出張の多い仕事をしていると、多くの不利益がある。例えばそれは育ち難い交友関係だったり、安定しない生活基盤だったり、我が家のエントロピーの問題だったりする訳だが、そんな中でも幾つか良いことがある。その内の1つは、知らない街を歩く為のノウハウを習得出来ることだろう。要は、見慣れない飲食店を探し当てたり、街の古本屋を見つけたりするためのスキル、と言って良い。
そんな嗅覚に従って今日も私は見慣れない夜の街を歩く。
「今回はあてが外れたかな?」
が、まぁそういう物は往々にして当てにならないもで、単純な話何回やって何回当たるかという確率の話でしかないのだ。
いい加減で諦めて、元の大通りに戻ろうかと真剣に考え始めた頃、1軒の飲食店が目に入る。店から通りに突き出るように設けられた看板の文字は、あまりに達筆で私には読めなかった。少なくともアルファベットだ。
店の前まで歩いて、道路に建てられた看板に書かれたチョークの文字を読む。どうやら洋食店らしい。メニューの表記を信じるなら、肉と魚の両方を扱ったメインディッシュや、季節のフルーツで作られるスイーツ、そしてアルコールを振舞う店のようだ。
店外から覗き込んだ窓の向こうは、少し暗めに設定された明かりの所為で詳細がつかめないものの、雰囲気は良い。ポケットから財布を取り出して中身を見、金額がここでの食事に見合うことを確認する。今日はここにしてみよう。当ては外れなかったようだ。
戸を引いて店内へ入る。ベルの音がやけに大きく響いた。夕食時を外しているとは言え、そういえば随分客がいない。味が悪いのでは無いかと言う懸念が頭をよぎるが、まぁこの国のレストランなら食えない料理は出て来まい。それに、そういった味の良し悪しも含めて、旅の風情という物だと、自分を納得させる。
「いらっしゃいませ、1名様で宜しいですか?」
ベルの音で来客に気付いた店員が、店の奥から出てくる。私は頷いてそれに答えた。
「奥のお席へどうぞ。」
言いながら先導する店員に付いて、店の奥側に設けられた2人掛けのテーブルに付く。
1度裏へ引っ込んだ店員は、直ぐにメニューと水を持って出てきた。
「注文がお決まりになりましたら、お呼びください。」
それだけ言うと、再び裏へ引っ込む。
貰ったメニューを開く。どうやらメニューはその殆どが軽くコース料理の体をなしている様だ。前菜、スープ、メインディッシュとデザートを選ぶ仕様になっている。コースとして出されるだけで、実際の運用はセットメニューと言ったほうが正しいかもしれない。
特に目新しいものは無く、標準的な洋食のメニューが並ぶ。と、その中で1つ目を引く物があった。人気なのか、少し大きめの事態で書かれたメニュー。
『柘榴のステーキ』
柘榴と言えば果物だ。現代では余り食べられる事も無いが、ドライフルーツやジュースなどの加工品は出回っている。生で食べるのが基本で、調理されたりする例は聞いたことが無い。ましてやステーキなど。
ふと思いついた事があって、肉料理が書かれたページにある他のメニューを見てみる。案の定牡丹や桜、紅葉等がステーキやソテー、或いはローストとして提供されていた。これらから推測するに、柘榴も何か動物の肉を表す隠語だろう。全く聴きなれないが。
しかし気になるのは事実。大抵の場合この手の肉は牛や豚と比べてクセが強いことが多いが、まぁ大丈夫だろう。元々肉料理は好きなほうだし、あちこちを渡る過程で様々な肉を食べてきた。ちょっと獣臭いぐらいなら全く問題ない。
好奇心に素直に従い、私は柘榴のステーキを頼むことにした。
「すみません。」
呼ばれた店員は、すぐさまこちらへ現れる。
私はコースの定義に従って、幾つかの料理を注文した。勿論メインに柘榴のステーキを据えて。
「お客様。失礼ですが他のお店で柘榴を召し上がられた事はありますか?」
私の注文を聞いた店員は、そう尋ね返してきた。勿論そんな覚えは無いので否定する。
「こちら、大分クセの強い品でして、慣れないお客様ですと、お口に合わないかも知れません。」
店側がそう聴いてくる、と言う事はかなりのものだろう。一瞬躊躇したくなる気持ちが胸に沸く。が、何事も経験だ。別に残したからと言って罰金を取られるわけでもない。
「いえ、中々珍しそうなお料理ですので、是非食べてみたいのです。」
店側の忠告を断る。勿論これで店からすれば言質が取れたわけで、これ以上私を止める理由は無いはずだ。
「解りました。では、初めてであることをコックに伝えた上で、調理させて頂きます。」
その予測通り、店員は注文を受け、此方へ押し付けがましくない程度の善意を添えて、注文を伝えに奥へ下がった。
奥から調理の音がする。金属音、冷蔵庫の開閉音、コンロに火が入り、換気扇のファンが回る。
静かな料理店というのも中々悪くないかもしれない。確かに聞こえてくるのはともすれば生活音と聞き間違えかねない音の群れだが、それが却って今は出される料理への期待を高める。
程無くして、前菜として頼んだカプレーゼが運ばれてきた。ワインと共に。
トマトとモッツァレラチーズをフォークで貫いて、口へ運ぶ。バジルの爽やかさと、オリーブの風味。あっさりとしながら、それでいてチーズのコクを忘れないモッツァレラが、トマトの酸味と共に口の中に満ちる。生のモッツァレラチーズの歯切れの良さは、トマトの食感とも共存する。王道だが、それだけに崩しがたい相性のよさ。自然、酒も進む。
またこのワインが美味く、葡萄の華やかさと渋みが、少々濃い目のカプレーゼを美味く中和し、何口食べようとも1口目の感動を味わうことが出来る。
それに付けても、何故客がいないのか不思議なほどに美味い料理だった。
続けて供されたポタージュも、それなりに色々な物を口にし、ある程度舌の肥えた自身がある私の経験上、十分上位に君臨するだけの美味しさを持っている。
が、次に出された料理が、それまでのイメージを全て覆していった。
「こちら、柘榴のステーキになります」
そういって出された料理が放つ臭気に思わず面食らう。間違いなくステーキだ。一枚肉の。ただ放つ臭いは獣臭ではない。私は嗅いだ事の無い臭いだった。ただ、それはあくまでも匂う、というだけであり辺り一帯を覆いつくす程ではない。実際、運ばれてくるまで気付かなかったのだ。あくまで目立つ臭いが意識の俎上に登ってきただけのことで、冷静になってみればそれを隠すように複数のハーブやスパイスの臭いがする。それでも隠れないとなると、本来はどれだけ強くこの臭いが放たれるのだろう。
もし仮にこの料理がこの店で人気なのだとしたら、そしてそれがこれより尚匂うのであれば、なるほど店に人が寄り付かなくなるわけだ。
が、そのまま怯んでいても埒が明かない。私は意を決してナイフで切り分ける。内側はまだ赤く、絵に書いたようなレア。フォークで刺し、口へ運ぶ。
口に含んだ瞬間、先程の臭いがどうしても鼻に抜ける。が、それに追いつくように香草が織り成す好意的な臭いが鼻を慰める。1度租借を初め、肉そのものの味に目を向けてみれば、決して悪くは無い。いや、寧ろ程よい脂の乗りと、それでいて弾力に満ちた肉質は、私の好みでさえあった。知らず2口目が口へ入る。
2度目とも成ると、最早臭いには慣れていて、混ざり合った香りを楽しむ余裕すら生まれてくる。
また肉料理とワインの愛称は絶妙で、最早非の打ち様が無い。
これは、中々にイケるかも知れない。一瞬転落するかに見えた店の評判は私の中で弾み、再び登って行った。
結局私は、ワインを殆ど1本開け、素晴らしい気分で御代を払って店を後にした。
柘榴のステーキのインパクトは凄まじく、その後に出てきた料理は、私の中で殆ど記憶に留まることを許されなかった。
ああ、結局何の肉だったのか聞きそびれてしまったな。まぁ良い。再び訪れたときにでも尋ねれば良いのだから。