バーリントの中央大通りは、いつも通りの人出だった。
煤けた煉瓦の建物の間を行き交う通行人、蒸気配管からの排気音、路面を舐める薄霧。日常の風景だ。
だが、一箇所だけ空気が違っていた。
大通りの角、郵便局の前に人だかりができている。通勤客が迂回し、母親が子供の手を引いて足を速め、近くの露天商が困った顔で横を向いている。
(何か事故か?)
俺は人波の隙間から様子を窥った。
人だかりの中心に、一人の少女が立っていた。
いや、少女に見えた。
セーラー服。
この世界の学校制服だろうか。白い襟に紺のスカート。膝上の丈で、黒いハイソックス。髪は栗色のポニーテールで顔立ちは整っている。
手にはチラシの束を持って通行人に配っている。
「ねえ、お兄さん。今日、暇じゃない? 素敵なバンドのライブがあるんだけど」
声が通る。明るく、弾んで、少し甘えるようなトーン。
チラシを差し出す先は若い男ばかりだ。サラリーマン、配達員、学生風の青年。手渡すたびに相手との距離が詰まる。チラシを受け取った男の袖を掴み、上目遣いで「お兄さん、一人?」
男は苦笑いしながら足早に去っていく。
すぐに次の獲物を見つける。
今度は中年の男。背広を着た恰幅の良い男に、体を寄せながらチラシを渡す。
「ライブ来てくれる? 待ってるからね」
男の隣にいた妻らしき女性が、子供の目を手で覆いながら夫の腕を引っ張った。
(何だあれ)
確かにチラシは配っている。だが明らかに何かがおかしい。配る相手が選別されている。女性には渡さない。家族連れには近づかない。若い男から中年の男まで、とにかく男性限定で、かつ一人で歩いている人をターゲットにしている。
「宣伝よ? ほらチラシだってちゃんと配っているでしょう?」
誰に言い訳しているのか、空に向かって胸を張る。ポニーテールが揺れて、セーラー服の襟がバタついた。
その時、背後から袖を引かれた。
「生真さん、あの方が…」
振り返るとヨルさんがいた。隣にはゼニスさんもいる。ゼニスさんの手を引きながら、ヨルさんが困り切った顔で大通りの方を指差した。
「あの、あの方はですね」
「ああ、あの学生さんか。何かやらかしてます?」
「学生じゃないんです」
「は?」
「あの方は…私の、ママ友です」
時が止まった。
風が止み。蒸気の音が遠ざかり。世界から色が抜けた。
「…ママ友」
「はい」
「あの方が」
「はい」
「学生服を着て」
「はい」
「チラシを配りながら男をナンパしてる」
「…はい」
俺の口から魂が抜け落ちる音がした。
「お母さんじゃないか」
「お母さんです。娘さんのバンドのライブを宣伝してるんですけど」
「宣伝してないだろ。あれナンパだろ」
「本人は宣伝だと言い張っていて…」
ヨルさんの言葉が途切れた。大通りの方から悲鳴に近い笑い声が聞こえたからだ。見るとセーラー服の女性が二人目のサラリーマンの腕に抱きついている。男はチラシを握りしめたまま逃げようとしているが、逃げられない。
「待って、お母さん。そっちは宣伝じゃないから」
ヨルさんが小声で叫んだ。だの声は届くはずもない。
「あの…主人公さん」
ヨルさんが俺の方を向いた。その目には切羽詰まった光がある。
「お願いします。もう私たちでは止められません」
「何で俺が」
「前に一度止めたんですけど、生真さんみたいな男性が来たら止まるかもしれないって」
「どうしてそうなる」
「お願いします」
ゼニスさんが俺の背中を押した。無言で。だがその押し方には確かな意志があった。青い瞳が「行って」と語っている。
「…わかりましたよ」
俺は観念して人だかりに向かった。
セーラー服の女性は三匹目の獲物を探していた。通行人の流れを読み、次の男を狙い、チラシを構えている。
「すみません、ちょっといいですか」
俺が背後から声をかけると、彼女は振り返った。
栗色のポニーテールが弧を描く。
顔を見た。整った顔立ちだ。だが学生の肌ではない。ハリはあるが目尻に小さな皺がある。笑い方が大人だ。全体のバランスが十代ではない。
(やっぱりお母さんだ)
「あら?」
彼女が俺を見た。
そして、止まった。
チラシを持った手が空中で止まる。目が俺を上から下まで走った。数秒。まるで品定め。俺の肩幅、胸元、腰回り、そして顔。
「…あら、いい男」
彼女の目が輝いた。
さっきまでのナンパの目ではない。獲物を見つけた狩人の目だ。しかも今までの中で一番上等な獲物を見つけたときの。
「ねえ、お兄さん。名前なんていうの?」
距離が詰まった。
チラシが俺の胸元に押し付けられる。彼女の体温と甘い香水の匂いが鼻を突いた。
「いや、俺はその、ヨルさんから頼まれて」
「ヨルちゃん? ヨルちゃんが何か言った? 大丈夫よ、私はちゃんと宣伝してるから」
「してないです。さっきから男ばっかり狙って」
「宣伝よ? ほら、チラシだってちゃんと配ってるでしょう?」
「配ってない。渡してない。ナンパしてるだけです」
「ナンパじゃないわよ。お誘いよ」
「同じです」
「違うわよ。ナンパは番号を聞くことでしょ。私はライブに来ていただいてるだけ」
「今俺の名前聞こうとしたでしょう」
「それは…お兄さんがカッコいいから」
彼女はしれっと言い放った。
この人、自覚がない。完全にない。娘のライブを応援したい一心が、性欲と混ざって暴走している。悪意はない。だが悪意がない分たちが悪い。
「あの、お母さん」
「お母さんって呼ばないで。美智代でいいわ」
「美智代さん。娘さんが待ってますよ。ほら、バンドの方は」
「あの子なら会場で待機してるから大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ。お母さんが制服着てチラシ配ってたら娘さんが恥ずかしいでしょう」
「可愛いでしょう? この制服」
彼女は制服のスカートの裾を軽く持ち上げて見せた。
見ない。俺は見ない。
「見せないでください」
「あら、照れるの? 可愛いわね」
彼女は俺の腕に自分の腕を絡めた。
(強い)
見た目より力がある。これただの主婦じゃないだろ。
「ねえ、お兄さん。名前教えてよ。ライブ終わった後でお茶でもどう?」
「いや俺は」
「遠慮しないで。私、結構いい女よ?」
確かにいい女だ。だが娘の宣伝を口実にナンパしている時点でいい女でも何でもない。
背後からヨルさんの悲痛な視線が背中に刺さっているのが分かる。
「美智代さん。まずチラシを全員に配ってください。男だけじゃなく女にも子供にも」
「えー」
「えーじゃないです」
「だって女の人に配っても面白くないじゃない」
「面白さを求めてるんですか宣伝に」
「だってつまんないでしょう。男の人と話す方が楽しいし」
彼女は腕を絡めたまま俺の方に体を寄せた。柔らかい感触が腕に伝わる。
(この人本当に自覚がない)
俺の長い一日が始まりそうだった。