種無しの男が、超ハイスペックな後輩に妻の種付けをお願いする話 作:minnie_remon
絶望の淵に沈んだ夜から、数日が過ぎた。
達也は会社を休むこともなく、表面上は普段通りの生活を送っていた。しかし胸の中に空いた巨大な穴は塞がる気配がなく、一人になるとどうしても「種無し」という残酷な四文字が脳裏をよぎった。現実を受け入れられず自らの無力さに打ちひしがれる日々の中で、達也の心は崩壊しかけていた。しかし毎朝目を覚ますと、そこにはいつも愛する夫を気遣い、気丈に振る舞おうとする亜美の姿があった。
自分のために無理をして笑おうとする妻を見るたび、達也の胸に鋭い痛みが走る。
(俺がこのまま壊れていたら、亜美までダメになってしまう。俺がしっかりしなければ…何もかも終わってしまうんだ)
男としてのプライドは木っ端微塵に砕け散った。だが夫としての責任と、亜美への深い愛まで捨てる訳にはいかなかった。
(亜美に、子どもを産ませてあげたい……)
その思いだけが、冷え切った達也の心の中で唯一消えない火種として残っていた。自分の遺伝子を残すことができないのならどうすればいいのか。特別養子縁組か、それとも…
達也はが「第三者からの精子提供」という選択肢を見出すのは、ある意味時間の問題だった。
自分の血を引く子どもを授かることは、もう叶わない。だが第三者の精子提供を受ければ、亜美の体で、亜美の血を引いた子どもを産むことはできる。自分は実の父親にはなれないかもしれないが、生まれた子を我が子として愛し、育て上げる覚悟はある。何より、それが愛する妻に「母親になる幸せ」を贈る唯一の方法だった。
達也の心は決まった。問題は、誰に精子提供を依頼するかだった。
医療機関を通じた匿名の精子提供は、国内では規制やドナー不足により数年待ちが当たり前でハードルが非常に高い。個人的にSNSで発信しているような提供者は、倫理的な問題はもちろん何より身元の不明さがあり到底信用できなかった。何より、見知らぬ誰かの遺伝子を受け継ぐ子を自分は本気で愛せるだろうか…その自信が持てなかった。
その時、達也の脳裏に、ある一人の男の顔が鮮明に浮かび上がった。
(そうだ…悠斗がいる…)
夏海悠斗。達也の中学時代の水泳部の一年後輩であり、今でも定期的に連絡を取り合う数少ない友人の一人だ。
悠斗は、一言で言えば、「完璧な男」だった。
学業成績は常にトップクラス、スポーツにおいても中学時代に競泳の自由形全国大会で優勝しオリンピック強化選手の話が来るなど、圧倒的なポテンシャルを見せつけていた。しかし水泳の道には進まず高校では進学校で勉学に励み、当然のように東京大学に現役合格。そして何と在学中に司法試験に一発合格。現在は都内の大手法律事務所で弁護士として華々しいキャリアを積む一方で、社会人となった今でもトレーニングを欠かさず、トライアスロンの大会で優勝を飾るなどまさにアスリート並みの肉体を維持していた。
さらに悠斗の名を全国区にしたのは、大学時代に出場した『頭脳No.1決定戦』というTV番組だった。あらゆるジャンルの知識と超人的な思考力が問われるその番組で、悠斗は二年間連続で他を寄せ付けない断トツの優勝を果たしたのだ。そのあまりの知識量と圧倒的なひらめきに加え187cmの長身に、アイドルのように端正な顔立ち。世間は彼を羨望と嫉妬を込めて「東大の王子様」「完璧超人」と呼んだ。
(悠斗なら…悠斗の遺伝子なら…)
達也の心の中で、ひとつの狂おしい思考が急速に膨らんでいった。
悠斗は中学時代から今に到るまで、自分をとてもよく慕ってくれている。身元も人柄も、これ以上なくハッキリと分かっていて信頼できる人物だ。
そして何より、あの完璧な男の遺伝子を受け継ぐ子どもなら、どれほど才能に溢れた素晴らしい子に育つだろう。知能、体躯、容姿、どれをとっても最高の血。自分の不甲斐ない遺伝子なんかよりも遥かに優れている…心の底からそう思える男だった。
亜美もテレビを通して悠斗の活躍を知っている。「凄い人が達也さんの後輩にいるんだね」と、かつて感心していたことがあった。
彼こそが…悠斗こそが亜美の子どもの「父親役」として最も相応しいに違いない…
………………………………………
「悠斗に、精子提供をお願いしようと思う」
休日の午後、リビングでそう切り出した達也の言葉に、亜美は手にしていたティーカップを落としそうになった。
「え…? 達也さん、今、なんて…?」
亜美の目が大きく見開かれる。達也は静かに、しかし固い決意を込めて自らの考えを伝えた。
自分の不妊を受け入れたこと。亜美に母親になってほしいこと。そして身元が確かで、人間的にも能力面でもこれ以上ない信頼ができる悠斗に、ドナーになってもらいたいということ。
語り終えた達也を、亜美は信じられないといった表情で見つめていた。そして、ゆっくりと首を横に振った。
「嫌よ…! そんなの、絶対に嫌!」
亜美の声が裏返っていた。
「どうしてそんな発想になるの!? 第三者の精子を使うなんてだけでも受け入れがたいのに、達也さんの知っている後輩の人だなんて…! そんなことをしたら、これからどんな顔をしてその人と会えばいいの? 子どもの顔を見るたびに、その人の影を感じながら生きていくなんて、私には耐えられない!」
「亜美、落ち着いてくれ。悠斗は信頼できる男なんだ。見ず知らずの誰かの精子を使うより、ずっと安心だろう?」
「安心とかそういう問題じゃないの!」
亜美は立ち上がり、達也の胸元にすがつくように叫んだ。
「私が欲しいのは達也さんの子どもなの!達也さんの血を引いた赤ちゃんを産みたいから、検査を受けてみようて言ったんだよ!? 他の男の人の子どもなら、いくら信頼できる人だろうと、いくら優秀だろうと欲しくなんてない!そんなのは私の望む幸せじゃない!」
涙を溢れさせながら訴える亜美の言葉は、達也の胸を刺した。
しかし、達也の心もまた、もう引き返せないところまで追い詰められていた。
「でも、俺の血を引く子は絶対に産めないんだ!」
達也の悲痛な叫びが、部屋に響き渡った。
「現実を見てくれよ、亜美…!俺の体じゃ、どう頑張ったって子どもはできないんだ!俺だって、亜美には俺の子供を産んでほしかったよ!でも、無理なんだ…! じゃあ俺はどうすればいい?亜美が一人で妊活のサイトを見て悩んでいたのも、友だちの赤ちゃんを見て切ない顔をしていたのも、俺は全部知ってる。俺がこんな体だからって、亜美から『子どもを産んで育てる未来』を奪いたくないんだ。身勝手なのは分かってる。でも、俺は亜美と、子どもと一緒に笑い合える家庭を作りたいんだよ…!それとも、俺は亜美から『母になる夢』を奪ったまま、一生罪悪感に苛まれて生きていけっていうのか!?」
「達也……」
達也は亜美の両肩を強く掴み、必死の眼差しで見つめた。
「俺は、亜美に子どもを産ませてあげたいんだ。お腹が大きくなって、愛おしそうに赤ちゃんを抱っこする亜美の姿が見たいんだよ…! 悠斗の子なら、絶対に素晴らしい子になる。俺が、俺たちの本当の子として、命をかけて愛して育てるから。だから…だから……」
達也の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。それは男としての惨めさと、妻への切実な愛情が混ざり合った、悲痛な叫びだった。
そんな夫の様子を、亜美は絶句しながら見守るしかなかった。
目の前で涙を流し、なりふり構わず頭を下げようとする夫。その姿には、妻である自分に「母親になって欲しい」という光を与えたいという、痛々しいほどの強い意志が宿っていた。
達也がどれほどの苦悩の果てに、この「狂気」とも言える提案に辿り着いたのか。どれほど自分の尊厳を削り取って、他人の遺伝子を受け入れる覚悟を決めたのか。それを思うと、亜美の胸は締め付けられるように痛んだ。
(達也さんは…私のために、ここまで自分を追い詰めていたんだ…)
達也の自分に対する愛の深さと、それゆえの歪んだ決意の重さが、亜美の胸を押し潰す。
もしここで自分が拒絶し続ければ、達也は一生「妻を母親にできなかった男」として、自分を責め続けて壊れてしまうかもしれない。
「達也さん…」
亜美は静かに手を伸ばし、達也の濡れた頬を拭った。
「もう…分かったから。そんなに泣かないで…」
「亜美…?」
「分かったわ。達也さんがそこまで言うなら…悠斗さんにお願いしてみましょう」
亜美の言葉に、達也は息を呑んだ。
「本当に…いいのか…?」
「ええ。達也さんがそこまで覚悟を決めてくれたんだもの。…でも、二つ約束して。一つ、もし子どもが生まれたら、絶対に私と達也さんの子として育てること。二人で、世界一愛してあげること。もう一つ、もし悠斗さんが断ったら、この話はもう二度としないこと…」
「分かった…うん、当たり前じゃないか」
達也は亜美を強く抱きしめた。
その肩に顔を埋めて涙を流す達也の背中を撫でながら、亜美は窓の外の曇り空を見つめていた。
完璧超人とまで言われる男、夏海悠斗。
夫の提案を受け入れたものの、亜美の胸の奥には、得体の知れない予感と小さな不安が、冷たい影を落としていた。