※この作品はR-18です。

読み切り漫画家・綴木想真は連載したい   作:ボルメテウスさん

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次のチャンス

ペンの音が止んだ。

 

最後の一筆を描き終えた瞬間、指先から力が抜けた。万年筆をデスクに置くと、その小さな音がやけに大きく響いた。まるで長い階段を一段ずつ降り終えた足が、最後に地面に着いた音のように。

 

「……終わった」

 

声に出してみると、実感がゆっくりと沁みてきた。

 

四十ページ。原稿用紙四十枚が、今はただの紙ではなく一つの物語になっている。キャラクターが動き、感情が揺れ、夜が明ければ朝が来る。そのすべてが、この部屋で俺一人の手から生まれた。

 

デスクライトの白い光が原稿の上に落ちている。最後のページ──オルソラが眠りに落ちるコマ。俺はそこに描かれた彼女の寝顔をしばらく見つめた。

 

安心したような、寂しいような、それでいて確かに温かい顔。俺が描いた線なのに、俺の知らない誰かがそこにいるような気がした。

 

椅子に深く寄りかかって、天井を見上げる。アパートの天井には雨水の染みが花びらのように広がっている。それを何週間も眺めてきた。この原稿と向き合っているあいだ、いつも視界の端にあった染みだ。

 

ふと、スマホが震えた。

 

画面を見ると、羽良嶋さんからのメッセージだった。

 

『上がりましたか?』

 

簡潔な一行。時間は午前三時四十二分。羽良嶋さんが起きているとは思えない。恐らく寝る前に送ったメッセージが、今になって俺の目に留まったということだ。

 

『上がりました』

 

俺はそう打ち返した。送信ボタンを押してから、もう一度原稿の束を見た。四十枚。念のためパラパラとめくって確認する。ページの順序、コマの切り、セリフのふきだし。目視で確認する限り、問題はない。

 

疲労が波のように押し寄せてきた。だがそれは不快な疲労ではない。使い切った後の心地よい脱力感だ。筋肉の奥からじんわりと痺れるような感覚。

 

キッチンに行って水を一杯飲んだ。冷たい水が喉を通り抜けて胃に落ちると、ようやく体が自分のものに戻ってくるような気がした。

 

──あのシーン、これでよかったのか。

 

風呂場のハプニングから背中の傷、そして食卓。羽良嶋さんの提案通り、一つのシークエンスにまとめた。六ページ。その六ページに、彼の凍り付いた心が溶け始める過程と、彼女の過去の影を同時に詰め込んだ。

 

原稿を箱に詰める。丁寧に、一枚ずつ。この紙片が明日になれば編集部に届き、やがて誰かの目に触れる。そのことを思うと、不思議と怖さよりも静かな期待が先に立った。

 

ベッドに倒れ込むと、シーツの冷たさが背中に気持ちよかった。目を閉じると、まぶたの裏にオルソラの寝顔が浮かんだ。金の髪が汗に濡れて頬に張り付き、睫毛が小さく震えている。俺が描いた線。俺が選んだ角度。俺が作った光と影。

 

──あの子は、今頃どうしているんだろう。

 

物語の中の彼女は、彼の腕の中で眠っている。だが物語の外──俺の頭の中で生きている彼女は、今どこにいるのだろう。そんな馬鹿げた考えが頭をよぎって、俺は自分の愚かさに小さく笑った。

 

キャラクターは紙の上にしかいない。それは分かっている。だが描いているあいだ、彼女は確かにそこにいた。背中の傷が痛むとき、彼女は顔をしかめた。温かい飯を一口食べたとき、彼女は泣きそうな顔で笑った。それを描く俺の手が震えたのは、彼女の感情が俺に移ったからだ。

 

──早く届けなきゃ。

 

そう思いながら、瞼が重くなっていく。明日の朝、最初の電車で編集部に届ける。それまでもう少しだけ。

 

意識が沈んでいく手前で、スマホがまた震えた。羽良嶋さんからの返信。

 

『明日十時までに持ってきてください。それ以降は受け付けません』

 

いつもの冷淡な口調に、思わず口角が上がった。

 

『わかりました』

 

短く返して、スマホを枕元に置く。

 

夢を見なかった。ただ深い闇の中を落ちていくだけだった。疲れ切った体は夢を見る余裕すら残していなかった。

 

◆◆◆

 

朝が来た。

 

目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。五時四十七分。カーテンの隙間から青白い光が差し込んでいる。夜明け前の空の色だ。

 

原稿の箱を抱えてアパートを出た。四月の朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白く濁る。通学途中の学生たちとすれ違う。彼らの背中には大きなランドセルか革靴の音が響いている。彼らの世界と俺の世界は、同じ朝の中にありながらまったく重ならない。

 

電車に揺られること三十分。編集部のあるビルの前で足を止めた。ガラス張りのエントランスの向こうに、すでに明かりのついたフロアが見える。この業界の人間は早起きだ。

 

受付で羽良嶋さんの名前を出すと、五分でロビーに降りてきた。彼女は今日も変わらない装いだった。黒いジャケットに細身のパンツ。髪をきっちり束ねて、化粧は最小限。ただ目の下に薄い隈が見えた。もしかしたら昨夜は俺からの返信を待っていたのかもしれない。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます。……上がりましたね」

 

羽良嶋さんは原稿の箱を受け取ると、その重さを手で確かめるように少し揺らした。

 

「四十ページ。指定通りです」

 

「内容は後で確認しますが、ラストのコマ。寝顔のページ。あれは意図的ですね?」

 

「意図的って?」

 

「彼女の寝顔だけで終わる。彼の反応を描かない。読者に判断を委ねている」

 

俺は黙って頷いた。彼がどう思うかを描くのは、俺の仕事じゃない。彼女がそうして眠った。それだけで十分だと思ったからだ。

 

羽良嶋さんは箱を抱えたまま、じっと俺の顔を見た。

 

「先生。この原稿、自信はありますか」

 

「ねえよ。そんなもんあったら苦労しない」

 

正直に答えた。羽良嶋さんは一瞬きょとんとしてから、ふっと目を細めた。口元が微かに緩む。笑ったのか。よく分からない。

 

「そうですか。……提出ありがとうございます。結果は二週間後です」

 

「二週間」

 

「はい。読者アンケートの集計に時間がかかります」

 

二週間。十四日。そのあいだ、俺はこの原稿のこと考えないようにしなければならない。だが頭の中にはすでにオルソラの寝顔が焼き付いている。彼女は物語の中で眠り続け、俺は物語の外で目を開けたまま待つ。

 

──長いな。

 

「じゃあ、また連絡します」

 

羽良嶋さんはそう言ってエレベーターに向かった。その背中を見送りながら、俺はポケットに手を突っ込んだ。指先が冷たい。四月の風がまだ冬の名残を残している。

 

二週間が過ぎた。

 

その日、俺はコンビニの弁当を電子レンジで温めていた。チンの音が鳴った瞬間にスマホが震えた。画面を見ると、非通知の番号。一瞬だけ心臓が跳ねた。

 

「はい」

 

『綴木先生でしょうか。〇〇出版編集部の〇〇です』

 

聞いたことのない声だった。若い男性。事務的な口調。

 

『今回の読み切り作品のアンケート結果が出ましたのでご報告いたします』

 

俺は弁当を持ったまま動けなくなった。レンジの前で、箸を握りしめたまま。

 

『結論から申し上げますと──今回の作品は、次号掲載の読み切り中、第一位を獲得しました』

 

言葉が耳に入ってくる。第一位。一位。トップ。

 

『それに伴い、編集部から連絡がきております。今回の読み切りが一位を獲得した場合、連載会議にかけるという条件付きで、先生に連載の打診を──』

 

窓の外で風が鳴った。遠くで電車の音がする。コンビニの冷房がぶーんと低い音を立てている。日常の音がすべて普段通りに流れている。それなのに、世界が少しだけ傾いたような気がした。

 

「……先生?」

 

受話器の向こうで声がした。俺は息を吸った。浅い。深く吸おうとしたが肺が素直に膨らまない。

 

「聞こえてます」

 

『それでは、改めて編集部より正式なご連絡を差し上げます。おめでとうございます、先生』

 

通話が切れた。俺はしばらくスマホを見つめていた。画面が暗くなっても、黒い鏡面に映る自分の顔を見つめていた。

 

──連載会議。

 

つまり、あと一歩だ。あの四十ページが誰かに届いた。誰かがオルソラの寝顔を見て、何かを感じてくれた。それが何なのかは分からない。だがアンケート用紙の数字が、俺の言葉が誰かに届いたことを証明している。

 

弁当はもう冷めていた。

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