羽良嶋さんの声はいつも通り冷静だった。だが、その指先がプリントの端を押さえる力が、ほんの少しだけ強い気がした。
「読者アンケート現在一位。久我山先生が二位。差は僅かです」
一位。
その二文字が鼓膜を叩いた瞬間、肩から力が抜けた。だが、その弛緩は羽良嶋さんの次の言葉で凍りついた。
「編集部評価は、三位に下がりました」
「…三位?」
「前回の『東風舞希』では編集部評価五位からスタートし、最終的に三位まで上昇しました。今回は初動で三位。ですが、下落傾向にあります」
プリントが俺の方へ滑らされた。グラフの線が、右肩上がりではなく、頭を垂れ始めている。
「読者アンケートは好調です。SNSでの反応も大きい。ですが、編集部内の読み合わせ会で、ある指摘が目立っています」
「ある、指摘」
「『読みやすいが、残らない』」
その五文字が、胸に刺さった。
「『ソーア』は確かに読者の感情を揺さぶりました。みほちゃんの袖を掴むシーン、布越しの熱、朝の光の余韻。すべて丁寧に描かれています。ですが、それは『消費』される感動ではないかという意見です」
羽良嶋さんの指が、グラフの下落ラインをなぞった。
「久我山先生の『嘴』は、読者アンケートこそ二位ですが、編集部評価は一位を維持しています。その差が、最終結果でどう表れるか。今のペースだと、逆転されるのは時間の問題です」
「逆転…」
「 popularity(人気)と、evaluation(評価)は違います。読者が『好きだ』と言うものと、編集部が『残る』と判断するものは、必ずしも一致しない。あなたの作品は今、人気の波に乗っていますが、その波は砂の上に築かれた城です。久我山先生の毒が読者の胃に残り続けるのに対し、あなたの『ソーア』は、読んでいる時は泣けるけれど、一週間後には忘れられているかもしれない」
俺は唇を噛んだ。SNSで見た「エロい」「切ない」という書き込みが、脳裏をよぎる。あれは、感動じゃない。消費だ。羽良嶋さんの言う通りだ。
「一位の座は、今のあなたには重すぎます。次の一手を打たないと、久我山先生に持っていかれますよ」
羽良嶋さんはプリントをテーブルに戻し、腕を組んだ。その瞳に、微かな焦りが混じっているのを、俺は見逃さなかった。
一位だが、盤石じゃない。むしろ、最も危うい位置にいるのだ。編集部への廊下がいつもより長く感じた。
呼び出しは発売から五日目の朝だった。「中間報告があります」という羽良嶋さんのメールは短く、いつものように句読点すらない。その简潔さが逆に胃を緊縮させた。
打ち合わせスペースの椅子に座ると、羽良嶋さんはすでに資料を広げていた。灰色の瞳が俺を一瞥し、視線はすぐに手元のプリントに戻る。
「座ってください」
俺は黙って腰を下ろした。テーブルの上にはA4のプリントが数枚。アンケート速報の中間集計だ。数字の羅列。それが、今の俺の命の重さを計っている。
「中間報告です」
羽良嶋さんの声はいつも通り冷静だった。だが、その指先がプリントの端を押さえる力が、ほんの少しだけ強い気がした。
「読者アンケート現在一位。久我山先生が二位。差は僅かです」
一位。
その二文字が鼓膜を叩いた瞬間、肩から力が抜けた。だが、その弛緩は羽良嶋さんの次の言葉で凍りついた。
「編集部評価は、三位に下がりました」
「…三位?」
「前回の『東風舞希』では編集部評価五位からスタートし、最終的に三位まで上昇しました。今回は初動で三位。ですが、下落傾向にあります」
プリントが俺の方へ滑らされた。グラフの線が、右肩上がりではなく、頭を垂れ始めている。
「読者アンケートは好調です。SNSでの反応も大きい。ですが、編集部内の読み合わせ会で、ある指摘が目立っています」
「ある、指摘」
「『読みやすいが、残らない』」
その五文字が、胸に刺さった。
「『ソーア』は確かに読者の感情を揺さぶりました。みほちゃんの袖を掴むシーン、布越しの熱、朝の光の余韻。すべて丁寧に描かれています。ですが、それは『消費』される感動ではないかという意見です」
羽良嶋さんの指が、グラフの下落ラインをなぞった。
「久我山先生の『嘴』は、読者アンケートこそ二位ですが、編集部評価は一位を維持しています。その差が、最終結果でどう表れるか。今のペースだと、逆転されるのは時間の問題です」
「逆転…」
「 popularity(人気)と、evaluation(評価)は違います。読者が『好きだ』と言うものと、編集部が『残る』と判断するものは、必ずしも一致しない。あなたの作品は今、人気の波に乗っていますが、その波は砂の上に築かれた城です。久我山先生の毒が読者の胃に残り続けるのに対し、あなたの『ソーア』は、読んでいる時は泣けるけれど、一週間後には忘れられているかもしれない」
俺は唇を噛んだ。SNSで見た「エロい」「切ない」という書き込みが、脳裏をよぎる。あれは、感動じゃない。消費だ。羽良嶋さんの言う通りだ。
「一位の座は、今のあなたには重すぎます。次の一手を打たないと、久我山先生に持っていかれますよ」
羽良嶋さんはプリントをテーブルに戻し、腕を組んだ。その瞳に、微かな焦りが混じっているのを、俺は見逃さなかった。
一位だが、盤石じゃない。むしろ、最も危うい位置にいるのだ。
最終結果が届いたのは金曜の夕方だった。
羽良嶋さんがテーブルに置いた一枚のプリント。白い紙に印刷された数字の羅列。それが、四十ページの魂の値段だ。
指が伸びた。震えている。プリントの端を掴むまでの数秒が、永遠に感じられた。
目が数字を追う。
総合順位――一位。
「…一位だ」
声が漏れた。でも歓喜じゃない。確認だ。自分の目を疑っているかのような、掠れた声だった。
読者アンケート一位。電子版単話売上一位。読了率二位。そして編集部評価――二位。
一位は久我山だった。
「差は僅かです」羽良嶋さんが言った。「総合点で久我山先生を零点五点上回りました。読者アンケートの厚みが効きました。ですが編集部評価では一点五点の差をつけられています」
零点五。その数字が掌に乗せた砂の重さのように頼りなく感じられた。
「読者は『ソーア』を選びました。でも編集部は『嘴』を選んだ。この意味を理解していますね」
「はい。読者が好きだと言ってくれた。でも、残ると認められたわけじゃない」
羽良嶋さんは頷いた。その表情に安堵はない。あるのは次を見据える冷徹な視線だけだ。
「おめでとうございます。ですが、この一位は終着点ではなく経由点です。久我山先生との差は縮まるどころか、編集部評価では開いています。次号で逆転されれば、あなたは二度と一位に戻れないかもしれません」
俺はプリットから目を離さなかった。一位の文字が、黒いインクで印刷されているだけなのに、まるで自分の心臓がそこに移ったみたいにドクドクと脷打っているように見えた。
「分かっています。これは勝ったんじゃない。あと一回分、持ち堪えただけです」
「その通りです」
羽良嶋さんはプリントをファイルに綴じた。パタンという音が、一つの区切りを刻む。
「それと、日向さんから預かっています」
羽良嶋さんがテーブルの上に小さなメモを置いた。ホテルの名前と部屋番号が、秋らしい達筆な字で記されていた。
「約束、でしょう」
俺はメモを手に取った。紙の重さはほとんどない。だが、掌に乗せた瞬間、指先に秋の体温が蘇った。あの個室で彼女が俺のベルトに手をかけた時の、確かな熱。
「行ってください。今日は」
羽良嶋さんの声が、いつになく柔らかかった。
俺は立ち上がった。足取りは重い。一位の重さと編集部評価の敗北の重さが、両方の足首に鉛をぶら下げている。
編集部を出て夜の街へ。風が冷たい。メモを握りしめた掌だけが熱い。
約束の場所に向かう。一位を取った。約束は果たされる。だが、胸の奥に巣食うものは達成感じゃない。久我山の毒がまだ胃に残っている読者たちが、次は俺を選んでくれるかどうか。その答えはまだ出ていない。
ホテルのロビーに入る。エレベーターのボタンを押す。数字が上がっていく。階数が一つ増えるたびに、心臓の音が一つずつ速くなる。
部屋の前に立つ。ドアノックの音が、静かな廊下に響く。
中から聞こえたのは、いつもの明るい声だった。
「いらっしゃい。早かったわね」
ドアが開く。秋が立っていた。眼鏡の奥の青緑色の瞳が、俺を捉える。その瞳に映っているのは、達成を認める光と、次を見据える光が混じっていた。
「一位、おめでとう。でも分かってるわよね。これで終わりじゃないって」
「…分かってます」
「なら、いいわ」
秋は一歩横に退き、俺を中へ招いた。部屋の空気が、編集部の冷たいそれとは違う。密度が濃い。二人の間に流れる沈黙が、言葉よりも重い。
ドアが閉まる。外の世界と遮断された。この部屋の中にあるのは、一位という結果と、その裏に残った課題と、そして二人の間の約束だけだ。
俺は一歩踏み出した。
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