松殿侯爵家への電撃的な養女入りと、それに続く京極宮陸仁王との「婚約内定」の発表は、混迷する社交界に巨大な爆弾を投下した。
表向きは「伊勢の悲劇」という過去の災害が紡いだ、美しくも劇的な純愛のシンデレラストーリー。
「京極宮家と松殿家、そして六条家。かつての『伊勢の悲劇』の絆で結ばれた三家が、世代を超えて再び一つになるための、崇高な御成婚であるな」
「山小屋で孤立? ああ、あの六条の妹と二人でか? それは若宮様も、さぞや必死に『妹』を守り抜かれたのだろう。そして松殿家が彼女を養女に……。なるほど、かつての悲劇の絆が、このような形で瑞々しい大輪の花を咲かせたか」
京極宮家に好意的な華族たちは、この成婚を「運命的な美談」として捉えていた。
だが実権を持たず、名誉と格式の維持に骨肉を削る華族たちが、それを額面通りに受け取るはずがなかった。
婚約内定を祝うために催された、宮内省管理の緊迫した夜会。
豪奢なシャンデリアが輝く大広間の片隅で、華族たちが静かにグラスを傾けながら、扇の陰でねっとりとした視線を交わしていた。
「聞いたかね、京極宮の若宮様の御成婚。松殿侯爵家の養女を迎えるそうだ」
「養女? ……ああ、あの『山小屋での外泊』の帳尻合わせですか。お相手は松殿の血筋ではなく、側近の六条雅武の娘だとか」
「……松殿の籍に入れたとて、所詮は分家の六条雅武の娘だろう。何が『美談』なものか」
「美談も結構だが、要するにこういうことだろう? 幼い頃からずっと自分の手の届く場所にいた、逆らうことなど絶対にできない『御学友の妹』のような年下の小娘を、山小屋という逃げ場のない閉ざされた空間で、若宮様が我慢できずに無理やり……。あの小娘、母親譲りのなかなかの容姿をしていたからな」
「そういうことさ。娘の父は京極家の宮家家令だ。密室で若宮様に迫られた時、父親の立場や実家の存続を人質に取られたも同然の小娘が、どうして拒絶できようか」
「全く。避難先の山小屋で一晩、若い男女が二人きり。要するに、若宮様が我慢できずに無理やり手籠めにされたのさ。既成事実を作られてしまい、宮内省が慌てて松殿の家名で泥を覆い隠したのだ」
「男盛りの若宮殿下の御乱行を、九条の血を引く松殿家が引き受けさせられたというわけか。実に見苦しい。力関係を利用した悪しき不徳そのものではないか」
悪意ある噂は、尾ひれをつけて際限なく広がっていく。
「力関係を利用した、若き殿下の『御乱行』というわけだ。それを松殿家が慌てて養女にして家格の帳尻を合わせ、宮内省が必死に法解釈をこじつけて、御成婚という名の『口封じ』をしたのだな」
「ですが、そこで、わざわざ松殿の籍に放り込んで『公認の婚姻』の体裁を整えるとは……」
「慶仁王殿下か、あるいは妃殿下が裏で動かれたか。実に見事な隠蔽ですな。そういえば、昔は殿下と妃殿下も似たような醜聞擬きがございましたが、此度はどうやら本物の醜聞だったようで。まあ、それでも殿下が六条の娘を他の者にあてがったり平民に落としたりするような真似をせず、松殿の養女にして妃に迎えるという形で責任を取られたのだから、男としての筋は通しましたな」
壁際に立つ彼らの邪推は、宮内省が最も恐れていた醜聞の形そのものであり──そして、この場において誰一人として証明できない、真実でもあった。
だが、その不穏な囁きを、若宮の側近である六条雅忠が聞き逃すはずがなかった。あの夜、妹の衣服に付着していた不自然な煤の汚れと臭い。そして、父・雅武が絶望に暮れていた姿。すべての欠片が、雅忠の脳内で最悪の形となって結びついていた。
夜会が引けた直後。宮邸の一室に、張り詰めた沈黙が満ちていた。
重い扉を閉め、陸仁と誓子の前に立ちはだかったのは、雅忠、そして事態の異常性を察して同行した寛代子女王であった。
雅忠の目は怒りと悔しさに血走り、普段の冷静な側近としての面影はどこにもない。
「若宮殿下……! いえ、陸仁様!」
雅忠は、主従の礼を失することも顧みず、鋭い声を震わせた。
「妹の衣服の煤と臭い、そしてこの異常なまでの電撃婚約。宮内省の狼狽ぶり。……すべてに説明がつきません。私には、社交界の老人たちの下劣な邪推の方が、よほど腑に落ちるのです! あなたはあの夜、避難小屋の暗闇で、私の妹に一体何をされたのですか!」
「雅忠、控えなさい……!」
寛代子がその袖を引くが、彼女の瞳にもまた、確信めいた恐怖が宿っていた。
「誓子、あなたもお願いだから、私と雅忠にだけは本当のことを言って!」
二人の追及に、それまで一言も発さずに後ろで控えていた誓子が、顔を真っ赤に染めて俯いたまま、小さな、しかし決定的な声を絞り出した。
「……本当に、何もございませんでした。ただ、若宮様が、冷えた私を、一度だけ……抱きしめて、くださいました……」
「それだけなわけ無いでしょう! あの日の朝、救助が行ったとき、あなたは雅忠の手を思いっきり振り払ったわよね? まさか、お兄様……っ!」
詰め寄られた誓子は、あまりの恐怖と罪悪感に全身の血の気が引き、その場に崩れ落ちそうになった。身籠ってはいなかった。だが、あの夜、自分が若宮の飢えた獣のような情熱にすべてを委ね、純潔を差し出したのは紛れもない事実なのだ。兄に、そして純白の信頼を寄せてくれる寛代子に、これ以上の嘘はつけない。誓子の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
その時、誓子の前に一歩踏み出し、その華奢な身体を背後に隠すように庇ったのは、陸仁であった。
二十一歳の若宮は、側近の激昂に対しても、眉一つ動かさない。ただ、慶仁譲りの冷徹な眼光で雅忠を見据え、氷のように冷たい声で、しかし言い逃れのない事実を言い放った。
「誓子の言う通り、一度だけ……誓子を強く、抱きしめてやった。──それがすべてだ」
その言葉の持つ「真意」を察し、雅忠の拳が白くなるほどに握りしめられた。抱きしめた、などという生ぬるいものではない。妹の涙が、若宮の傲然たる態度が、一線を越えた肉体の交わりを雄弁に物語っている。
「殿下ッ……!!」
雅忠が、いまにも主君の胸ぐらにつかみかからんばかりに一歩進み出た、その時。
陸仁はふっと、薄い唇を歪めて、完全勝利の不敵な笑みを浮かべた。その圧倒的な覇気と昏い愉悦の表情に、雅忠の動きがピタリと止まる。
「フン。殴りたくば殴るがいい、雅忠」
陸仁は傲然と顎を上げ、部屋の時計を一瞥した。
「だが、時計の針は戻らんぞ。宮内省は屈服し、松殿の家名は動き出した。どれほどお前が憤ろうとも、世界がこれを『御乱行』と囁こうとも、関係のないことだ。──誓子はもう、私の妃だ。私から、彼女を連れ戻せる者は誰もいない」
その冷酷にして完璧な宣言に、室内の空気は完全に凍りついた。
雅忠は、己の醜聞すらも最大の武器とした主君の底知れぬ苛烈さと、すでに妹がその腕の中に完全に囚われてしまったという絶望的な現実に、ただ拳を震わせるしかなかった。
不敵に唇を歪めて言い放った陸仁は、まだ赤面して固まっている誓子の細い腰を、今度は見せつけるように強引に引き寄せた。
「夜も更けた。我が妃を休ませねばならんのでな。下がれ、二人とも」
若宮としての圧倒的な威厳と、隠そうともしない独占欲。その気迫に気圧され、寛代子と雅忠はぐうの音も出ず、ただ悔しげに唇を噛んで退室するしかなかった。
静まり返った部屋の中、陸仁は腕の中の愛しい「獲物」を見下ろし、耳元で低く囁いた。
「……よく言った、誓子」
泣き崩れる誓子を背に、若宮の冷たい笑みが、暗い部屋の中でどこまでも気高く、そして残酷に輝いていた。