美鈴さんとの夜から数日が経った。
俺はヨルさんに用意してもらったバーリントの古いアパートの一室で目を覚ますたびに、自分の体に違和感を抱いていた。
(また…変わったのか)
掌を開き握りしめる。
以前よりも力が入りやすい気がする。
傷の治りも速い。
ヨルさんから聞いた「生命回帰」なる能力が、行為を重ねるごとに強まっているのか、それともこの世界の空気に慣れてきたのか。
どちらにせよ異世界へ順応しているという実感は、帰る手段を探すという本来の目的とは矛盾していて、その事実に毎朝少しだけ胸が冷える。
朝の routines を済ませ、残りの食材で簡単なスープを作る。
ヨルさんが教えてくれたこの世界の野菜は味が薄いが、塩加減でなんとかなる。
彼女の料理が壊滅的なのは知っているが、教える側に回ると案外まともな味になる。
チリリン。
卓上の通信端末が鳴った。
ヨルさんだ。
彼女との連絡手段は市役所の休憩時間に限られている。
俺はスープの鍋を弱火にして受信した。
『あ、生真さん? お昼休憩に入ったので連絡しました』
ヨルさんの声はいつもより低かった。
美鈴さんを紹介した時はもう少し明るく、少しはにかんだような声だった。
今回は違う。
何かを慎重に選びながら話しているような、間合いの取り方。
「はい、聞いてます。どうしました」
『あの…次の方の紹介なんですけど…』
言いよどみ。
受話器の向こうで彼女が唇を噛んでいるのが目に浮かぶ。
『その…少し、普段と様子が違う方なんです』
「様子が違うって、どういう意味ですか」
『言葉で説明するのが難しくて…その、私が同席してもいいですか? 紹介するだけじゃなくて、最初から最後まで私が間に入った方がいいかなって』
ヨルさん自身が仲介役を希望する。
美鈴さんの時は喫茶店で顔を合わせて後は二人きりだった。
今回はそこから違う。
(美鈴さんよりさらに複雑な事情があるってことか)
俺の脳裏に数日前の夜がよぎる。
豊満な体、汗の匂い、耳元で囁いた言葉、そして朝別れる時の寂しげな笑顔。
あの夜以来、女性を紹介されるたびに以前より深い何かを求めてしまう自分がいる。
割り切った行為のつもりが、割り切れていない。
「…わかりました。同席してください。場所はどこですか」
『ありがとうございます。聖樹中立領の近くにある診療所の食堂なんですけど…ここなら人目も少なくて』
「聖樹中立領…診療所、ですか」
『はい。その方、今そこの診療所に…入ってるんです』
入ってる。
その言葉の意味を俺は聞かなかった。
だがヨルさんの声が普段より数段抑えられている理由は分かった。
「いつですか」
『明後日の午後…お時間大丈夫ですか?』
「大丈夫です。俺の都合はいつでも空いてますから」
『…ありがとうございます。生真さん』
その最後の「ありがとうございます」には、感謝とは違う響きが混じっていた。
謝罪に近い何か。
通話が終わり静寂が戻った部屋で俺は鍋のスープを椀に注いだ。
味がしなかった。
数日前の美鈴さんの体温と、ヨルさんの声の奥にある迷いが同じ比重で胃に沈んでいく。
明後日。
診療所。
ヨルさんが同席する面会。
次の相手は、美鈴さんよりももっと深い何かを抱えている。
俺はその予感を噛み殺しながら、冷めたスープを飲み干した。
聖樹中立領の診療所から少し離れた場所に、古い公園があった。
ベンチは煤けた木製で、ところどころ苔が生えている。だが星命樹の根が地上に露出した部分が天然の日除けになっていて、午後の日差しは柔らかく濾されていた。
空気に微かな甘みがある。
この領域だけ星命樹の影響が残っているのか、それとも診療所の薬の匂いが風に乗って届いているのか。
俺には判断がつかなかった。
ヨルさんは隣のベンチに座り、少し離れた入り口の方を気にしている。
「来ましたよ」
小さな声でヨルさんが言った。
視線を向けると、公園の入り口に人影があった。
一人ではない。
ヨルさんの知り合いらしい女性職員に手を引かれて、一人の女性がゆっくりと歩いてくる。
(あれが…)
最初に目に入ったのは髪だった。
金色。
ただの金ではない。午後の日差しを吸い込んで内側から発光しているかのような、透明な輝きを持つ金髪。
後ろで一つに結ばれているが、結び目から先がふわりと広がり風が吹くたびに揺れる。
次に肌。
透けるように白い。
ヨルさんも日和さんも美鈴さんも白かったが、この人の白さは質が違う。血色が薄い。生気の輪郭が希薄なのだ。
そして顔。
整っている。
眉目秀麗という言葉がぴったりだ。高い鼻筋、ふっくらとした唇、すんなりとした頬のライン。
だが、そこに浮かんでいる表情は──何もなかった。
虚ろ。
遠くを見ている。
目の前にある世界を認識しているのかどうかすら怪しいような、透明な硝子球のような青い瞳。
(綺麗だ。でも…何だこの感覚は)
美しさと不在感が同じ顔の上に同居している。
美鈴さんの艶や日和さんの成熟とは違う。ヨルさんの凛々しさとも違う。
この人は、どこか別の場所にいる。
体はここにあるのに、魂がまだ帰ってきていないような。
(救助現場で見たことがある)
重度の被災者。
あまりにも多くを失い、心がまだ現実に追いついていない人間の目。
俺は無意識に立ち上がっていた。
「ゼニスさん、こちらが久世生真さんです」
ヨルさんが女性職員から彼女の手を引き継ぎ、ベッドに…いやベンチに座らせた。
ヨルさんはゼニスさんの隣に密着して座り、その手を握っている。
「初めまして。久世生真です」
俺は正面から彼女の目を見て言った。
声は自然と低くなった。
救助隊時代の癖だ。ショック状態の被災者に対峙するとき、声を落としてゆっくり話す。
ゼニスさんは俺を見た。
青い瞳が俺を映している。
だが焦点は合っているのかいないのか。
瞬きがゆっくりだ。一度瞬く間に、俺が三回は呼吸できる。
「…」
彼女は言葉を発しなかった。
代わりに、首をわずかに傾げた。
小さな動作。
それだけなのに、不思議と「誰」と問われているような気がした。
「異世界から来た人間です。ヨルさんから、お話を伺って」
俺はゆっくりと続けた。
ゼニスさんは俺の唇の動きを見ている。
見ている、のだ。
虚ろだが見ていないわけではない。
「ヨルさん、彼女は…」
「言葉は話されないんです」
ヨルさんが俺の疑問に先回りして答えた。
手を握りながら、穏やかに。
この説明を何度も他の人にしてきたのだろう、ヨルさんの声には慣れと、それでも消えない痛みが混じっていた。
「以前は普通に話されていた方なんです。明るくて社交的で…子煩悩な母親だったって聞いてます。でも今は…」
ヨルさんの言葉が途切れた。
握っている手に、ほんの少し力がこもる。
「今は、こうして手を握ったり、頬に触れたり、そういう仕草で気持ちを伝えるんです。言葉以外の方法で」
俺は視線をゼニスさんに戻した。
彼女は俺とヨルさんの会話を聞いていた。
聞いていた、というのは確信がある。
なぜなら、ヨルさんが「母親」と言った瞬間、彼女の虚ろだった瞳の奥に、ほんの一瞬だけ何かが灯ったからだ。
遠くを見ていた目が、少しだけ手前を見た。
青い硝子球の奥に、温度が生まれた。
そして、彼女の手が動いた。
ヨルさんに握られていない方の手。
それが、ゆっくりと伸びて、俺の手に触れたかと思うと、そのまま俺の掌を自分の頬に押し当てた。
「…!」
温かい。
彼女の頬は白くて血色が薄いのに、触れた場所だけが温かい。
俺の掌の体温を、彼女が求めている。
(これは…)
今までの女性たちとは全く違う。
ヨルさんの飢え、日和さんの渇望、美鈴さんの強引さ。
どれもが熱烈で、明白で、性欲と生存本能が直結していた。
だがゼニスさんは違う。
彼女が求めているのは、もっと根源的な何かだ。
体温。触覚。そこに誰かがいるという実感。
(言葉を持たない人が、体で何を伝えようとしているのか)
俺は救助隊の経験を総動員して、彼女の微細な変化を読み取ろうとした。
掌に押し当てられた頬の柔らかさ。
指先が俺の手首を包み込む力加減。
瞬きの間隔が、さっきよりわずかに短くなっている。
「ヨルさん。彼女のご家族は」
「息子さんと娘さんがいます。息子さんが…探して、見つけて。でもご主人はその時に…」
ヨルさんは言いにくそうに言葉を濁した。
俺はそれ以上聞かなかった。
言わなくても分かる。
家族を失い、家族に救われ、そして今は言葉すら失っている。
ゼニスさんの手が、俺の掌から離れた。
離れた瞬間、彼女の目から先ほどの温度が消え、再び遠くを見る瞳に戻っていく。
(消えた)
あの温かさは、俺の掌があったから出たものだ。
俺の手が離れると、彼女の中の温度も消える。
まるで、外部から熱を供給されないと維持できない温度計みたいに。
「ヨルさん」
「はい」
「彼女は…何を、俺に望んでるんですか」
ヨルさんはゼニスさんの手を握り直し、少し悲しげに笑った。
「私にも…分からないんです。ただ、診療所の人が言うには最近、男性の生命力に反応することがあるって。それで、もしかしたら生真さんの力なら…って」
彼女の言葉は途中で途切れた。
確信がないのだ。
ヨルさん自身、これでいいのか迷っている。
ゼニスさんは再び虚ろな目で遠くを見ていた。
だが俺の掌に触れた頬の温もりだけが、手のひらに残っていた。
(この人を抱いていいのか)
今までの女性たちは、明確に求めていた。
言葉で、態度で、体で。
だがこの人は何も言わない。
何も言わない人が、何を求めているのか。
俺にはまだ掴みきれなかった。
ヨルさんは、握りしめていたゼニスさんの手にさらに力を込めたようだった。白い指先が、僅かに赤みを帯びるほどに。
「ゼニスさんのご主人は…パウロさんと言って、今は遠くで働いているんですけど」
ヨルさんの声が震えていた。代弁することの重圧と、言葉にできない痛みをその喉に抱えながら、彼女は紡いでいく。
「お互いに愛し合っているのは間違いないんです。でも…最近のパウロさんは、どこか張りがないって。命の火が小さくなっていくような、そんな寂しさを感じてるって」
その言葉を聞いた瞬間、ゼニスさんの肩がピクリと動いた。
彼女は空いている方の手で、そっと自分の頬に触れた。俺の手があった場所を確かめるように。
そして長い睫毛を伏せ、視線を落とす。
肯定だった。
ヨルさんの言葉は、彼女の心の奥底にある澱のような感情を正確にすくい取っていた。
「この世界全体が、そうなのかもしれません。作物も家畜も人も、じわじわと乾いていく。パウロさんも、その乾きに怯えているんだって」
ヨルさんは続けた。
まるで自分のことのように痛ましげに。
「ゼニスさん自身も、同じなんです。体はここにあるのに、内側からすり減っていくような感覚。命の輪郭が薄れていくのが分かるって」
ゼニスさんは伏せた目のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
言葉はない。
だがその頷きには、深く静かな諦念と、それでも消えない微かな渇望が滲んでいた。
張りがない。
生命力が抜けていく。
それはこの世界の病理そのものだ。
「だからこそ…生真さんの力が必要なんです」
ヨルさんが俺を見た。
真剣な眼差し。懇願に近い光。
「あなたの持つ生命力なら、ゼニスさんの中の枯れかけた火を、また勢いよく燃やせるかもしれないって。診療所の人も言ってました。彼女の反応が最近少し鈍いのは、体の奥の循環が滞っているせいかもしれないって」
その言葉が落ちた瞬間、ゼニスさんが顔を上げた。
ゆっくりと。
焦点の合わなかった青い瞳が、俺を捉えた。
(あっ……)
硝子玉だと思っていた瞳の中に、光が灯った。
ぼんやりとした蛍の火のような、頼りないけれど確かな輝き。
彼女は俺の顔を、真っ直ぐに見つめていた。
俺の頬に残る彼女の体温の記憶が、急に熱を増したように感じる。
(俺の命が、彼女の火種になる?)
だが、同時に迷いもあった。
彼女は言葉を持たない。
泣きも喚きもしない。
ただ静かに、体の奥の渇きを抱えているだけだ。
そんな彼女に対して、俺はどう触れればいい?
性欲という暴力的なエネルギーをぶつけていい相手なのか?
前の三人のような激しさは、彼女の脆い器を砕いてしまいそうな気がした。
俺が黙り込んでいると、ゼニスさんが動いた。
ヨルさんに握られていない方の手を、ゆっくりと俺の方へ伸ばしてくる。
俺の胸元のあたりで、その手が止まった。
直接触れることはしない。
けれどその指先は、俺の心臓の鼓動を探るように、空気を揺らしていた。
そして彼女は、小さく頷いた。
一度だけ。
迷いのない、静かな決意の色を瞳に宿したまま。
(いいのね?)
言葉は聞こえないけれど、その眼差しがそう問いかけているように見えた。
彼女自身が選んだのだ。
外部から注がれる熱を、自らの器に受け入れると。
「……わかりました」
俺は低く答えた。
彼女の静かな決意に応えるために。
俺の命が、彼女の乾きを潤すことができるのなら。
この異世界で、俺にしかできない救いがあるのなら。
その先にある行為への道筋が、静かに、しかし確かに繋がれた瞬間だった。ヨルさんは、握りしめていたゼニスさんの手にさらに力を込めたようだった。白い指先が、僅かに赤みを帯びるほどに。
「ゼニスさんのご主人は…パウロさんと言って、今は遠くで働いているんですけど」
ヨルさんの声が震えていた。代弁することの重圧と、言葉にできない痛みをその喉に抱えながら、彼女は紡いでいく。
「お互いに愛し合っているのは間違いないんです。でも…最近のパウロさんは、どこか張りがないって。命の火が小さくなっていくような、そんな寂しさを感じてるって」
その言葉を聞いた瞬間、ゼニスさんの肩がピクリと動いた。
彼女は空いている方の手で、そっと自分の頬に触れた。俺の手があった場所を確かめるように。
そして長い睫毛を伏せ、視線を落とす。
肯定だった。
ヨルさんの言葉は、彼女の心の奥底にある澱のような感情を正確にすくい取っていた。
「この世界全体が、そうなのかもしれません。作物も家畜も人も、じわじわと乾いていく。パウロさんも、その乾きに怯えているんだって」
ヨルさんは続けた。
まるで自分のことのように痛ましげに。
「ゼニスさん自身も、同じなんです。体はここにあるのに、内側からすり減っていくような感覚。命の輪郭が薄れていくのが分かるって」
ゼニスさんは伏せた目のまま、ゆっくりと首を縦に振った。
言葉はない。
だがその頷きには、深く静かな諦念と、それでも消えない微かな渇望が滲んでいた。
張りがない。
生命力が抜けていく。
それはこの世界の病理そのものだ。
「だからこそ…生真さんの力が必要なんです」
ヨルさんが俺を見た。
真剣な眼差し。懇願に近い光。
「あなたの持つ生命力なら、ゼニスさんの中の枯れかけた火を、また勢いよく燃やせるかもしれないって。診療所の人も言ってました。彼女の反応が最近少し鈍いのは、体の奥の循環が滞っているせいかもしれないって」
その言葉が落ちた瞬間、ゼニスさんが顔を上げた。
ゆっくりと。
焦点の合わなかった青い瞳が、俺を捉えた。
(あっ……)
硝子玉だと思っていた瞳の中に、光が灯った。
ぼんやりとした蛍の火のような、頼りないけれど確かな輝き。
彼女は俺の顔を、真っ直ぐに見つめていた。
俺の頬に残る彼女の体温の記憶が、急に熱を増したように感じる。
(俺の命が、彼女の火種になる?)
だが、同時に迷いもあった。
彼女は言葉を持たない。
泣きも喚きもしない。
ただ静かに、体の奥の渇きを抱えているだけだ。
そんな彼女に対して、俺はどう触れればいい?
性欲という暴力的なエネルギーをぶつけていい相手なのか?
前の三人のような激しさは、彼女の脆い器を砕いてしまいそうな気がした。
俺が黙り込んでいると、ゼニスさんが動いた。
ヨルさんに握られていない方の手を、ゆっくりと俺の方へ伸ばしてくる。
俺の胸元のあたりで、その手が止まった。
直接触れることはしない。
けれどその指先は、俺の心臓の鼓動を探るように、空気を揺らしていた。
そして彼女は、小さく頷いた。
一度だけ。
迷いのない、静かな決意の色を瞳に宿したまま。
(いいのね?)
言葉は聞こえないけれど、その眼差しがそう問いかけているように見えた。
彼女自身が選んだのだ。
外部から注がれる熱を、自らの器に受け入れると。
「……わかりました」
俺は低く答えた。
彼女の静かな決意に応えるために。
俺の命が、彼女の乾きを潤すことができるのなら。
この異世界で、俺にしかできない救いがあるのなら。
その先にある行為への道筋が、静かに、しかし確かに繋がれた瞬間だった。
「では、私はこれで」
ヨルさんはそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
最後に俺とゼニスさんを交互に見渡し、ふわりと微笑んだ。
それは「任せました」という信頼と「大丈夫ですよ」という励ましが入り混じた、慈愛に満ちた表情だった。
彼女の背中が扉の向こうへ消える。
カチャリ。
金属音が静寂を閉じ込めた。
二人きりだ。
星命樹の根が張る古い茶屋の一室。
窓の外からは風に揺れる木々の音が微かに聞こえるだけ。
空気は重く、甘く、そしてどこか神聖だった。
俺はゼニスさんの隣に腰を下ろした。
距離にして拳一つ分。
彼女は逃げなかった。
ただ静かに、真っ直ぐに前を見つめている。
俺は右手をゆっくりと伸ばした。
彼女の膝の上に置かれた白い手のひらへ。
触れた瞬間、冷たさが指先を突き刺した。
まるで氷の上に指を置いたような、生命力の欠片も感じさせない温度。
だがそれは死の冷たさではない。
熱を失ってしまっただけの、待っている体だ。
俺の指が彼女の指に触れ、掌に滑り込む。
その瞬間、彼女の手が動いた。
弱々しい、けれど確かな力で、俺の手を握り返してきた。
指先が俺の指に絡みつく。
冷え切っていたはずの彼女の肌が、俺の体温を吸い上げるように熱を帯び始めていく。
(この人は、夫を愛しているんだ)
脳裏にヨルさんの言葉がよぎる。
パウロという男を愛し、その男の生命力の衰えを嘆き、そして今、目の前の異物にすがろうとしている。
背徳だ。
許されざる行いだ。
俺の種が彼女の奥へ注がれる時、彼女の心に浮かぶのは誰の顔なのだろう。
だが、使命感がその罪悪感を塗り潰していく。
この枯れ果てた世界で、俺にしかできないことがある。
この冷え切った体に火を灯し、乾いた器に水を注ぐ。
命を救う。
それが俺の役目だ。
ゼニスさんが顔を上げた。
青い瞳が俺を映している。
虚ろではない。
その奥には静かな信頼と、微かな期待が揺れていた。
俺の顔を見つめながら、彼女は握った手にさらに力を込めた。
俺は彼女の手を引き寄せ、その甲に唇を落とした。
冷たい肌に口づける。
それは契約の儀式であり、罪の始まりだった。
互いの体温が交わり始めた静かな瞬間。
部屋の空気はもう、戻れないところまで濃密になっていた。