「では、確認します」
羽良嶋さんが手元のノートをパタンと閉じた。その音が、打ち合わせの終了を告げる合図みたいに部屋に響いた。
「次回作のテーマはシスター。キャラクターはフードを被った時は清楚で神秘的、取ると現代的なショート金髪の若い印象に反転する二つの顔を持つ修道女。口調はおっとりのんびりしたおばあちゃん風。エロティシズムは修道服の布地が胸の豊かさで張り詰めるところに置く。服を脱がせず、布一枚隔てた質量感で背徳を描く」
「はい」
「プロットはまだ未定。ここからネームに入ってください」
「分かっています」
俺はスケッチブックを閉じた。表紙にはラフの跡がうっすらと浮いている。フードありとフードなしの二つの顔。黒い布地の下で主張する膨らみ。おばあちゃん口調ののんびりした喋り方。
全てのパーツは揃った。
まだ物語はない。プロットもない。ただのキャラクター設定と一つの方針だけ。だが、このスケッチブックの中に閉じ込められた要素が、俺の手の中で化学反応を起こす前の素材だという感覚があった。
「羽良嶋さん」
俺は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「このキャラクターなら勝てます。読者も編集部も、両方」
羽良嶋さんは椅子に座ったまま俺を見上げた。灰色の瞳が、俺の目をじっと見据える。その視線には肯定も否定もない。ただ「言ったわね」という静かな圧力だけがある。
「言葉じゃなくてネームで見せてください。締め切りは二週間後の金曜。それまでに第一稿を持ってきてください」
「二週間」
「『ソーア』は一週間で描き上げました。今回は二週間あります。それだけの時間があるなら、それに見合ったものを出してください」
厳しい。だがその厳しさの裏にあるのは、俺にできると信じているからだということは分かっていた。
「はい。持っていきます」
俺はスケッチブックを抱え編集部を出た。廊下を歩く足音が自分の心拍数と重なる。
一位。そして連載。
次の読み切りで一位を取れば短期集中連載の枠が与えられる。だがそれは読者アンケートだけでなく編集部評価でも一位を取らなければならない。『ソーア』では編集部評価で久我山に負けた。その穴を埋めなければならない。
でも今、俺の手の中には確かな武器がある。
フードの下の金髪。修道服の布地が押し上げる膨らみ。おばあちゃん口調のシスター。このキャラクターが物語の中でどう動き、何を欲望し、どんな結末に至るのか。それはまだ白紙だ。
だが白紙だからこそ、どこにでも行ける。
俺は編集部のエレベーターに乗り込み閉じるドアの向こうに廊下を一瞥した。羽良嶋さんがまだ打ち合わせスペースに座っているのが見える。彼女は俺のスケッチブックに残したラフのコピーを見ているのか、それとも次の作家の資料を整理しているのか。
どちらでもいい。
俺がすべきことは一つだ。二週間後の金曜までに、このキャラクターが生きる物語を完成させる。読者の胃に残り、編集部の基準を超える一作を。
エレベーターの数字が一つずつ下がっていく。地上に着くまでの数十秒間、俺はスケッチブックの表紙を撫でていた。その紙の感触が、白紙の原稿用紙に向かう前の最後の安らぎだった。
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