ペンの音が止んだ。
最後の一筆を描き終えた瞬間、指先から力が抜けた。万年筆をデスクに置くと、その小さな音がやけに大きく響いた。まるで長い階段を一段ずつ降り終えた足が、最後に地面に着いた音のように。
「……終わった」
声に出してみると、実感がゆっくりと沁みてきた。
四十ページ。原稿用紙四十枚が、今はただの紙ではなく一つの物語になっている。キャラクターが動き、感情が揺れ、夜が明ければ朝が来る。そのすべてが、この部屋で俺一人の手から生まれた。
デスクライトの白い光が原稿の上に落ちている。最後のページ──オルソラが眠りに落ちるコマ。俺はそこに描かれた彼女の寝顔をしばらく見つめた。
安心したような、寂しいような、それでいて確かに温かい顔。俺が描いた線なのに、俺の知らない誰かがそこにいるような気がした。
椅子に深く寄りかかって、天井を見上げる。アパートの天井には雨水の染みが花びらのように広がっている。それを何週間も眺めてきた。この原稿と向き合っているあいだ、いつも視界の端にあった染みだ。
ふと、スマホが震えた。
画面を見ると、羽良嶋さんからのメッセージだった。
『上がりましたか?』
簡潔な一行。時間は午前三時四十二分。羽良嶋さんが起きているとは思えない。恐らく寝る前に送ったメッセージが、今になって俺の目に留まったということだ。
『上がりました』
俺はそう打ち返した。送信ボタンを押してから、もう一度原稿の束を見た。四十枚。念のためパラパラとめくって確認する。ページの順序、コマの切り、セリフのふきだし。目視で確認する限り、問題はない。
疲労が波のように押し寄せてきた。だがそれは不快な疲労ではない。使い切った後の心地よい脱力感だ。筋肉の奥からじんわりと痺れるような感覚。
キッチンに行って水を一杯飲んだ。冷たい水が喉を通り抜けて胃に落ちると、ようやく体が自分のものに戻ってくるような気がした。
──あのシーン、これでよかったのか。
風呂場のハプニングから背中の傷、そして食卓。羽良嶋さんの提案通り、一つのシークエンスにまとめた。六ページ。その六ページに、彼の凍り付いた心が溶け始める過程と、彼女の過去の影を同時に詰め込んだ。
原稿を箱に詰める。丁寧に、一枚ずつ。この紙片が明日になれば編集部に届き、やがて誰かの目に触れる。そのことを思うと、不思議と怖さよりも静かな期待が先に立った。
ベッドに倒れ込むと、シーツの冷たさが背中に気持ちよかった。目を閉じると、まぶたの裏にオルソラの寝顔が浮かんだ。金の髪が汗に濡れて頬に張り付き、睫毛が小さく震えている。俺が描いた線。俺が選んだ角度。俺が作った光と影。
──あの子は、今頃どうしているんだろう。
物語の中の彼女は、彼の腕の中で眠っている。だが物語の外──俺の頭の中で生きている彼女は、今どこにいるのだろう。そんな馬鹿げた考えが頭をよぎって、俺は自分の愚かさに小さく笑った。
キャラクターは紙の上にしかいない。それは分かっている。だが描いているあいだ、彼女は確かにそこにいた。背中の傷が痛むとき、彼女は顔をしかめた。温かい飯を一口食べたとき、彼女は泣きそうな顔で笑った。それを描く俺の手が震えたのは、彼女の感情が俺に移ったからだ。
──早く届けなきゃ。
そう思いながら、瞼が重くなっていく。明日の朝、最初の電車で編集部に届ける。それまでもう少しだけ。
意識が沈んでいく手前で、スマホがまた震えた。羽良嶋さんからの返信。
『明日十時までに持ってきてください。それ以降は受け付けません』
いつもの冷淡な口調に、思わず口角が上がった。
『わかりました』
短く返して、スマホを枕元に置く。
夢を見なかった。ただ深い闇の中を落ちていくだけだった。疲れ切った体は夢を見る余裕すら残していなかった。
◆◆◆
朝が来た。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。五時四十七分。カーテンの隙間から青白い光が差し込んでいる。夜明け前の空の色だ。
原稿の箱を抱えてアパートを出た。四月の朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白く濁る。通学途中の学生たちとすれ違う。彼らの背中には大きなランドセルか革靴の音が響いている。彼らの世界と俺の世界は、同じ朝の中にありながらまったく重ならない。
電車に揺られること三十分。編集部のあるビルの前で足を止めた。ガラス張りのエントランスの向こうに、すでに明かりのついたフロアが見える。この業界の人間は早起きだ。
受付で羽良嶋さんの名前を出すと、五分でロビーに降りてきた。彼女は今日も変わらない装いだった。黒いジャケットに細身のパンツ。髪をきっちり束ねて、化粧は最小限。ただ目の下に薄い隈が見えた。もしかしたら昨夜は俺からの返信を待っていたのかもしれない。
「おはようございます」
「おはようございます。……上がりましたね」
羽良嶋さんは原稿の箱を受け取ると、その重さを手で確かめるように少し揺らした。
「四十ページ。指定通りです」
「内容は後で確認しますが、ラストのコマ。寝顔のページ。あれは意図的ですね?」
「意図的って?」
「彼女の寝顔だけで終わる。彼の反応を描かない。読者に判断を委ねている」
俺は黙って頷いた。彼がどう思うかを描くのは、俺の仕事じゃない。彼女がそうして眠った。それだけで十分だと思ったからだ。
羽良嶋さんは箱を抱えたまま、じっと俺の顔を見た。
「先生。この原稿、自信はありますか」
「ねえよ。そんなもんあったら苦労しない」
正直に答えた。羽良嶋さんは一瞬きょとんとしてから、ふっと目を細めた。口元が微かに緩む。笑ったのか。よく分からない。
「そうですか。……提出ありがとうございます。結果は二週間後です」
「二週間」
「はい。読者アンケートの集計に時間がかかります」
二週間。十四日。そのあいだ、俺はこの原稿のこと考えないようにしなければならない。だが頭の中にはすでにオルソラの寝顔が焼き付いている。彼女は物語の中で眠り続け、俺は物語の外で目を開けたまま待つ。
──長いな。
「じゃあ、また連絡します」
羽良嶋さんはそう言ってエレベーターに向かった。その背中を見送りながら、俺はポケットに手を突っ込んだ。指先が冷たい。四月の風がまだ冬の名残を残している。
二週間が過ぎた。
その日、俺はコンビニの弁当を電子レンジで温めていた。チンの音が鳴った瞬間にスマホが震えた。画面を見ると、非通知の番号。一瞬だけ心臓が跳ねた。
「はい」
『綴木先生でしょうか。〇〇出版編集部の〇〇です』
聞いたことのない声だった。若い男性。事務的な口調。
『今回の読み切り作品のアンケート結果が出ましたのでご報告いたします』
俺は弁当を持ったまま動けなくなった。レンジの前で、箸を握りしめたまま。
『結論から申し上げますと──今回の作品は、次号掲載の読み切り中、第一位を獲得しました』
言葉が耳に入ってくる。第一位。一位。トップ。
『それに伴い、編集部から連絡がきております。今回の読み切りが一位を獲得した場合、連載会議にかけるという条件付きで、先生に連載の打診を──』
窓の外で風が鳴った。遠くで電車の音がする。コンビニの冷房がぶーんと低い音を立てている。日常の音がすべて普段通りに流れている。それなのに、世界が少しだけ傾いたような気がした。
「……先生?」
受話器の向こうで声がした。俺は息を吸った。浅い。深く吸おうとしたが肺が素直に膨らまない。
「聞こえてます」
『それでは、改めて編集部より正式なご連絡を差し上げます。おめでとうございます、先生』
通話が切れた。俺はしばらくスマホを見つめていた。画面が暗くなっても、黒い鏡面に映る自分の顔を見つめていた。
──連載会議。
つまり、あと一歩だ。あの四十ページが誰かに届いた。誰かがオルソラの寝顔を見て、何かを感じてくれた。それが何なのかは分からない。だがアンケート用紙の数字が、俺の言葉が誰かに届いたことを証明している。
弁当はもう冷めていた。
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