会議は二十分で終わった。
ドアの向こうから出てきた羽良嶋さんの表情は、いつもと何も変わらなかった。黒いジャケットの前を留め直し、俺の前に立ってただ一言。
「通りました」
その四文字が、頭の中でゆっくりと反芻される。通りました。通った。連載会議を。俺の企画が。
「……あ」
声にならない声が出た。膝から力が抜ける。壁に手をついて、ようやく体を支えた。羽良嶋さんが微かに眉を上げた。
「そんなに緊張してたんですか」
「してたよ。当たり前だろ」
「普段は飄々としてるのに」
「原稿の締め切りと連載会議じゃ緊張の質が違う」
俺は壁から手を離した。掌に冷や汗が滲んでいる。ハンカチで拭いながら、大きく息を吐いた。吐いてもまだ足りない気がして、もう一度吸って吐いた。
「これで、俺は連載作家か」
「まだ正式な連載ではありません。まずは短期集中連載からです。三ヶ月、全十二話」
「十二話」
「はい。それが好評なら、本連載に移行します」
現実的な数字だ。読み切り四十ページが、十二話に膨らむ。単純計算で四百八十ページ分。三ヶ月で描き切る。しかもアンケートで結果を出し続けなければならない。
「地獄だな」
「ええ。ようこそ、地獄へ」
羽良嶋さんはそう言って、ほんの少しだけ口元を緩めた。俺はその笑みを見て、ようやく自分が作家として認められたんだと実感した。
◆◆◆
連載が始まると、時間の流れが変わった。
一話二十ページ。ネームに三日下書きに二日、ペン入れに四日。残りの十一日で次のネームを練る。この繰り返し。机に向かう時間が増え、外に出る時間が減った。カレンダーの数字が曜日を失い、ただ締め切りまでの残日数としてしか機能しなくなった。
四話目を描き終えたあたりで最初の反響が届いた。読者ハガキの束が編集部から送られてくる。その中に「オルソラの背中の傷の意味が気になります」という一文があった。俺はそれを見て、しばらく動けなくなった。誰かがあのシーンを見て、何かを感じてくれた。
五話、六話と進むうちに、物語は思わぬ方向へ転がり始めた。俺が当初考えていたよりも、オルソラは強くなり主人公は弱くなった。描いている俺の手が、キャラクターに引っ張られる。彼らが勝手に動く感覚。それが心地よくもあり、恐ろしくもあった。
七話目で、物語は一つの山を迎えた。オルソラの過去が明かされる回。修道院に来る前、彼女が何をしてきたのか。背中の傷がどこから来たのか。俺はそのネームを切るのに三日かかった。羽良嶋さんに何度も見せて、何度も書き直した。
「これでいいんですか」
「いいえ」
「どこが」
「全部」
そんなやり取りを五回繰り返して、ようやく七話が完成した。提出した日の夜俺は珍しく酒を飲んだ。コンビニで買った安いウイスキーを、炭酸で割って飲んだ。酔いが回るにつれてオルソラの背中の傷がまぶたの裏に浮かんだ。彼女がなぜあんなに強くなれたのか。なぜ他人に優しくできるのか。その理由を、俺はこの話で描いたつもりだった。だが描けば描くほど、彼女は遠くなっていく。
八話、九話、十話。話数が進むにつれて、アンケートの順位は少しずつ下がった。最初は三位、次は五位そして十話目でついに圏外へ。編集部からの連絡は、最初のうちは「次号も頑張りましょう」だったのが、次第に「テコ入れを考えましょうか」に変わった。
十一話のネームを切っているとき羽良嶋さんから呼び出された。
「先生。十二話で終わりにしましょう」
彼女はいつものように淡々としていた。だがその声には、これまでにない響きがあった。俺はしばらく黙って、それから頷いた。
「……そうだな」
「元々、十二話で一区切りと決めていました。それが予定通り来ただけです」
「分かってる」
「後悔してますか」
その問いに、俺はすぐには答えられなかった。後悔。たった三ヶ月で終わる連載。もっと続けられたかもしれない。もっと読者を掴めたかもしれない。そう思う気持ちはある。だが、それ以上に。
「後悔はないよ」
俺は顔を上げた。
「描きたいことは描いた。七話でオルソラの過去は明かした。十話で主人公のトラウマも。あとはどうやって彼らが前に進むかだけだ。それは十二話で描ける」
羽良嶋さんは少し驚いた顔をした。彼女が驚くところを初めて見た。
「……そうですか」
「ああ。打ち切りみたいな終わり方になるかもしれない。でも、彼らの物語は俺の中でまだ終わってない。終わらせない」
◆◆◆
最終話の原稿を書き終えたのは、連載開始からちょうど三ヶ月目のことだった。
十二話。最後のページ。オルソラと主人公が並んで歩くコマ。二人はどこへ行くのか。何を話すのか。それは描かれない。ただ、二人の背中が小さくなっていく。朝の光の中へ消えていく。
俺はペンを置いて、原稿を箱に詰めた。いつもと同じ手順。丁寧に、一枚ずつ。だが今回は最後の一枚を入れるとき、指が少しだけ止まった。
「これで、最後か」
呟いてから、自分の言葉がおかしかった。物語は終わる。だが俺の戦いは終わらない。次はまた新しい物語を描かなければならない。締め切りは来月も来る。読者は常に新しいものを求めている。
打ち切り漫画のような終わり方。だが、それは終わりではない。ただの区切りだ。次の戦いへの。
俺は箱を抱えて立ち上がった。窓の外では朝日が昇り始めている。その光が部屋の中に斜めに差し込んで、床に長い影を作っている。影は俺の体から伸びて、壁にぶつかって折れ曲がっている。
「まだ、終わらないよな」
誰に言うでもなく呟いて、俺は部屋を出た。編集部へ向かう道すがら頭の中ではすでに次の物語の構想が渦巻いていた。オルソラとは違う、新しい誰か。だが彼女にも負けないくらい強い誰か。
信号待ちの交差点で俺はふと笑った。疲れているのに、眠いのにそれでも笑えてしまう。この先もずっと、締め切りに追われアンケートに怯え、それでも描き続けるんだろうなという予感。それが嫌じゃない。むしろ、そういう自分が少しだけ誇らしい。
青信号になった。俺は歩き出す。原稿の箱を抱えて、朝の光の中へ。
終わりのない戦い。その第一歩目を、今、踏み出した。
今回で唐突な打ち切りエンドのような終わり方で申し訳ございません。
当初は、バクマン。のキャラを1人でも出したいと考えていながら、結局は出せず、終了してしまいました。
連載当時は久し振りにバクマン。を見直した事も含めて、書かせて貰いましたが、途中で方向性の違いや、バクマン。のキャラが出ない事を含めて、疑問もあり、こうして打ち切りのような終わり方をさせて貰いました。
ですが、こうしてここまで続けて来られたのは、皆様のおかげです。
二ヶ月程度という僅かな期間でしたが、応援、ありがとうございます。
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