嵐の夜の密室で結ばれた、世界で一番甘美で、世界で一番ドロドロとした嘘の共犯関係。
雅忠と寛代子を冷酷に退けたあの夜から、誓子を取り巻く世界は劇的に、そして強制的にその姿を変えていった。
宮内省による電撃的な法解釈のこじつけと、九条公爵家分家・松殿侯爵家との間で交わされた「席次と宝冠」の裏取引により、戸籍の書き換えは瞬く間に完了した。ただの家令の娘、宮中の一女官に過ぎなかった「六条誓子」は死に、明日からは最高峰の家格を纏った「松殿侯爵令嬢・誓子」として、正式な御成婚の儀の表舞台へと引きずり出されることとなる。
御成婚を正式に国内外へ宣下するための、宮中での大夜会の朝。
誓子は、松殿侯爵邸の豪奢な控室で、着付けを終えた自らの姿を鏡の中に見ていた。
身に纏うのは、最高級の西陣織で仕立てられた、気高き純白のドレス。そして、その頭上に厳かに戴いているのは──かつて五十二歳になられる慶仁殿下が、伊勢の悲劇で散った松殿侯爵の姉・寛子に下賜するはずだった、あの「幻の宝冠(ティアラ)」であった。
鏡の中にいるのは、社交界の老人たちが邪推したような「無理やり手籠めにされ、怯える小娘」ではない。松殿の家名と、京極宮家の最高の格式という重厚な鎧を纏わされた、完璧な「若宮妃」の姿だった。
(私は、もう戻れない……)
ドレスの重みと、頭上の宝冠の冷たさが、誓子の皮膚にあの嵐の夜の陸仁の指先と同じような熱を思い出させる。
社交界の悪意ある者たちは、今日の夜会でも、自分たちを「御乱行の主犯」と「哀れな口封じの犠牲者」として、好奇の目で見るのだろう。実権を持たぬ華族たちが、唯一の武器である「噂」という牙を剥いて襲いかかってくる。その恐怖に、誓子の指先がかすかに震えた。
その時、控室の重厚な扉が開き、漆黒の礼服に身を包んだ陸仁が姿を現した。
二十一歳とは思えぬ圧倒的な威厳を放つ若き主君は、鏡の前に立つ誓子の姿を、値踏みするように、しかし深い満足を湛えた瞳で見つめた。
「ふん……。九条の分家の看板と、父上の宝冠か。やはり、私にふさわしい最高級の額縁だ」
陸仁は誓子の背後に立つと、その震える肩に、手袋を嵌めた大きな手をそっと置いた。その手の重みだけで、誓子の心の震えが不思議と凪いでいく。
「怖いか、誓子」
「……はい。皆様の、あの視線が、悪意ある噂が、どうしても……」
誓子が俯きかけると、陸仁は彼女の顎を指先でクイと持ち上げ、鏡越しにその強い視線を噛み合わせた。そこにあるのは、世界を敵に回してもなお、絶対に揺るがない完全勝利者の不敵な笑みだった。
「言わせておけばいい。奴らがどれほど『御乱行』と囁こうが、お前を『無理やり奪われた哀れな犠牲者』と憐れもうが、真実はこの私とお前だけのものだ」
陸仁は誓子の耳元に顔を寄せ、あの夜と同じ、昏く甘い声で囁いた。
「奴らの悪意を、その最高級のドレスと宝冠で、上から完璧に踏みにじってやれ。お前は今日から、私の妃だ。……行くぞ、私の誓子」
陸仁はそう言うと、誇らしげに自らの左腕を差し出した。
誓子は、もう迷わなかった。自分の人生を、実家の命運を、そして純潔のすべてを奪い去ったこの苛烈な主。しかし、誰よりも深く、その傲然たる独占欲で自分を世界から守り抜いてくれた男。
誓子は、その細い指先を、陸仁の差し出された腕に、しっかりと絡ませた。
「──はい、陸仁様。どこまでも、あなた様と共に」
大広間の重厚な扉が開かれる。
まばゆいばかりのシャンデリアの光の中へ、二人は一歩を踏み出した。
社交界の華族たちが、一斉に息を呑み、扇を落とす音が聞こえる。そこにあったのは、醜聞にまみれた男女の姿などでは断じてなかった。
悪意に満ちた世界を、その圧倒的な気高さと格式で完璧に支配し、冷然と並び立つ、若き二人の「絶対的な王者」の姿であった。
窓の外からは、暗い夜を切り裂くように、眩いばかりの気高き夜明けの光が、二人の行く手を白々と照らし始めていた。