「プロットの叩き台、持ってきました」
俺はルーズリーフをテーブルに広げた。羽良嶋さんはコーヒーの紙コップを手に取ったまま、視線だけを紙の上に落とす。
「聞かせてください」
「主人公はフリーターの男です。過去に人間関係で裏切られたトラウマがあって、人を信じず一人で生きてきた。名前はまだ仮ですが」
「トラウマの具体的な内容は?」
「まだ決めてません。ただ、人を家に入れるなんて絶対にしないタイプの人間だということが大事で」
「分かりました。続けて」
「ある早朝、彼が河川敷を散歩していると川から気絶したシスターが流れてくる。咄嗟に助けるんですが、ここが重要で。彼は普通なら警察に通報する人間じゃない。でも自分が変な死体や負傷者を発見したって通報したら、警察に疑われるんじゃないかって怖くなる。過去のトラウマが関係してるんです。それでパニックになって自宅に連れて帰ってしまう」
羽良嶋さんが紙コップを置いた。
「警察に疑われる恐怖。それが彼の行動の原動力ですね。でも先生、それだけだと単なる誘枴になっちゃいますよ。シスター側の視点は?」
「彼女はここ数ヶ月の記憶がありません。川で目が覚めた時、自分が誰でどこから来たのか分からない。主人公の家で目を覚まして、まず混乱する。でも彼女の性格がおっとりのんびりしたおばあちゃん口調だから、パニックにはならない。むしろ『おや、ここはどこだろうね』って呑気に」
「記憶喪失のシスターが見知らぬ男の家で目を覚ましても panic しない。その呑気さが逆に主人公を困惑させるわけですね」
「そうです。彼は彼女を追い出したいのに、彼女は『ご飯を作ってもいいかい?』とか勝手に台所に入り始める。しかも家事が異常に得意で、彼の汚部屋を片付けて、飯を作って。彼は追い出せなくなる」
俺はルーズリーフの二枚目を指差した。
「ここでフードを取るシーンを入れるんです。彼女が台所で動き回るうちにフードが邪魔になって、ペロリと取る。ショート金髪が現れる。主人公が『シスターじゃないのか?』って驚く。でも彼女は『あら、取れちゃったね』って気にしない。この瞬間に彼の中でシスターという記号が壊れて、一人の女性としての彼女が見え始める」
「フードの有無による印象の急変を物語の中に組み込む。いいですね。で、その後の展開は?」
「共同生活が始まります。彼女は記憶がないけど家事全般ができる。しかも料理が上手い。彼は最初、警戒して彼女の作った飯を食べない。でも匂いに負けて一口食べたら、それが久しぶりの手料理で、彼の中で何かが崩れる。人を信じない男が、知らない女の料理を食べる。それが第一歩」
「食事を通じた信頼の形成。ただ先生、ここで一つ問題があります」
羽良嶋さんが指を組み替えた。
「彼女がなぜ川に流れてきたのか。記憶喪失の原因は何か。それを描かないと、読者は最後まで引っかかったままになります。ミステリーの伏線として張るのか、それとも物語の終盤で回収するのか」
「終盤で回収します。彼女の正体は元修道女で、修道院で何らかの事件に巻き込まれて川に落ちた。記憶は物語が進む中で断片的に戻る。例えば彼女が夢の中で黒い修道服の集団に追われるシーンを見る。でも目が覚めると忘れている。その繰り返しで読者に違和感を植え付ける」
「違和感はいいですね。でも具体的に何があったのかは決めていない?」
「まだです。ただ、彼女の体には川で怪我をした以外の古い傷跡がある。それが伏線になります」
羽良嶋さんが頷いた。だがその目はまだ厳しい。
「先生。この物語の中心となる場面はどこですか?」
「共同生活の中で、彼女が彼のトラウマに触れるシーンです。彼が人を信じなくなった理由。それを彼女がおばあちゃん口調で『人はね、裏切るもんだよ。でもそれでも一緒にいる方が暖かいじゃないか』って言う。その言葉が彼の殻に亀裂を入れる。でもその亀裂が入った瞬間、彼女の記憶が一部戻って、彼女自身がパニックになる。自分が何者か分からない恐怖。今度は彼が彼女を支える番になる」
「役割の逆転ですね。信じない男が信じるようになり、呑気だった女が脆くなる。その逆転がクライマックスへの導線になる」
「はい。そして結末は」
俺はルーズリーフの最後のページをめくった。
「彼女の記憶が完全に戻る。彼女は修道院に戻らなければならない。でも戻る前に、彼女はフードを被るか被らないかを選ぶする。フードを被ればシスターに戻る。被らなければ俗世に残る。彼女は」
「そこで止めないでください」
「彼女はフードを被らない。でも修道院には戻る。フードなしで。『私は神様を信じてるけど、神様の服はもう着ないよ』って。彼女は修道女としての役割を終えて、俗世に出る。でも主人公の家には戻らない。『あんたに会いに来るよ』って言って、別れる。最後は、彼が河川敷を歩いていると、向こうからフードを被らない彼女が歩いてくる。笑って会釈する。そこで終わり」
羽良嶋さんは長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「結末は綺麗です。でも先生、一つ致命的な穴があります」
「穴」
「彼のトラウマの具体性です。人を信じない理由が曖昧なままでは、彼が彼女を信じる過程に説得力がありません。読者は『なんでこいつは人を信じないのか』が分からないと、彼が変わった時に共感できない。トラウマを具体的にしてください。ただし過去の回想を長々と描くのではなく、彼女との会話の中で自然に漏れ出す形で」
「…分かりました。トラウマを具体化します。彼の過去を一つ定めて、それが物語の中でどう漏れ出すかを考え直します」
「それとページ配分。導入を八ページ。共同生活の積み重ねを十六ページ。トラウマの開示と記憶の断片を八ページ。クライマックスと結末を八ページ。合計四十ページ。この配分で構成案を出してください」
「八、十六、八、八。了解しました」
俺はルーズリーフに数字を書き込んだ。羽良嶋さんは立ち上がり、最後に一言だけ残した。
「彼のトラウマ次第で、この物語の輪郭が決まります。軽く決めないでください」
俺は頷き、ルーズリーフを抱えて編集部を出た。
彼のトラウマ。
人を信じなくなった理由。それがこの物語のエンジンになる。羽良嶋さんの言う通りだ。これが曖昧なら、彼女が彼を変える過程はただの ご都合ラブコメに終わる。
俺は夜の街を歩きながら考えた。
彼が人を信じられなくなった理由。それはあまりにも個人的で、あまりにも日常的な絶望でなければならない。ドラマチックな裏切りじゃない。もっとささやかな、だからこそ取り返しのつかない何か。
その答えが浮かぶまで、俺はペンを持てない。
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