「さて、名前ですけど」
俺はスケッチブックの余白に、いくつかのアルファベットを書き並べた。ペン先が紙の上を滑る微かな音だけが、打ち合わせスペースの静寂に響く。
「キャラクターが固まってきたからこそ、名前の響きが重要になります。おっとりしたおばあちゃん口調で、ショート金髪のシスター。記憶喪失。しかも胸は豊か。これに合う名前」
羽良嶋さんが書き出した文字列を上から順に見ていく。彼女の指先がテーブルの縁でリズムを刻み、視線が紙の上を移動する。
「マリア、テレサ、アグネス…。定番ですね」
「定番すぎます。マリアは重いしテレサは強すぎる。アグネスはちょっと地味というか陰気な響きがある。おばあちゃん口調の呑気さと修道女としての神聖さ、その二つを同居させる名前がいいんです」
俺はペンを回しながら言った。スケッチブックの上の文字列を消したり書き直したりしているうちに、部屋の空気が少し澱んできた気がした。名前一つでキャラクターの輪郭が変わる。その重圧が掌に伝わってくる。
「『オルソラ』はどうですか?」
沈黙を破ったのは羽良嶋さんだった。彼女が俺の書いた中から一つ指差した。その爪の先が、紙の上のインクを正確に捉えている。
「オルソラ…。小熊って意味ですよね」
俺は顔を上げ、彼女の眼鏡の奥の瞳を見た。
「響きが柔らかいでしょう。オ・ル・ソ・ラ。丸みがあってどこかぬくもりがある。おっとりした雰囲気に合うと思います」
羽良嶋さんの声は平坦だったが、その指差しには確信があった。俺はペン先でその文字をなぞった。確かにマリアやテレサのような尖った響きがない。どこかふっくらとした印象がある。唇に乗せた時の丸みが、彼女の性格と重なる。
「いいですね。オルソラ。名字は?」
「名字まで決めますか?」
羽良嶋さんが小首を傾げた。ポニーテールが揺れる。
「日本人じゃないんですよね、見た目からして。なら名字もあった方がいい。出自の匂わせにもなる」
俺がスケッチブックの余白を指で叩くと、羽良嶋さんは少し考え、口を開いた。
「アクィナス」
「アクィナス? 中世の神学者トマス・アクィナスから?」
「ええ。知性と信仰の象徴。修道女としての裏地として神学を学んでいた痕跡を残す。オルソラ・アクィナス。響きの美しさと意味の重さ。そのバランスがこのキャラクターの二面性を支えるはずです」
彼女の言葉が終わった後、短い沈黙が落ちた。俺はノートの上でその二つの言葉を組み合わせてみた。
オルソラ・アクィナス。
口に出してみる。唇の動き。舌の位置。喉の響き。柔らかな母音の連なりが、部屋の空気の中に溶けていく。
「オルソラ・アクィナス。いけます。おばあちゃんみたいな口調で『オルソラだよ』って名乗る。でも、名字は神学者。そのギャップが、彼女の秘密を予感させる」
「決まりですね。オルソラ・アクィナス」
羽良嶋さんがスッと頷いた。その瞳の奥に、微かな光が灯った気がした。名前が決まった瞬間、キャラクターの輪郭が急に現実味を帯びて輝きを増したように感じられた。まるで白紙の上に、彼女の心臓の音が聞こえてきたかのように。
「これでやっと彼女が動き出せます」
俺はスケッチブックを閉じた。表紙の上に掌を置く。紙の冷たさと、その下に眠る熱を感じながら。
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