種無しの男が、超ハイスペックな後輩に妻の種付けをお願いする話 作:minnie_remon
これで全てが上手くいく――そう思っていた矢先だった。
「達也さん、申し訳ありません…少し問題が起きてしまいました」
電話越しの悠斗の声はどうにも困り果てた様子だった。達也が事情を聞くと、同棲中の彼女に今回の精子提供の話をしたところ猛反対されてしまったという。彼女の了解が得られない以上このまま進めるのは難しい、だから本当に申し訳ないが達也さんからも彼女に事情を直接話して説得して頂けないか、という話だった。
二つ返事で承諾した達也は、指定された日時に悠斗の住むマンションへと向かった。
案内されたのは、港区の一等地に聳え立つ超高級タワーマンションだった。重厚なエントランス、ホテルのようなコンシェルジュデスク、幾重ものオートロック。しかも悠斗の部屋はその最上階だという。ドアの前に立つだけで、達也は自分の身なりが急に惨めに見えてくるような圧倒的な格差を感じていた。
「達也さん、遠い所をすみません」
「いやいや、こっちからお願いしたことだ。逆に本当に申し訳ない」
出迎えた悠斗に促され、室内へと足を踏み入れた達也は改めて息を飲んだ。
パノラマウィンドウからは東京の街並みが一望でき、足元には毛足の長い高級ラグ。洗練されたインテリアの数々は、成功者の中でも特別な成功者しか手にすることのできない富と栄光を雄弁に物語っていた。
しかし達也は一方で、悠斗なのだからこのぐらいの部屋を手に入れるのも当然だ、とも思った。何せ彼は、「完璧超人」なのだから。自分たち夫婦が、その精子を請い願うほどの…
「彼女は奥の部屋にいます」
悠斗がそう言って奥の部屋の扉を静かに開いた。
その瞬間、達也の時が止まった。
(え…嘘だろ…?)
目を見開き、固まってしまう達也。
そこにいたのはテレビや街頭広告で見かけない日は無い、2年連続でCM出演本数ランキング1位に輝き、国民的な知名度と圧倒的な美貌を誇る超人気若手女優、今井美桜だったのだ。
悠斗が学生時代に『頭脳王No.1決定戦』で連覇を果たした際、美桜はその番組のアシスタントMCを務めていた。それがきっかけで密かに交際をスタートさせ、現在は結婚を見据えて同棲しているのだという。
「初めまして、今井です」
美桜は小さく会釈をしたが、その瞳には一切の温かみが感じられなかった。画面越しに見せる明るい笑顔はどこにも無い。底知れない冷たさと、トップ女優に上り詰めた圧倒的なオーラが、小さな身体から苛烈に放たれていた。
リビングのソファーに通され、達也、悠斗、美桜の三人が向かい合う。
重苦しい沈黙を破ったのは、美桜だった。氷のように冷ややかな視線を達也に突きつける。
「広瀬さんとおっしゃいましたね。単刀直入に言います。悠斗からの精子提供のお話、私は断固として反対です」
「美桜…」悠斗がなだめようと口を挟むが、美桜はそれを鋭い一瞥で制した。
「悠斗は黙ってて。広瀬さん、あなた、ご自分がどれだけ非常識なことを言っているか分かってますか?」
美桜の言葉には、一切の躊躇も容赦もなかった。
「子供が作れないからって後輩に精子を出してくれだなんて、正気ですか? 悠斗はあなたの『都合の良い種馬』じゃないんですよ。いくら昔世話になった先輩だからって明らかに一線を越えてます。他を当たって下さい」
「今井さん…それは自分も、本当に悩んだ末に…」
達也は言葉を絞り出して取り繕おうとするが、美桜の凄まじい迫力に押し潰される。
「悩めば非常識なことをやっても許されるんですか?」
美桜の大きな瞳が、怒りで小さく燃え上がっていた。
「もし悠斗の子どもがあなたたちの家で生まれたらどうなると思ってるんですか? 万が一それが世間に漏れたら悠斗の弁護士としてのキャリアはどうなります? 私の女優としての立場は? あなたは自分の『父親になりたい』という身勝手な願望のために、私たちの未来を大きな危険に晒そうとしているんです。悠斗の優しさを利用しないでください!」
凛とした声で畳みかけられる正論。
愛くるしい顔立ちからは想像もつかない、冷酷なまでの凄み。トップ女優の持つ圧倒的な威圧感に、達也は全身の毛穴が開くような恐怖を感じていた。
怖気づき、逃げ出したい衝動が走る。
彼女の言う通りだ。自分は非常識で、身勝手で、後輩の優しさに甘えた最低の男だ…
でも――ここで引き下がる訳にはいかない。
脳裏に浮かんだのは、自宅で自分の帰りを待ち、不妊に苦しむ自分を常に支えてくれる妻・亜美の顔だった。
自分の無力さのせいで、涙を流させた。
悠斗の『規格外の精子』という、狂気のような希望にすがらなければ、もう夫婦として前を向いて歩けない所まで追い詰められているのだ。
プライドや男としてのの尊厳は、精子提供を願うと決めたその時から、全てドブに捨てた。
「……お願いします」
達也はソファーから立ち上がると、そのまま豪華なラグの上に両膝をついた。
「達也さん、 何を…!?」
悠斗が驚いて立ち上がるが、達也はそれを顧みることなく、額を床に擦り付けた。
――土下座。
何も持たない哀れな男が、後輩の目の前で、20代の若さにして芸能界の頂点に上り詰めた女優に対し、恥も外聞も無く地べたに平伏していた。
「広瀬さん…やめてください」
美桜の声に微かな動揺が走る。
「今井さん…あなたの言う通りです。俺は非常識で、身勝手で、最低な男です。悠斗の優しさに甘えて、利用しようとしました。全部あなたの仰る通りです」
達也の声は、床に押し当てられながら泥臭く響いた。
「でも…でも自分には、もうこれしかないんです! 俺の体じゃ、亜美に子どもを産ませてやれない! 愛する妻に、母親になる幸せを与えてあげられないんです! 悠斗の…他の誰よりも信頼し尊敬する悠斗の遺伝子が必要なんです!お願いします…悠斗を、悠斗の力を貸してください…!」
ポタポタと、涙が超高級ラグに染みを作っていく。
プライドをすべてかなぐり捨て、なりふり構わず頭を下げ続ける年上男性の悲痛な姿。そこには綺麗事ではない、人間のドロドロとした切実な執着と妻への愛情が滲み出ていた。
部屋の中に、重い沈黙が流れる。
美桜は冷ややかだった表情を少し崩し、達也の背中を見下ろしていた。
普段、彼女の周りにいるのは、ハッキリ言うと取り繕った言葉を並べる業界人ばかりだ。これほどまでに醜く、惨めに、しかし必死の命乞いのように頭を下げる男を見たことがなかった。
「…はあ」
やがて、美桜の口から小さくため息が漏れた。
「立ち上がってください、広瀬さん」
ゆっくりと達也が立ち上がる。その表情は涙でぐしゃぐしゃになっていた。
そんな哀れな姿を晒す達也に、美桜は腕を組みながら、どこか呆れたような、諦めを含んだ目で言った。
「本当に、最低で身勝手な人ですね。そこまでして自分を惨めに堕としめて、満足ですか」
「申し訳、ありません…」
「感謝するなら、あなたみたいな最低で身勝手な人を、リスクを背負ってでも助けてあげたいと言った悠斗にしてください」
美桜は悠斗の方を向くと、少し投げやりな口調で言った。
「悠斗、好きにしたらいいんじゃない。でも、絶対に認知はしないこと。法律的なトラブルは完璧に防ぐこと。弁護士なんだかた自分の身は自分で守ってよね」
「美桜…ありがとう」
悠斗がホッとしたように微笑む。美桜は「ふん」と鼻を鳴らすと、達也と目を合わせることなく自分の部屋へと戻っていった。
パタンと扉が閉まる音だけが、リビングに寂しく響く。
「達也さん。その…申し訳ありませんでした」
悠斗に謝られた達也は、自分の惨めさを噛み締めていた。
大人気女優に罵倒され、土下座までして手に入れた悠斗の精子。なりふり構わず手に入れたその切符が自分たち夫婦をどこへ運んでいくのか。達也は震える手で涙を拭いながら、ただ「ありがとう」と繰り返すことしかできなかった。