※この作品はR-18です。

読み切り漫画家・綴木想真は連載したい   作:ボルメテウスさん

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迫る戦い

発売日の朝は、目覚ましより先に目が覚めた。

 

まるで身体が何かを察知していたみたいに、鳴る前のアラームを遮断するように意識が浮上した。窓の外はまだ薄暗い。カーテンの隙間から漏れる光が、部屋の床に細い線を引いている。

 

玄関の郵便受けを開けた時、指先が冷たい。

 

『ジャンプBLACK』の見本誌だ。

 

ビニールの包装越しに、表紙の色が透けて見える。ずしりとした重さ。それが手のひらに乗った瞬間、昨夜の緊張が一気に現実に引き戻された。

 

キッチンのテーブルに座り、ビニールを破いた。

 

表紙が露わになる。

 

竹村洋平の描く羽前京香が、そこにいた。軍服の襟を正し、こちらを見下ろす瞳。アンソロジー企画の看板を担うにふさわしい圧倒的な存在感。線一本一本に確信があり、陰影の付け方一つで空気の重さが変わる。プロの中のプロの仕事だ。手に取った自分まで、少し背筋が伸びるような錯覚を覚えた。

 

まずは目次だ。

 

指がページをめくる。紙の縁が指先を掠める乾いた感触。

 

そこにあった。

 

綴木想真 『ソーア』

 

鉛字になった自分の名前。紙の上に印刷された二文字のタイトル。ほっとした。安堵が胸の底から湧き上がる。届いている。世に出ている。

 

だがその安堵は、三秒も持たなかった。

 

目次には他の作家の名前が並んでいる。久我山。新人之介。そして常連の佐和田。名前の横に、それぞれの作品タイトルと選んだキャラクターが記されている。

 

久我山のタイトルは『嘴』だ。選んだキャラクターは冥加理宇。

 

新人之介は『雨女』。キャラクターは夢子。

 

指が止まった。どこから読むか。答えは決まっていた。自分の作品の前に、他人の武器を見ておかなければならない。それは漫画家としての本能というより、戦場を知らずに戦地に降り立つ兵士の自衛だった。

 

久我山のページを開いた。

 

一ページ目。黒と赤。それだけが視界を埋め尽くした。冥加理宇の皺の深い顔が、ページの半分を占めている。その表情は笑っているのか怒っているのか分からない。ただ、睨まれているという圧迫感だけが肌に乗る。

 

ページをめくると、暴力的なコントラストが加速した。黒いインクの面積が多くのページを支配し、その隙間に赤いトーンが血の脈管のように走る。構成が緻密だ。コマ割り一つ一つに意図があり、読者の目を逃がさない。視線が誘導されるままに、冥加理宇の狂気の底へと引きずり落とされていく。

 

ラスト三ページ。人間の男が、声を失っていく過程が、音のない漫画の中で「音」として響くかのように描かれている。最後のコマ。男の開いた口の奥が、全面黒塗りで埋め尽くされている。

 

見た後、息が止まっていた。自分で呼吸を思い出すまでに数秒かかった。

 

毒だ。久我山の作品は、毒の塊だ。読者の胃に重く残し、消化を拒否する。読後感は不快感そのものなのに、目が離せない。あの久我山が描く冥加理宇は、老いと欲望の化け物でありながら、どこまでも人間だった。醜悪だが、美しい。

 

俺は無意識に、自分の喉を手で押さえていた。

 

次に新人之介のページを開く。

 

一ページ目。白い。

 

白い紙の上に、細い線が数本、雨の軌跡のように引かれているだけ。夢子が傘を差して立っている。背景はほとんど描かれていない。余白が恐怖を生む。何も描かれていない空間に、読者の想像力が吸い込まれていく。

 

新人之介は、描かないことで描く作家だ。線一本で空気の湿度を変える。夢子の濡れた肩先、傘の縁から滴る雨粒、その一つ一つに感情が籠もっている。そしてその感情は、決して声を上げない。静かに、静かに、読者の胸の底に沈んでいく。

 

ラスト。夢子が振り返るコマ。その瞳には何が映っているのか、描かれていない。ただ、白い目が、読者を見ている。

 

ページを閉じてからも、その目が瞼の裏に残った。

 

静謐。これが新人之介の武器だ。久我山が暴力的な毒で読者を縛り付けるなら、新人之介は静かな沈降で読者を溺れさせる。

 

俺の指が、自分の作品のページへと伸びた。

 

めくる前、一瞬ためらった。喉が渇いている。キッチンの水を飲もうかと思ったが、身体が動かなかった。

 

『ソーア』の最初のページが目に入った。

 

地下格納庫の暗闇。みほと主人公が装甲板の内側に並んで座っている。繊細に描いたつもりだった。影の濃淡も、配管の質感も、二人の間の空気の重さも。

 

なのに。

 

久我山の黒と赤の暴力を通過した後の目には、自分のページが薄く見えた。新人之介の余白の深さを潛った後の感覚には、自分の構成が平面的に感じられた。

 

錯覚だ。分かっている。比べる対象が違う。描いているものが違う。だが、錯覚だと分かっていても、指先の震えは止まらなかった。

 

みほが袖を掴むコマ。主人公が「ここには母さんは来ない」と囁くコマ。対面座位で密着する二人。朝の光が差し込むラスト。

 

描き切ったつもりだった。魂を削った。日向さんに「自分の欲望を注げ」と言われて、注いだ。でも今、印刷された紙の上で、それは「作られた物語」に過ぎないように見えた。久我山の毒は、読者の胃を壊すほど生々しい。新人之介の静寂は、読者の肺を圧迫するほど深い。俺の『ソーア』は、そのどちらとも違う。それは事実だ。違うからこそ勝負になる。

 

だが「違う」と「弱い」の境界線は、紙一枚よりも薄い。

 

俺は見本誌を閉じた。

 

表紙の京香が、また俺を見下ろしている。その眼差しは、同情でも軽蔑でもなく、ただ「さあ、どうするの」と問いかけているようだった。

 

自分の作品が世に出た。それは事実だ。だが、その作品が読者の胸に届くか、届いたとしても久我山や新人之介の隣で輝くのか、それとも影に消えるのかは、俺には分からない。

 

手のひらに残る見本誌の冷たい感触。その中に封じ込められた四十ページの熱が、今は頼りなく感じられた。

スマホの画面をスクロールする指が、どこか他人のもののように感じられた。

 

発売から二日。SNSのタイムラインには『ジャンプBLACK』の文字が散らばっている。アンソロジー企画の話題性は大きく、トレンドの下位に顔を出すこともあった。

 

『ソーア読んだ。みほちゃんエロい。布越しのシーン辛い』

『綴木想真って誰? みほちゃん描いてるのこれの人?』

『制服着たままのやつ良いな。 Gunnパンカじゃ絶対無理なやつ』

『切ない。朝の光のシーンで謎に泣いた』

 

ポジティブだ。間違いなくポジティブな反応だ。だが、俺の指は止まらなかった。スクロールの速度を落とさずに、もっと先を探していた。

 

『久我山先生の嘴ヤバすぎ。朝起きたらまだ胃に残ってた。冥加理宇が憎いのに愛おしい』

『新人之介の雨女は何も起きてないのに全部起きてる。あの余白が怖い』

『嘴と雨女が同時に読める号とか鬼畜かよ。読後感が重すぎて二日寝込んだ』

 

そこで俺の親指がピタリと止まった。

 

違いが分かった。

俺の作品への反応は「消費」だ。読んで、反応して、ハートを押して、次のツイートへ流れていく。楽しかった、エロかった、切なかった。それで終わっている。

一方で、久我山や新人之介への反応は「滞留」している。読者の胃に、肺に、 重く残り、抜け出せない。何日も経ってから尚、咀嚼し続けられている。

 

俺の描いたみほの袖の震えも、布一枚隔てた熱も、彼らの中には残っているのだろうか。それとも、タイムラインの川面に浮かんでは消える泡に過ぎないのだろうか。

 

スマホを伏せた。

 

夕方の書店に行った。

近所の中型店舗。雑誌コーナーの棚に『ジャンプBLACK』が平積みされている。竹村洋平の京香が表紙を飾り、其処から伸びる背表紙の列が一つの壁を作っている。

 

俺の『ソーア』は、その壁の一部だ。

 

立ち読みの男性客が二名。一人は京香の表紙に惹かれて手に取ったようで、パラパラとめくって久我山のページで手が止まった。眉間に皺を寄せ、ページを戻し、再び読み直している。その足は動かない。釘付けだ。

 

もう一人は、目次を確認してから新人之介のページを直抜きで開いた。読み終わった後、本を閉じて天井を見上げた。深い、深い溜息をついてから、再びページを開く。

 

俺の『ソーア』を探した。

棚の残数を見る。初動は悪くないらしい。売れている。でも、その「売れ」の正体が見えない。

 

「みほ」の名前がアンソロジーの客層に刺さっているのか。あるいは「エロ」の二文字が検索ワードとして機能しているのか。それとも、本当に「物語」として選ばれているのか。

 

本を手に取った若い男がいた。彼は表紙の京香に用があるのか、中の某个のヒロインに用があるのか。ページをめくる手つきは、探索というより確認だった。目的のページを見つけ、三分で読み、本を棚に戻した。

 

その無関心な手つきが、俺の胸に冷たい棘を刺した。

 

人気の波には乗っている。それは分かる。だが、この波は脆い。基石が砂でできている。少しでも強い風が吹けば、あるいは次号でより強い波が来れば、あっけなく崩れ去る。

 

俺は自分の棚の残数を数え、店を出た。

 

夜風が冷たかった。スマホのポケットに手を突っ込み、タイムラインに残った「ソーエロい」という文字を思い出す。

 

その文字は、俺が魂を削って描いた「母親の呪縛」でも「背徳の温度」でもなく、ただの記号として消費された感覚だった。

 

表面的な人気はある。だが、それが本物の評価なのか、ただの話題性という名の風が吹かせている波なのかは、まだ分からない。本当の勝負は、読者の胃に重く残るかどうかだ。そしてそれは、アンケートの数字という名の裁判官が下す、冷酷な判決を待つしかない。

編集部への廊下がいつもより長く感じた。

 

呼び出しは発売から五日目の朝だった。「中間報告があります」という羽良嶋さんのメールは短く、いつものように句読点すらない。その简潔さが逆に胃を緊縮させた。

 

打ち合わせスペースの椅子に座ると、羽良嶋さんはすでに資料を広げていた。灰色の瞳が俺を一瞥し、視線はすぐに手元のプリントに戻る。

 

「座ってください」

 

俺は黙って腰を下ろした。テーブルの上にはA4のプリントが数枚。アンケート速報の中間集計だ。数字の羅列。それが、今の俺の命の重さを計っている。

 

「中間報告です」

 

 

ジャンプBLACKのアンソロジーになる作品は?

  • HUNTER×HUNTER
  • NARUTO
  • ONE PIECE
  • 鬼滅の刃
  • ダイの大冒険
  • チェンソーマン
  • ドラゴンボール
  • 魔都精兵のスレイブ
  • 僕のヒーローアカデミア
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