宮中を揺るがした水面下の暗闘を知る由もない六条邸の奥室で、誓子は一人、毛布にくるまって震えていた。
避難小屋の夜から数週間。彼女の心身を削り続けていたのは、高潔な女官としての罪悪感だけではない。
(……来ない。どうして……)
月のものが、予定日を過ぎても訪れない。その残酷な事実が、十八歳の彼女の脳裏に、あの物置の暗闇で全身を貫いた陸仁の熱い質量を何度でも蘇らせた。
もし、自分の胎内にすでに禁忌の種が植え付けられていたら──。
己の身体の変化に怯え、生きた心地のしない日々が続いた。
しかし、その翌朝。
下腹部を襲った確かな痛みにシーツを確認した瞬間、誓子はシーツに顔を押し当てて涙を流した。
身籠ってはいなかった。これで六条家は破滅せずに済む。社会的に抹殺される未来からも、辛うじて逃げ切れたのだと、彼女は激しい安堵に胸をなでおろした。
だが、神仏が与えてくれたその救いは、わずか数時間後に届いた一通の「宮内省令」によって、無慈悲に打ち砕かれることとなる。
『六条雅武長女・誓子、九条公爵家分家・松殿侯爵家の養女たる籍へ移籍を承認。これに伴い、松殿誓子として、京極宮陸仁王殿下との婚約を内定する』
「……そんな」
部屋に届けられた公式の令状を前に、誓子は呆然と立ち尽くした。
身籠っていなかった。既成事実の証拠など、どこにも残っていないはずだった。それなのに、時計の針は止まっていなかったのだ。あの二十一歳の若き主君は、誓子の胎内の結果など待つ気すら最初からなく、自らの「御乱行」そのものを武器にして宮内省を屈服させ、九条の分家たる松殿家の家名をもぎ取り、外堀を完璧に埋め立てていた。
婚礼を間近に控えたある日。宮邸の奥の小部屋で、誓子は訪ねてきた寛代子女王の前に、ただうなだれていた。
寛代子は、いつもとは違う真剣な、しかしどこか引き裂かれそうな瞳で、誓子の華奢な肩を強く抱きしめた。
「……本当に、何もなかったのね? 誓子」
耳元で囁かれる親友の声が、誓子の胸を締め付ける。
「私はお兄様を信じているけれど、それ以上に、あなたの誠実さを信じているから聞くの。お兄様に、無理を言われたり、無体な真似をされたりしたわけではないのでしょうね? 現在、国際防災会議の講演で日本を離れている父上や母上までが、お兄様のこの突然の暴挙に驚愕して、宮内省に事実確認の電報を打っているのよ。本当のことを教えて」
抱きしめられた腕の中で、誓子は静かに、しかし頑なに首を振った。
言えるはずがなかった。身籠らなかったとはいえ、あの狭い物置の壁際で、自分が若宮の飢えた情熱にすべてを委ね、剥き出しの肉体を貪り尽くされたなどと、誰よりも陸仁を慕う寛代子に告げられるはずがない。これは、国家と宮中を欺くための、陸仁と自分の命がけの共犯関係なのだ。
「……はい。本当に、何も。ただ、嵐の雨を凌いだだけにございます」
嘘だった。衣服の下の皮膚には、未だにあの夜に刻まれた熱の残像が消えずに残っている。
「けれど……、世間は、そうは見てくださいません。私は明日から、松殿の娘として、若宮様を『御乱行』の汚名で縛り付ける存在になってしまう……」
誓子の目から、今度は安堵ではない、逃げ場のない檻に閉じ込められた絶望の涙がこぼれ落ちた。自分の存在そのものが、愛する陸仁の名誉を、そして京極宮家の気高き体面を汚してしまう。
その恐怖に怯える親友を見て、寛代子は自身の涙を拭い、毅然と言い放った。
「バカなことを言わないで」
寛代子は誓子の顔を両手で包み込み、その瞳をまっすぐに見つめた。
「あなたが誰よりもお兄様を慕って、誰よりも傷つけないように、女官として一線を守ってきたことを私がずっと見てきたわ。……いい、社交界の有象無象には好きなように言わせておきなさい。明日からは、私の『親友の女官』ではなく、私の『義姉上』として、あの意地張りなお兄様の隣に、誰よりも気高く立ってちょうだい」
親友の汚れなき信頼の言葉が、誓子の胸に、罪悪感という名の鋭い楔となって深く突き刺さった。