真由美の母は晩年、娘を切り捨てた自分の決断を悔いていた。真由美の父は「仕方がない、あれが最善の選択だった」と言ってそんな妻を慰めたが、彼もまた、一抹の後悔を常に抱いていた。心の奥底では、最善の選択だったなどとは決して思っていない。
しかし、どんなに深く後悔しようとも、当時の自分たちには必要な決断だった。あの時、すでに自分たち親子の関係は修復の道が見えないほどに破綻していた。そんな関係になってしまった原因の一端は自分たちにある。営んでいた小さな工場を守るのに毎日必死で、子供の真由美にほとんど構ってやれず、放置していたも同然だったからだ。けれど同時に、そんな両親に甘えて求めるばかりで、いつまでも精神的に成熟しない娘自身にも非はあったと思う。すべては後の祭りだけれども。
◆◇◆◇◆
「ねえ、お金足りないんだけど」
日付が変わる頃に帰宅した母に、十六歳の真由美は冷たい声で文句を言った。
小さいながらも高い技術力を持った工場を経営する父と、その工場の事務仕事を担う母。真由美の両親は常に馬車馬のように働いており、ほとんど家にいなかった。真由美が小学校高学年になった頃から、母はいくらかのお金を都度渡して、自分で出前をとるなり外食するなり、食事はなんとかしてくれとお願いをしていた。
そんな両親とほとんど会話もせずに育った真由美は、自分に構ってくれない両親に無意識のうちに求めていた愛情やぬくもりを、家庭の外へと求めるようになった。中学生頃までは、主に同学年の友人がいてくれればそれらを得ることができていたが、思春期をむかえて色気づいてくると、愛情を求める相手は友人からカレシに変わり、さらにはもっと怠惰にセフレへ、そしてしまいには援助交際の相手へと変遷した。
「ああ、ごめんね……また入れておくから」
「ちっ。使えねぇババア。死ねばいいのに」
真由美はいつの頃からか、両親のことを両親とも思わなくなった。親らしいことなど何もしてくれなかった、というのが真由美の認識だからだ。「なぜか同じ家に住んでいるオッサンとオバサン」というのが、両親に対する真由美の今の認識だ。
「ちょっと真由美、こんな時間にどこに行くのよ」
「うるさい! あたしに構わないで!」
疲労困憊の顔で帰宅した母を押しのけるように、真由美はスクールバッグを持って家を飛び出した。
入学試験の解答用紙に名前を書けば入学できるようなレベルの高校に入ってすぐ、真由美は友人の勧めで援助交際アプリを使い始めた。食事代程度しかくれない両親と違い、年上の男たちは若いこの体を差し出せば、高額な報酬を気前よくくれた。とても楽な稼ぎ方だった。清潔感のない男に体をさわらせるのは少々嫌悪感を抱いたが、回数を重ねればうまく相手を選ぶこともできるようになって、不愉快な思いはほとんどしなくなった。
お金をくれない役立たずの母親を無視して行く先は、三十代後半のサラリーマンのところだ。彼はタクシーを使って二十分程度で行ける距離のマンションに住んでいる。先ほどアプリで連絡をとったら「今からでもおいでよ」と快く了承してもらえたので、今夜はその男のところで夜を明かすつもりだ。
両親は自分を見てくれない。常に放っておく。だが、男たちは違う。真由美が連絡をすれば、なるべく早くに返信をして、気遣ってくれる。たくさんなでてくれる。優しくしてくれる。おまけにお金をくれて、好きだと言ってくれる。それが恋愛的な意味での彼らの本音なのかは、正直どうでもいい。安い言葉でも行為でも、それらは真由美の中の寂しさをわずかに埋めてくれる。
砂漠を放浪する道中で一滴の水を渇望するように、わずかばかりの優しさと癒やしを、真由美は毎日懸命にかき集めていた。そうしないと寂しくて寂しくて、心がシャボン玉みたいに簡単にはじけて死んでしまいそうだったのだ。
けれど、限界だったのは真由美の両親も同じだ。自分たちにも非があるとはいえ、娘からは金をせびられるだけで、ほかにかけられる言葉といえばオッサンだのオバサンだの、役立たずだの目障りだの、不快に感じる言葉でしかなかった。そしてまたその頃、他国に端を発した世界的な不況が工場の経営にも影響を与えており、両親の経営する工場は存続の危機にあった。当然、真由美には知る由もなかったが。
壊れかけた親子関係。どうにか資金調達をして存続させたい工場。
どこからともなく現れた悪魔のような男は、それらの事情すべてを知っていた。まるで最初から見ていたかのように理解し、そして真由美の両親を誑かした。それが最善の策であると、何もかもを救える方法だと言って。
そして真由美の両親はその男に言われるがまま、娘を売り払った。その瞬間、佐藤・アビー・真由美という少女は死んだのだった。
◆◇◆◇◆
「ん……あれ……なに、ここ……」
ぼんやりと目を開ける。視界は
「えっ、ちょ……何よ、これ!」
そしてすぐに、自分と周囲の異常性に気が付いた。
真由美がいまいる場所は、一辺が三メートルほどの狭い立方体の部屋だった。いや、部屋というよりも箱の中と言ったほうが適切かもしれない。その箱の中で、なぜか自分は椅子に座らされて、拘束されている。膝は曲げた状態で足全体がMの字になっており、自分の意思ではないが豪快に股を開帳している。足を閉じたくても、膝にはベルトが巻かれており、そのベルトから椅子へと鎖が伸びていて、足を閉じることができない。肘と手首にも同様のベルトが巻かれ、同じように椅子へと鎖が伸びている。そしてその鎖が伸びている先の椅子は、どうやらリクライニングシートを改造したようなもので、黒革張りがどことなく高級感を醸し出していた。足裏が乗っている台座はあとから取り付けたような作りで、もしかしたら動くのかもしれない。それも、さらに足を広げる方向に動くようで、まるで産婦人科にある内診台のようなものだった。
見覚えのない部屋に、奇妙な椅子。それだけでも異常だが、何よりも異常なのは自分の格好だ。身に着けている衣服といえば、パンティ一枚だけ。それは自分の手持ちにあるものではなく、レースもリボンも柄もない、白い無地の地味な綿布生地だった。しかし、形はきわどいビキニ型なので、布地は狭い範囲の肌しか覆っていない。援助交際で稼いだ資金でデリケートゾーンは脱毛しているので、布地から陰毛がはみ出るといった見苦しい状態にはなっていないが、気になるのはそんなことではなく、なぜこんな破廉恥な格好でここにいるのか、ということだった。
『おはよう、気が付いたようだね。リアルの時間的にはこんばんは、なのだけれど、君にとってはおはようでちょうどいいかな』
「なっ……誰よ!」