バットマンアーカムシティ:アナザー・インタビューテープ 作:ニンニク嫌い
≪道化師の笑い声が最も大きくなるのは、観客がいるときとは限らない。誰も迎えに来ない静寂を、自分自身に聞かせまいとしている場合もある。そうは思わないかね、ミスター・ウェイン?≫
≪君は彼女をジョーカーの共犯者としてしか見なかった。私は笑いと狂気の奥に、置き去りにされることを恐れるハーリーン・クインゼルを見つけた。彼が来ない理由を彼女が必死に作り続ける一方で、私はただ一つ、必ず戻るという約束を与えた≫
≪聞きたまえ、ミスター・ウェイン。これはハーレイ・クインが、迎えに来ない道化師を待ちながら、代わりに私が戻ることを願い始めた記録だ≫
道化師 テープ1
テープ#1 ハーリーン・クインゼル aka ハーレイ・クイン
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――――
――――――
【録音開始】
【扉の向こうから甲高い笑い声が近づいてくる。複数の硬い足音と、拘束具の鎖が騒がしく鳴る】
『あはははっ! ねえ、トラちゃんたち。そんなに強く引っ張らなくても、アタシは逃げないよ。これから有名な教授サマと、楽しいお喋りをするんでしょ?』
【何かが壁へ激しくぶつかる】
『ただし、そっちのアンタ! もう一回アタシのお尻を押したら、その黒いヘルメットをお尻から突っ込んでやるから!』
【警備員の呻き声。短い揉み合いのあと、金属製の扉が開く】
『わあ、何この部屋! 灰色の壁に灰色の机、灰色の椅子! 住んでる人の頭の中まで灰色だって、一目で分かる素敵な部屋ね!』
【拘束具が強く引かれ、椅子が床を擦る】
『痛いってば! 自分で座れるよ!』
【ハーレイが椅子へ押し込まれ、手首の拘束具が固定される】
『はいはい、ご苦労さま。もう出てっていいよ。大人のお話に、頭の固いトラちゃんはお呼びじゃないの』
【数秒の沈黙】
≪拘束を解け≫
【警備員の一人が何かを言いかける】
≪聞こえなかったのかね? 彼女の手首から拘束具を外したまえ≫
【鍵が回り、金属製の輪が外される】
『あら。見た目より話が分かるじゃない、教授サマ』
≪下がってよろしい≫
【警備員たちの足音が遠ざかり、扉が閉まる】
【電子錠が作動する】
『部下を追い出して平気? アタシ、こう見えて危険な女なんだよ? 今にも机を飛び越えて、アンタの首をポキッとやっちゃうかも』
≪君はしない≫
『どうして?』
≪扉の外には六人の武装警備員がいる。この部屋にも三台の監視カメラと二種類の警報装置がある。君は入室した時点ですべての位置を確認した。それでも私へ襲いかかれば、脱出する前に制圧されると理解しているはずだ≫
『残念でした。カメラは四台よ』
≪四台目は壊れている≫
『でも、レンズがどこを向いてるかくらい確認するでしょ? 患者の観察を仕事にしてるくせに、そんなことも分かんないの?』
≪患者ではないと否定しないのだね≫
『アタシが患者? 冗談! 診てもらったほうがいいのはアンタでしょ。街ひとつを壁で囲って、自分の顔をそこら中に貼りつけて、屋上から毎日バットマンを眺めてる』
【ハーレイが指を鳴らす】
『自己愛性人格に誇大妄想、それからコウモリちゃんへのちょっと変わった執着。はい、診断終了! お薬は出せないけど、請求書はあとで送ってあげる』
≪実に簡潔な診断だ、ドクター・クインゼル≫
【短い沈黙】
『誰、それ?』
≪ハーリーン・フランシス・クインゼル。ゴッサム州立大学で臨床心理学を学び、優秀な成績で卒業。その後、アーカム・アサイラムへ研修医として勤務した。専門は犯罪心理学だったね≫
『へえ、よく調べたじゃん。でも、その女ならもういないよ』
≪死亡記録は提出されていない≫
『書類に書かれてなきゃ、人が変わったことも分かんないの? やっぱり頭が固いね、教授サマ』
≪それでは、ハーレイ・クインと呼ぶべきかな?≫
『ハーレイでいいよ。仲良くなったら、ハーレイちゃんって呼ばせてあげてもいいけど』
≪君と親しくなることが、この面談の目的ではない≫
『あら、残念。アタシはもう、アンタのことをちょっぴり気に入ってるのに。偉そうで、無愛想で、自分だけは何でも分かってるって顔。ミスターJが一番笑いたがるタイプだもん』
≪ジョーカーの名を出すまで、一分二十一秒。予想していたより遅かったな≫
『何それ。アタシがプリンちゃんの話を始めるまで、時計を見てたの? 嫉妬はみっともないよ、教授サマ』
≪君がいつ彼を盾にするのか観察していた≫
『盾? あははっ! ミスターJは盾なんかじゃないよ。もっとすごくて、もっと面白くて、もっと危ないの! アンタみたいな退屈なハゲ頭、笑いながら粉々にしちゃうんだから!』
≪なぜ彼自身ではなく、君がここにいるのかね?≫
『アタシが先に遊びに来ただけ。プリンちゃんは忙しいの。大事な計画がいっぱいあるからね』
≪医療保管区画へ侵入し、輸血装置と血液分析器を盗むことが、その計画の一部なのかな?≫
『何だっていいでしょ。アンタの物じゃないんだから』
≪この施設へ運び込まれた物資は、すべて私の管理下にある≫
『じゃあ、借りようとしたの。使い終わったら返すつもりだったよ。たぶんね』
≪そのために警備員三名を負傷させた?≫
『四人だよ。階段から落っこちた間抜けを忘れてる』
≪彼は君を追跡中に足を滑らせただけだ≫
『アタシを追いかけて落ちたんだから、アタシの一人勝ち! ちゃんと数に入れてよね』
≪君は、その行動がジョーカーの命令だったとは言わないのだな≫
『だから何?』
≪忠誠心の強い君なら、彼から与えられた役目を誇らしげに語ると思っていた≫
『ミスターJの計画をペラペラ喋るほど、アタシはお馬鹿じゃないよ』
≪計画を知らされていない可能性もある≫
【椅子の軋みが止まる】
『……は?』
≪君は何が必要なのかを正確には知らず、医療機器なら何でも役に立つと考えて保管区画へ侵入した。ジョーカーから命じられたのではなく、彼を喜ばせるために自分で決めた行動だったのではないかね?≫
『アンタには関係ない』
≪彼の病状は、そこまで悪化しているのか≫
【椅子が大きく動く】
『ミスターJは病気なんかじゃない!』
≪声が裏返ったな≫
『ちょっと風邪を引いてるだけ! ゴッサムの寒さと、バット野郎のせいで調子を崩してるの。すぐ元気になるよ。そうなったら真っ先にここへ来て、アンタのその立派なヒゲを一本ずつ抜いて――』
≪君は診断結果を見たのだろう?≫
【沈黙】
≪血液検査の数値を理解できないほど、医学知識を失ったわけではあるまい≫
『黙れ』
≪輸血装置が必要ということは、単なる風邪ではない。君は彼が死ぬ可能性を認識している≫
『黙れって言ったでしょ!』
【机が強く叩かれる。椅子が倒れ、何かが床へ転がる】
『ミスターJは死なない! 絶対に! アンタも、バットマンも、あの氷漬けのデカブツも、誰もプリンちゃんを殺せない!』
【警報装置の短い電子音。扉の外で警備員が動く】
≪入る必要はない。私が対処する≫
『来ればいいじゃん! トラちゃんを何人並べたって、アタシは怖くないよ! 一人ずつ床へ転がして、最後にアンタの頭を――』
≪座りたまえ、ハーレイ≫
『命令しないで!』
≪では立ったままでも構わない。しかし、次に扉が開けば、彼らは君を床へ押さえつける。再び拘束された状態で話したいのなら、そうすればいい≫
【荒い呼吸。数秒後、椅子が起こされる】
『……座ればいいんでしょ』
≪賢明だ≫
【ハーレイが椅子へ乱暴に腰を下ろす】
【机の上で小さなガラス容器が置かれる】
『何、それ?』
≪この区画は古い病院施設を転用している。消毒薬と湿気の臭いを和らげるための芳香剤だ≫
『精神科医がアロマ? 似合わなーい』
≪気に入らなければ換気を止めよう≫
『別にいいよ。トラちゃんたちの汗臭い匂いよりはまし』
【容器の蓋が外される。続いて、ごく小さな噴霧音】
【換気設備の低い駆動音が少し強くなる】
『……甘くないんだね。ちょっと木みたいな匂い』
≪刺激が強い香りは、面談の妨げになるのでね≫
『もっとお菓子みたいなのにすればいいのに。イチゴとか、風船ガムとか』
≪次回の参考にしよう≫
『次もあるつもり?』
≪君が今日すべてを話してくれるなら、必要ないかもしれない≫
『それは無理。女の子には秘密があるから魅力的なんだよ』
≪ならば、いくつか残しておくといい≫
『……変なの。無理やり全部聞き出すって言わないの?』
≪君が話さないものに価値があるとは限らない≫
『本当に嫌なヤツ』
≪それも、よく言われる評価だ≫
【ハーレイが深く息を吸う】
『でも、この匂いは嫌いじゃないかも』
≪呼吸が浅くなっている。何度かゆっくり吸えば落ち着くだろう≫
『アンタに心配されなくても平気だもん』
【それでもハーレイが数回、深く呼吸する】
≪ジョーカーが来たら、私が君へ失礼なことをしたと訴えるつもりかな?≫
『当然! プリンちゃんはアタシを馬鹿にしたヤツを絶対に許さないんだから』
≪本当にそうかね?≫
『そうに決まってる!』
≪ならば、彼が来るまで待つとしよう≫
【短い沈黙】
『……何?』
≪君は、ジョーカーが必ず助けに来ると信じている。私は、それを否定する材料をまだ持っていない。ここで彼の到着を待てば、どちらが正しいか分かる≫
『あはっ、そういうこと? いいよ! プリンちゃんがここへ来たときのアンタの顔、特等席で見物してあげる!』
≪それは楽しみだ≫
【衣擦れの音。ストレンジが椅子へ腰を下ろす】
【しばらく換気設備の音だけが続く】
『…………』
≪…………≫
『ねえ』
≪何かね?≫
『喋んないの?』
≪君はジョーカーを待つと言った。会話は必要ないだろう≫
『面談なんでしょ? 精神科医なら何か質問しなよ。「子供の頃、お母さんに愛されていましたか?」とか、「このインクの染みは何に見えますか?」とかさ』
≪答えるつもりがあるのかね?≫
『ないけど、アンタが必死にアタシの頭をこじ開けようとするところは見たい』
≪君が沈黙に耐えられないことは、すでに分かった≫
『耐えられるよ』
≪では、待とう≫
【再び沈黙】
【約十秒後、ハーレイが鼻歌を歌い始める】
『ラララ……プリンちゃんがやって来る。銃とナイフを持って来る。悪い教授を切り刻み、ハーレイちゃんを連れて帰る……』
≪即興にしては単調な歌だ≫
『うるさいなあ。二番はもっとすごいんだから』
≪聞かせてもらおう≫
『……やっぱりやめた。アンタに聞かせるの、もったいないもん』
【短い沈黙】
『今、何分経った?』
≪入室から八分十七秒だ≫
『そうじゃなくて、アタシが捕まってから』
≪四時間十二分≫
『……そんなに?』
≪正確には四時間十二分四十八秒だ≫
『プリンちゃんは、まだ知らないの。アタシが捕まったところを見たヤツ、みんなトラちゃんに撃たれたんでしょ』
≪君の部下二名は逃走した。少なくとも一名は、製鉄所へ戻ったことが確認されている≫
『だったら、もう準備してるよ。ミスターJは派手なのが好きだからね。アンタの部下を全員吹っ飛ばすには、四時間じゃ足りないの』
≪ジョーカーの部下に、大規模な動きは見られない≫
『アンタに見つからないように動いてるだけ』
≪製鉄所を出た車両は一台。向かった先はこの区画ではなく、バットマンが最後に目撃された地域だ≫
『……バットマンを先に片づけるつもりなんだよ。あいつは邪魔ばっかりするから』
≪君の救出よりも、バットマンを優先している?≫
『作戦の順番! アンタ、そんなことも分かんないの?』
≪分かっているとも。君は、彼が来ていない理由を必要としている≫
『来ないんじゃなくて、まだ来てないだけ!』
≪言葉を変えれば、事実も変わるのかな?≫
『あははっ、教授サマはせっかちね。女の子との待ち合わせでも、五分遅れたら泣いて帰っちゃうタイプ? だからモテないんだよ』
≪君は、ジョーカーを待った経験が何度もあるのだろう≫
『人気者と付き合う女は大変なの。プリンちゃんを必要としてる人は、アタシだけじゃないからね』
≪彼が約束を守らなかったときも、同じ説明をしたのかね?≫
『約束を破ったなんて言ってないでしょ』
≪では、彼は必ず約束を守る?≫
『もちろん!』
≪一度も例外はないのだな?≫
【沈黙】
≪答えるまでに時間がかかっている≫
『昔のことなんか、いちいち覚えてないだけ』
≪君はジョーカーと過ごした時間について、驚くほど詳細な記録を残している。彼が君へ贈った品、二人で行った犯罪、初めて呼ばれた愛称。忘れているのではない。思い出したくない出来事だけを、例外として記憶から外しているのだ≫
『アンタ、アタシの日記を読んだの?』
≪以前にも、彼は君を置き去りにしたことがある≫
『うるさい』
≪危険な状況へ君を残し、自分だけ逃げたことも≫
『黙って』
≪君が負傷しても、迎えに来なかったこともある≫
『黙れ!』
【ハーレイが机を蹴り、金属製の脚が床を擦る】
『アンタ、何にも分かってない! ミスターJはアタシを信じてたの! アタシなら一人でも逃げられるって知ってたから、先に行っただけ!』
≪その説明を考えたのは君か、それとも彼かね?≫
『どっちだっていいでしょ!』
≪君自身が考えたのだな≫
『違う!』
≪ならば、彼からそう言われた?≫
『……プリンちゃんは、いちいち説明なんかしないの。天才の考えてることを、普通の人間が全部理解できるわけないでしょ』
≪君にも理解できないのか≫
『アタシは普通じゃない! ミスターJのことを一番分かってるのはアタシ!』
≪それなら、彼がいま何を考えているか教えてくれ≫
『アンタをどうやって殺そうか考えてる』
≪先ほどはバットマンを追っていると言った≫
『両方だよ! プリンちゃんは頭がいいから、二つくらい同時に考えられるの!』
≪君のことも考えているかな?≫
【沈黙】
【換気設備の駆動音。ハーレイが鼻から短く息を吸う】
『……当然でしょ』
≪声が小さくなった≫
『近くにアンタしかいないんだから、大声を出す必要ないでしょ』
≪そういうことにしておこう≫
『何その言い方。まるでアタシが自信なくしてるみたいじゃん』
≪違うのかね?≫
『違うよ』
≪ならば、彼が来るまで待てばいい≫
『さっきからそればっかり! 待つのは退屈なんだよ!』
≪ジョーカーのためなら耐えられるのだろう?≫
『……耐えられるよ』
≪よろしい≫
【ストレンジが書類へペンを走らせる】
『何を書いてるの?』
≪君の反応だ≫
『アタシ、何にも変なことしてないよ』
≪そうかな。先ほどから五度、扉を確認した。右足は一定の間隔で床を叩き、廊下から音がするたび呼吸が止まっている≫
『怒ってるから』
≪怒りで扉の向こうへ期待するような目を向けるのかね?≫
『見てもないくせに、分かったふうに言わないで!』
≪私は先ほどから君を見ている≫
『……本当に嫌なヤツ』
【遠くで金属製の扉が閉まる】
【ハーレイが鋭く息を呑む】
『今の音、何?』
≪別区画の扉だろう≫
『誰か来たんじゃない?』
≪この部屋へ近づく足音は聞こえない≫
【椅子が軋む】
『違う。誰かが壁の向こうを歩いてる』
≪警備員なら常に巡回している≫
『トラちゃんの足音じゃない。もっと軽かった。プリンちゃんの手下かも』
≪単独でこの区画へ侵入したと?≫
『偵察だよ。先にアタシの場所を調べて、あとからみんなで助けに来るの』
≪では、彼がこの部屋を発見するまで待とう≫
『だから、黙って待つのは嫌なんだってば!』
【ハーレイが大きく息を吸う】
『……ねえ。この匂い、さっきより強くなってない?』
≪量は変わっていない。君の意識が周囲の変化へ過敏になっているのだろう≫
『アタシはいつだって周りをちゃんと見てる』
≪今は見るだけでなく、すべての物音に脅威や期待を感じている。何を恐れているのかね?≫
『何も怖くない!』
≪ジョーカーが来ないことも?≫
『来るって言ってるでしょ!』
≪彼が君の逮捕を知りながら、助ける必要がないと判断した可能性は?≫
『ない!』
≪君なら一人で戻ると思っている?≫
『そうだよ』
≪では、戻れなかった場合は?≫
『戻れる!』
≪ジョーカーは、役目を果たせなかった君をどう評価するかな?≫
【ハーレイの呼吸が乱れる】
『……医療機器を取れなかったこと、怒ってるのかも』
≪彼から命じられた仕事ではなかったはずだ≫
『でも、アタシが勝手に失敗したから……プリンちゃん、使えない子は嫌いなの』
≪だから助けに来ない?≫
『違う! そうじゃなくて……』
【ハーレイが椅子から立ち、室内を数歩歩く】
『頭の中がうるさいの! アンタが変なことばっかり言うから!』
≪私は可能性を示しているだけだ。信じる必要はない≫
『だったら黙ってよ!』
≪分かった≫
【沈黙】
【ハーレイが室内を往復する足音。数歩ごとに扉の前で止まる】
『…………』
【換気設備の音】
『何で、本当に黙るの?』
≪君が望んだからだ≫
『精神科医なら、患者が頭に血を上らせてるときの言葉くらい本気にしないでよ』
≪君は私の患者ではないと言っていたはずだ≫
『今は言葉の綾! 何か喋って。別のこと考えたいの』
≪何について話そうか?≫
『何でもいい。バットマンでも、アンタのつまんない研究でも……』
≪ジョーカー以外の話なら、何でも構わない?≫
【短い沈黙】
『……今はね』
≪呼吸が速い。まず四秒かけて吸い、六秒かけて吐きたまえ≫
『子供扱いしないで』
≪呼吸法を実践することと、子供扱いは無関係だ。君なら理解できるだろう、ドクター・クインゼル≫
『その名前で呼ばないで』
≪分かった。では、ハーレイ。私の声へ合わせたまえ≫
【ストレンジが一定の間隔で机を指先で叩く】
≪ゆっくり吸う。止める。次に、長く吐く≫
【ハーレイの震えた呼吸が数回繰り返される】
『……少しだけ、ましになった』
≪結構≫
『ハーリーンの知識が残ってるからできた、とか言わないでよ』
≪そのつもりはない。君自身が呼吸を整えた結果だ≫
『……そう』
【ハーレイが再び椅子へ腰を下ろす】
≪君は、ジョーカーが来ないことを認める必要はない≫
『本当に?』
≪現時点では、まだ来ていないという事実しかない。彼が何を考えているかは、本人以外には断定できない≫
『アンタでも?』
≪私は万能ではないのでね≫
『初めて聞いた。ヒューゴ・ストレンジ教授にも、分からないことがあるんだ』
≪いくつもある。だから観察し、情報を集める≫
『アタシのことも?』
≪ああ。君を理解したとは、まだ言えない≫
『みんな、すぐ分かった気になるのに』
≪君は演技と冗談で相手の判断を誘導する。数枚の報告書だけで理解できる女性ではない≫
【短い沈黙】
『……褒めてる?』
≪事実を述べただけだ≫
『ヒューゴって、女の子を喜ばせるの下手だね』
≪君は少し喜んでいるようだが≫
『気のせい』
【遠くで小さな衝撃音】
【ハーレイの呼吸が再び止まる】
『今のは?』
≪警備員の巡回だろう≫
『……本当に?』
≪確認させようか?≫
『ううん。もし違ったら、トラちゃんが邪魔しちゃうかもしれない。プリンちゃんの手下なら、気づかないふりをしてたほうがいいから』
≪そうか≫
【ハーレイが指先で椅子の肘掛けを何度も叩く】
『ねえ、ヒューゴ』
≪何かね?≫
『もし……もしだよ? プリンちゃんがアタシのことを知らなかったら、どうなるの?』
≪君の部下が報告するまで、彼は来ないだろう≫
『報告したかどうか、分かる?』
≪製鉄所内の通信は記録している。現時点で、君の名を出した通信は確認されていない≫
『じゃあ、まだ知らないんだ』
≪無線を使わず、直接伝えた可能性はある≫
『だったら知ってるかもしれないじゃん!』
≪ああ≫
『何でそれを先に言わないの?』
≪君が尋ねなかったからだ≫
『本当に融通が利かないね!』
≪だが、事実ではないことを慰めとして与えるつもりもない≫
『……嘘をつかないってこと?』
≪確認できた情報と、推測は分けて話す≫
『プリンちゃんは、アタシを助けに来ると思う?』
≪私の推測を聞きたいのかね?≫
【長い沈黙】
『……やっぱりいい』
≪賢明だ≫
『そこは「きっと来る」とか言うところでしょ!』
≪私がそう言えば、信じるのか?≫
『信じないけど……少しくらい安心できるかもしれない』
≪君が欲しいのは真実ではなく、安心か≫
『今は、どっちでもいいの!』
【ハーレイが深く息を吸う】
『胸が、ずっとドキドキしてる。さっき呼吸したら少しましになったのに、音がするたび元に戻る』
≪長時間の緊張と睡眠不足によるものだろう。痛みはあるかね?≫
『ない。でも、ここに一人でいると、もっとひどくなりそう』
≪一人ではない。監視員が別室にいる≫
『トラちゃんなんか数に入らない。何を言っても無視するし、アタシが騒いだら銃を向けるだけだもん』
≪私にここへ残れと言っているのかな?≫
『言ってない! アンタが勝手にそう思っただけ!』
≪では、面談を終えるとしよう≫
【ストレンジが椅子から立ち上がる】
『待って』
【足音が止まる】
≪どうしたね?≫
『まだ面談の途中でしょ』
≪君は先ほど、私へ黙れと言った≫
『気が変わったの! もっと質問しなよ』
≪どのような質問を望む?≫
『何でもいい。アタシとプリンちゃんのこととか、アンタの大好きなバットマンのこととか……』
≪話していれば、彼が来ないことを考えずに済む?≫
『違う! アンタが退屈そうだから、付き合ってあげようと思っただけ!』
≪私に気を遣う必要はない。君はここでジョーカーを待てばいい≫
【再び足音が扉へ向かう】
『ヒューゴ!』
【足音が止まる】
【数秒の沈黙】
≪君が私の名前を呼ぶのは初めてだな≫
『……教授って呼ぶのに飽きただけ』
≪何か用かね、ハーレイ?≫
『通信機を置いてって』
≪何のために?≫
『プリンちゃんから連絡が来るかもしれないでしょ』
≪この部屋の端末でも受信できる。連絡があれば、すぐ君に伝えよう≫
『アンタがいなかったら、トラちゃんが隠すかもしれない』
≪彼らにその権限はない≫
『でも……』
≪君は私にここへいてほしいのかね?≫
【ハーレイが荒く息を吸う】
『……アンタの話を、もう少し聞いてあげてもいいって言ってるの』
≪それは頼み方として適切ではないな≫
『じゃあ、どう言えばいいの?』
≪君自身で考えたまえ≫
【長い沈黙】
『……一人にしないで』
【数秒の沈黙】
『今だけでいいから、ここにいて。何にも喋らなくていい。プリンちゃんから連絡が来たら、すぐ教えてくれれば……』
≪残念だが、私にはほかの仕事がある≫
『アタシより大事な仕事?』
≪君の面談だけが、私の職務ではない≫
『……そうだよね。アンタだって、忙しいもんね』
≪明日、同じ時刻にもう一度ここへ来よう≫
『明日?』
≪それまでには、ジョーカーが君を迎えに来ているかもしれない≫
【長い沈黙】
『……そうだよ。明日にはアタシ、もうここにいないもん』
≪それなら、次の面談は必要ないな≫
『でも!』
≪何かね?≫
『もし、プリンちゃんが忙しくて……ほんのちょっと遅れたら?』
≪その場合は、続きを話そう≫
『約束?』
≪面談の予定を記録しておく≫
『そうじゃなくて。アンタ自身が来るって、ちゃんと言って』
≪私が来る≫
『トラちゃんじゃなくて?』
≪ああ≫
『何時?』
≪明日の同じ時刻だ≫
『遅れない?』
≪私は約束の時間を守る≫
【ハーレイがゆっくり息を吐く】
『……つまんない男』
≪そうかもしれないな≫
『プリンちゃんは違うよ。時間なんか守らないし、約束だって忘れちゃう。でも、それはミスターJが自由だから。アンタみたいに時計に縛られてないの』
≪そう考えることで、彼を待ち続けられたのだな≫
『…………』
≪連絡があれば、時刻に関係なく君へ伝えよう≫
『本当?』
≪ああ≫
『救出命令じゃなくてもいいの。アタシの名前を出したとか、どこにいるって聞いたとか……何でも』
≪承知した≫
『嘘をついたら殺すからね』
≪覚えておこう≫
【電子錠が解除され、扉が開く】
『待って』
【足音が止まる】
『……明日、絶対に来て』
≪約束したはずだ≫
『もう一回言って』
≪明日の同じ時刻に、私がここへ来る≫
【ハーレイが安堵したように息を吐く】
『なら、いいよ。行って』
≪また明日、ハーレイ≫
【扉が閉まり、電子錠が作動する】
【換気設備の低い駆動音だけが残る】
【しばらく沈黙】
『……つまんない部屋』
【椅子が小さく軋む】
『プリンちゃんが来たら、こんな壁なんか一発で吹っ飛ばしちゃうんだから』
【遠くで扉が閉まる】
【ハーレイが鋭く息を呑み、椅子から立ち上がる】
『ミスターJ?』
【返答はない】
『……違うよね。そんなに早いわけないもん』
【ゆっくりとした足音が扉へ近づく】
【ハーレイが耳を扉へ押し当てる】
『ラララ……プリンちゃんがやって来る。銃とナイフを持って来る……』
【歌が途中で止まる】
『……ねえ。聞こえてるんでしょ、ヒューゴ?』
【返答はない】
『別に話し相手が欲しいわけじゃないよ。録音機が動いてるか確認しただけ』
【ハーレイが扉から離れ、室内を歩き始める】
【数歩ごとに足が止まり、すぐまた動きだす】
『ミスターJは来るよ』
【沈黙】
『病気だから、少し時間がかかってるだけ』
【換気設備の駆動音】
『アタシを忘れるわけないもん』
【さらに長い沈黙】
【遠くで何かが床へ落ちる】
【ハーレイが短い悲鳴を呑み込み、扉へ駆け寄る】
『プリンちゃん? そこにいるの?』
【返事はない】
『……トラちゃんが何か落としただけだよね』
【ハーレイが扉の前へ座り込む】
『大丈夫。アタシは怖くない』
【震えた呼吸】
『プリンちゃんは来る』
【数秒の沈黙】
『来るよね、プリンちゃん?』
――――――
――――
――
【録音停止】
Stop テープ#1
≪道化師は約束を忘れても、それを自由と呼べば許されるらしい。だが、待たされる者の心まで、同じように自由でいられるとは限らない≫
≪次の記録では、迎えに来ない男の代わりに、約束を守った者の手が彼女を落ち着かせる。彼女が誰の帰りを待ち、誰のそばで眠りにつくのか――よく聞いておきたまえ、ミスター・ウェイン≫