最後の一枚のトーンを、カッターの背で押し付けた。
指先に込めた力は、紙を傷つけないギリギリのところで止まっている。トーンの接着面が原稿用紙の繊維に食い込む微かな抵抗感が、指の腹から伝わってくる。剥がす。シュッという小さな音が、仕事部屋の空気を一枚切り裂いた。
余白のトーンをカッターで削ぎ落とす。刃が紙の上を滑る音だけが、今の世界で唯一の現実だった。
ペンを置く。
その動作は、まるで水中で手を動かしているように緩慢だった。ペン先が机の表面に触れ、カロンと乾いた音を立てた。その音が部屋の隅々に反射し、ゆっくりと消えていく。
机の上は惨状だった。インクの染み、トーンの切れ端、空になったコーヒーの缶。その全てが散乱する中で、四十枚の原稿用紙だけが、整然と積み上げられている。
手を伸ばした。
指先には、インクの黒い汚れがこびりつき、汗の湿り気で指紋の溝が光っている。その指が、原稿の束の端に触れた。紙の平滑な感触。その下に、インクの乾いた微かな凹凸がある。
束を持ち上げた。
ずしりと来た。四十ページ分の紙の重量。それが手のひらに掛かる物理的な重さとして、指の関節に、手首に、前腕の筋肉に伝わる。だがそれは、紙の重さだけじゃない。
デジタル時計の数字が視界の端で明滅している。緑色の光が滲んで見える。何時なのかは、もうどうでもいい。部屋の空気は澱んでいて、インクの溶剤の匂いと、自分自身の汗の生臭さが混ざり合っている。
心臓の鼓動が、耳の奥でトクトクと鳴っている。それ以外の音は、何もない。
手の中の原稿の束を見つめた。
インクの黒とトーンの灰と、白紙だったはずの余白。それらが、四十枚の紙の上に、一つの物語の形を成している。
完成した。
その事実が、実感として追いつくまでに、数秒の空白があった。思考が追いつかない。手の中の重さだけが、現実を繋ぎ止めている。
黒いクリップの金具を親指で押し広げた。
パチン、という硬い音が、まだインクの匂いが残る部屋の空気を震わせる。
金具の先端が四十枚の紙を一噛みにする時の、分厚い抵抗感。指先に伝わる紙の束の圧力。それを支える人差し指の腹に、微かに痛みが走る。
机の上で原稿の束の端を揃えた。
トントン、と軽く叩きつける。紙と紙が擦れ合い、空気が抜けていく微かな音。バラバラだった枚葉が一つの塊になり、手の中で規則正しい厚みを持つ。
クリップを奥へ押し込む。金属と紙が密着し、もう二度とバラけることのない固定された重みが掌に残った。
A4の封筒を開く。
そこへ原稿の束を差し込んだ。
最初の一枚が封筒の内側の紙に触れた瞬間、シュルリという乾いた摩擦音が耳障りに響く。後は抵抗に逆らうように、あるいは抵抗に導かれるように、束全体が奥へと滑り込んでいく。
最後の一枚が飲み込まれ、底に着いた時、ふっと手元の重さが軽くなった。
手の中の熱が、封筒という薄い壁一枚の向こう側へと隔離された感覚。
封筒のフラップを折り曲げる。
指先が震えていた。
テープを押し付ける動作が、ほんの数ミリほど遅れる。その震えは、疲労のせいだけじゃない。これからこの原稿が向かう場所へ、自分自身も引きずり出される予感から来る緊張だ。
しっかりと貼り付ける。
これでもう、自分の手では開けない。開けるのは、審判を下す者たちだ。
指先が、封筒の表面を撫でた。
冷たく滑らかな感触。その下には、熱を帯びた四十ページの魂が封じ込められている。
震えでフラップの端に寄ってしまった微かな皺を、掌で押し消すように撫で伸ばした。
編集部の個室のドアを開けると日向さんはすでに机の向こうに座っていた。手元には閉じたノートパソコンと、一口分だけ減ったコーヒーカップ。窓の外は日が傾き始めていて部屋の中は朱と青の狭間みたいな薄暗さに包まれている。
「来たわね」
彼女が顔を上げた。眼鏡の奥の青緑色の瞳が、俺の手にある封筒を一瞬で捉える。
俺は何かを言おうとしてやめた。言い訳も決意も、この封筒の中に全部詰めてきた。今ここで声にできる言葉なんてきっと軽すぎる。
一歩、机に近づく。それだけで心臓の音が早くなるのが分かった。部屋の静けさが二人の呼吸の大きさを際立たせている。
「……お願いします」
封筒を差し出した。
腕が重い。四十ページ分の紙の重さだけじゃない。構想迷い、覚醒、そして薄暗い希望。そのすべてがこの薄い封筒に封じ込められていて、手放す瞬間だけがやけに現実的に感じられた。
日向さんが手を伸ばす。ゆっくり、迷いのない動きで。
彼女の指先が、封筒の表面に触れた。
その時、俺の指と、日向さんの指が触れ合った。ほんの一瞬。封筒の冷たい表面を挟んで日向さんの指先の熱が、俺の指の背を撫でるように掠めた。
全身に薄く電流が走った。
あの日、編集部の個室で彼女が俺のベルトに手をかけた時の温度。昨日のことのように蘇る。口元に残っていた笑みの意味も耳元に吹き込まれた「続き」という言葉の感触も、その指先から流れ込んできた。
日向さんは、封筒を受け取るとその重さを確かめるように少しだけ腕を下ろした。
「……ちゃんと入ってるじゃない」
「当たり前です。約束ですから」
彼女は俺の目を見た。
封筒から目を離しまっすぐに。その視線が俺の皮膚を一枚ずつ剥がしていくような、不思議な圧力を持っていた。笑っていない。怒ってもいない。ただ「あなたの出した答え」を、そこで測っている。内側に入る前に外側の重さだけで。
「約束、ね」
彼女の唇が、ゆっくり動く。その音が机を隔てた二人の間の空気を震わせた。
「覚えてるんでしょうね」
「……もちろんです」
俺は短く答えた。それ以上、何を言っても負けそうな気がした。
日向さんは少しだけ首を傾げ封筒を自分の手元へ引き寄せた。紙のこすれる音が、静かな部屋にやけにはっきり響く。まるで渡した俺自身が、その音で彼女の側へ引き寄せられていくみたいだ。
「いいわ。今夜、読むから」
彼女が言った。
「結果は、神様でも編集部でもなくてこれが決めるの。分かってるわね」
「分かってます」
彼女の表情はやわらかくでも目だけは笑っていなかった。それが、かえって信頼に感じられた。
ドアの外に出るまで、二人の間に沈黙が流れていた。でもそれは不安で埋まるような沈黙じゃなかった。
俺の掌には、まだ彼女の指先の熱が残っている。封筒の冷たさの代わりに。約束という名の体温が。
一位を取る。
その景色だけが頭の中でやけに確かに、静かに燃えていた。
自宅のドアを閉めた瞬間、全身を覆っていた糸がぷつんと切れた。
靴を脱ぐ。脱いだはずの靴が玄関に転がりその音すら面倒に感じるほど身体が重い。カバンは廊下に落ちるようには置いた。いや、実際に落ちた。もう拾う気は起きなかった。
部屋へ入って、椅子に倒れ込む。
背もたれに沈み込んだ背骨が、長いあいだ無理をさせてきたことへの抗議のようにジンと痛んだ。首を支えるのも億劫で天井を見上げる。部屋の蛍光灯は薄暗く点滅していて、目に染みる。
手を広げた。
指先には、ペンだこの固さだけが残っている。何も持っていない。原稿もペンも、あの熱も。
窓の外は、まだ暗い。夜が終わっていない。いや終われないでいる。
心臓の音だけが、やけに近くで鳴っている。
トクン。トクン。
静寂の中で、その音だけが不規則に跳ねていた。
指が、無意識に動いた。
人差し指が空中に短い線を引こうとする。ペンの重さを思い出し、トーンの端を押さえる角度を探る。原稿用紙の上を走るはずだった軌道が空の上に薄く消えていく。
もう、自分の手の中には何もない。
運命は、自分の意思の外側へ出ていった。渡した。手放した。
そのことが、胸の中を空っぽにしながら同時に妙な高揚を運んでくる。
腹の奥で、震える何かが熱を持っている。
これは恐怖じゃない。
四十ページ分の魂を託して返事を待つ時間。この痺れるような感覚は、期待だ。
ドアの向こうも、窓の外も、街の音は遠い。
自分の呼吸と心音だけが、この夜のすべてだった。
結果が出るまでの時間は、果てしなく伸びていく。
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