種無しの男が、超ハイスペックな後輩に妻の種付けをお願いする話 作:minnie_remon
夕暮れ時のリビングに、冷めた紅茶の香りが漂っている。
西日がカーテンの隙間から差し込み、机の上に並べられた数枚の診断書を白く浮き上がらせている。そこに並ぶ医学用語と、数字の羅列。それが意味する残酷な答えを、達也はただ凝視することしかできなかった。
「達也さん……」
向かいに座る亜美の、小さく震える声が聞こえた。達也は視線を上げることもできず、ただ乾いた唇を開いた。
「ごめん。大丈夫、だよ。大丈夫…」
何が大丈夫なのか、自分でも全く分からなかった。口から漏れ出た言葉はスカスカで、部屋の空気に溶けてそのまま消える。
二人の出会いは、大学時代の書店でのアルバイト先だった。
元気で明るいしっかり者の亜美と、口数は少ないが真面目で几帳面な達也。同い年だけど、バイト先の関係は亜美が先輩。最初は仕事上の会話だけ…それも達也が亜美に仕事の進め方を指導され、ダメ出しされるだけだった。しかし達也が仕事をしっかりこなせるようになり、一緒にシフトに入る時間が増えるにつれ、自然と距離が縮まっていった。バイト終わりの夜道、強い雨の中、一つの傘の下に収まって並んで歩いた時間は、達也にとっては人生で最も愛おしい記憶のひとつだ。
卒業と同時に、2人は当然のように結婚した。23歳という若さだったが迷いはなかった。周囲からは「少し早いんじゃないか」と言われもしたが、互いを思う気持ちに疑いなど無かった。
結婚生活は順調そのものだった。大手電機メーカーに勤める達也と、インテリアショップで働く亜美。休日には一緒に料理を作り、夜は映画を観ながら並んで眠りにつく。小さな喧嘩はあっても、翌朝には「おはよう」の一言で元通り。誰が見ても羨むような仲睦まじい夫婦だった。
ただ、たった一つだけ、二人の人生には欠けているピースがあった。
子ども、である。
結婚して2~3年が経った頃ぐらいから、二人は何となく子どものことを意識し始めた。近所に住む友人が赤ちゃんを連れて遊びに来た時、愛おしそうに抱っこする亜美の姿を見て、達也は「早く亜美を母親にしてあげたい」と強く願うようになった。
だが、待てど暮らせど、待望の知らせは届かなかった。
「まだ私たち、若いから」
「そうだな、焦る必要はないよな」
そう励まし合いながら、排卵日を予測するアプリを使ってタイミングを合わせる日々が続いた。しかし、毎月やってくる「その日」の度に、亜美は一人トイレで落胆の溜息をついた。それを知っていながら、達也はかけてあげる言葉を見つけられずにいた。
そして結婚して5年が経ち、二人が28歳を迎えた今年。亜美が意を決したように切り出した。
「一度、ちゃんと病院で検査を受けてみない?」
それが、全ての始まりだった。
亜美自身、不妊治療専門のクリニックに通うこと自体に抵抗が無い訳ではなかったが、原因が分かれば対策も立てられるという前向きな気持ちの方が強かった。達也もまた男性側の不妊が増えているという記事を目にしていたため、多少の不安を覚えつつも精液検査に応じた。
その、結果。
「奥様の方は、到って健康ですね」
亜美の検査結果は、拍子抜けするほど良好だった。卵巣年齢も若く、排卵やホルモンバランス、子宮の状態にも何一つ異常は見つからなかった。
しかし、その後に告げられた達也自身の検査結果が、彼の世界のすべてを粉々に打ち砕いた。
『無精子症』……それが、医師から告げられた病名だった。
提出した検体の中に、精子がただの一匹も存在しない状態。顕微鏡の視野いっぱいに広がるのは動く気配など全く感じられない、静まり返った無の世界だった。
医師は言葉を選びながら、慎重に説明を続けた。
「精管が詰まっている閉塞性タイプであれば、手術で精子を採取できる可能性があります。しか、達也さんの場合は精巣そのものが精子を作り出す機能を失っている『非閉塞性無精子症』の可能性が非常に高いです。さらに詳しい遺伝子検査などを行いますが……正直に申し上げて、達也さんのお子さんを授かることは、現代の医学ではほぼ不可能です」
医師の唇が動くたび、達也の頭の中のネジがポロポロと外れていくような感覚がした。
「ほぼ…不可能」
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響する。
言葉の意味は理解できる。しかし、感情がそれを受け入れることを拒絶していた。
……種無し。
自分の体からは、子孫を残すための生命の源が一切存在しない。生物として、人間として、男として、自分は決定的な欠陥を抱えている…そう宣告されたように感じられた。
クリニックからの帰り道、二人は一言も喋らなかった。いつもの見慣れた街並みが、まるで灰色の映画のセットのように冷ややかに見えた。
そして今、二人は自宅のリビングで、沈黙の中に置かれている。
「達也さん…ごめんなさい。私が、検査に行こうなんて言ったから…」
亜美が泣き出しそうな声で言った。自分を責めるようなその言葉に、達也の胸が激しく痛んだ。
「なんで亜美が謝るんだよ…悪いのは、俺だろ」
声が震えた。自分の声ではないみたいだった。
「俺の体が悪いんだ。俺が…『種無し』なんだから」
その言葉を口にした瞬間、体の奥から込み上げてくる情けなさと絶望で視界が一気に歪んだ。ポタポタと、涙が膝の上に落ちて染みを作っていく。
亜美が立ち上がり、達也の傍に駆け寄ってその肩を抱きしめた。
「そんなこと言わないで!達也さんは悪くないよ!たまたま、そういう体だっただけじゃない。ねえ、泣かないで…」
亜美の温もりと、優しくかける声。
でもそれが今の達也にとっては、何よりも痛かった。
(亜美は何も悪くない。子どもを産む能力もあって、母親になる準備ができているのに…)
愛する女性が『母』になる未来を奪っているのは他の誰でもない、夫である自分なのだ。
「俺と結婚しなかったら…」
思わず漏れ出た言葉に、亜美が息を呑むのがわかった。
「俺と結婚しなかったら、亜美は普通に子どもを産んで、お母さんになれたのに」
「達也さん、何言ってるのっ…!」
「だってそうだろう。俺は亜美に、子どもを抱かせてあげることはできない。男として、夫として、何もしてやれないんだ…!」
達也は叫ぶように吐き捨てた。
亜美を傷つけたい訳ではなかった。ただ自分という存在の無力さと、亜美に対する圧倒的な罪悪感に耐えられなかったのだ。
亜美は唇を噛み締め、ボロボロと涙を流しながら達也の顔を見つめた。
「私は…子どもが欲しいから達也さんと結婚したんじゃないよ。達也さんのことが好きだから、一緒にいたかったから結婚したんだよ…!」
亜美の言葉は本気だった。嘘偽りの無い、真っすぐな愛情だった。
しかしその美しすぎる愛情すらも、今の達也にはあまりに眩しすぎた。
「でも、亜美は子どもが欲しいだろ?正直に言ってくれよっ…!」
亜美は答えられなかった。ただ涙を流し、達也の服の袖を強く握りしめることしかできなかった。
でもその沈黙こそが、何よりの答えだった。
夜が更けても、暗闇の中で達也の思考はグルグルと渦を巻き続けていた。
隣で疲れて眠りについた亜美の、規則正しい寝息が聞こえる。その髪をそっと撫でながら、達也は天井を見つめていた。
…自分の血を引いた子どもは、一生この手に抱くことができない。
…自分がこの世から消えたら、自分の生きた証はどこにも残らない。
…そして何より、愛する妻から「母親になる夢」を奪ってしまったという、重い事実。
暗闇の底で、達也は深い絶望の淵へと沈んでいった。
絶対に亜美を幸せにする…そう誓ったはずなのに。
今や自分の存在そのものが、亜美の幸せを阻む悪魔の壁のように思えてならなかった。