケーキをいただきましょう。このサロンのスコーンとマカロンは、フィッティングで疲れ切った身体には最高の栄養ですわ」「あ! 霧葉ちゃん、ずるい! 一番美味しそうなピンクのマカロンを真っ先に狙ってるでしょ!」
歌乃が素早く手を伸ばし、サロンには再び少女の頃と変わらない賑やかな笑い声が弾けた。
ポニーテールを揺らしながらマカロンを口に運ぶ香織。
ノースリーブのドレス姿で凛と佇みながらお茶を味わう霧葉。
温かな微笑みで全員に紅茶を注ぎ足す貴美。
パフスリーブを揺らして楽しそうに談笑する歌乃。
そして、黒いサッシュリボンを引き締め、静かにその輪の中で微笑む里緒。
かつて温泉の湯煙の中で未来を語り合った親友たちは、二十四歳という花開く季節を迎え、それぞれの愛と未来を抱きしめながら、永遠に変わることのない強い絆で結ばれていた。窓から差し込む午後の光は、新しい人生へと踏み出していく五人の純白の花嫁たちを、どこまでも優しく包み込んでいた。