「美智代さん、まずは腕を離してくれませんか」
「やだ」
即答だった。
俺の腕に絡められた彼女の腕は、見た目の華奢さに反して万力みたいに硬い。救援活動で鍛えた腕力でも引き剥がせない。これ絶対主婦の握力じゃない。
「ねえお兄さん、名前。名前教えてよ」
「久世です。久世生真」
「イクマくんか。変わった名前ね。どこか出身?」
「遠いところです」
「どのくらい遠い?」
「言葉じゃ説明できないくらい遠いです」
「うわぁ神秘系。好き」
好きじゃない。そう言いたかったが、彼女の顔が俺の顔から十五センチの距離に迫っていたので言えなかった。
(美智代さん、これ近すぎます)
栗色のポニーテールが俺の頬を掠める。甘い香水の匂いが鼻腔を占拠する。化粧は濃いめだが、それがかえって彼女の整った顔立ちを際立たせている。
(確かに綺麗な人だとは思う。けど)
「ねえイクマくん、さっきから思ってたんだけどさ」
「何ですか」
「あんた私のこと何歳に見える?」
来た。女性特有の地雷質問。
俺の脳内で計算が走る。ヨルさんがママ友だと言った。娘がバンドをやっている年齢なら高校生か大学生。とすると美智代さんの年齢は……
(三十代後半から四十代前半か?)
だが見た目が若い。制服を着て違和感がないレベルだ。いや、違和感はあるが、それは年齢のせいじゃなく行動のせいだ。
「…二十代後半くらいですか」
嘘ではない。見た目の話だ。
「本当に!?」
彼女の目が三倍くらい輝いた。
「本当? 本当にそう見える?」
「見た目は、はい」
「やったぁ! 久しぶりに二十代って言われた!」
彼女は俺の腕を締め上げながら歓喜の声を上げた。骨が軋む。痛い。助けてほしい。
「ねえねえ、他には? 他には何か気になることない?」
「気になることっていうか」
「あるでしょ? 女の人を見て気にならないわけないじゃない」
彼女は俺の腕を抱き直し体を密着させた。セーラー服の胸が俺の二の腕に押し付けられる。
(柔らかい)
いや、今それを確認するな俺。
「美智代さん、娘さんいるんですよね」
「いるわよ。高校生の娘と中学生の息子」
「高校生の娘さんがいて、そのお母さんが制服着てチラシ配ってて、しかも男にナンパしてて」
「ナンパじゃないって言ってるじゃない」
「じゃあ何なんですか」
「ライブへのご招待よ」
「ご招待で男の腕に抱きつくんですか」
「それは…イクマくんがカッコいいから」
またそれか。
「ねえ、正直に言って。私、娘がいる母親に見える?」
「…見えません」
「でしょう? でしょう? 私だって娘と並んで歩いても姉妹って言われるのよ」
彼女は得意げに胸を張った。それによって胸元の圧迫感が増したのだが、本人は気づいていない。
「だからね、イクマくん。私を母親として見ないで。一人の女として見て」
「いやそれは」
「あ、何? 母親だからダメ? そんなことないでしょう? この世界の男性って本当に消極的よね。私の夫なんて最近全然」
彼女の声が少しトーンダウンした。一瞬だけ、明るい仮面の下から本音が漏れた。
「…全然触ってくれないのよね」
その言葉の温度が、今までの軽口とは違った。
(ああ、この人もか)
ヨルさん。日和さん。美鈴さん。そしてこの人も。
この世界の女性たちは皆、同じ渇きを抱えている。
「美智代さん」
「何?」
「娘のライブ、いつですか」
「え? 来週の土曜日だけど」
「じゃあそれまでにちゃんとチラシを全員に配ってください。男だけじゃなく女にも子供にも。それが宣伝ってやつです」
「えー」
「えーじゃないです。ちゃんと宣伝したら、ライブの日にお祝いに何か買っていきますから」
「本当に!?」
「本当です」
「やった! じゃあ今から解放記念にイクマくんとお茶しよ」
「いや、解放記念って何ですか」
「さっきまでチラシ配ってたでしょ? だから解放された記念」
「自発的に配ってたのに解放って何」
「細かいこと気にしないの。ね、お茶だけ。お茶だけだから」
彼女は俺の腕を引っ張り始めた。問答無用で。主婦の買い物かごを持つ腕とは思えない牽引力だ。
「ちょ、美智代さん、待って」
「待たない。ほら、こっちにいいお店があるの」
「いやお茶ならあそこの……」
「あそこは駄目。人が多いもん。静かなところがいいでしょ?」
「静かなところって」
「ホテルのラウンジ」
「ホテル!?」
「ラウンジよ。ラウンジ。お茶を飲むだけ」
その「お茶を飲むだけ」が、この世界では信用できない。
「美智代さん、俺一応身分証もないし」
「大丈夫よ。私が保証するから」
「保証できる立場ですか」
「保証できるわよ。ほら、バーリント市民ですもの。ヨルちゃんのママ友だし」
ヨルちゃんのママ友という肩書がどこまで通用的なのかは疑問だが、彼女の勢いに押されて足が動いてしまった。
(俺、また巻き込まれてる)
美智代さんは俺の腕を引いたまま大通りを歩き出した。チラシの束はベンチに放り投げた。もう宣伝じゃない。完全にナンパだ。
「ねえイクマくん」
「何ですか」
「あんた本当に私が娘に見えない?」
「見えません。信じられません」
「ふふ。嬉しいな」
彼女は俺の腕に頬を擦り付けた。
(ホテルのラウンジ。お茶だけ。お茶だけだよな)
俺の理性的な部分はそう繰り返していたが、彼女の体温と香水の匂いが、理性の回数を一枚一枚削り取っていくのを感じていた。
「着いたわよ」
「…早くないですか」
「近かったから」
目の前にあったのは、大通りの裏手にある古びたホテルだった。看板の文字が半分剥がれ落ちている。ラウンジなんてあるのか。
「美智代さん、ここラウンジあります?」
「あるわよ。たぶん」
「たぶん」
「なければ部屋でお茶飲めばいいし」
「部屋!?」
「部屋の方が静かだし。お茶だけよ。お茶だけ」
彼女は俺の腕を引いたまま、自動ドアを潛った。受付の男が俺たちを見て、一瞬だけ複雑な顔をしたが、美智代さんが会員証らしきものを提示すると無言で鍵を渡してきた。
(会員証持ってるのか)
(しかもスムーズすぎるだろ)
「美智代さん、これ何度目ですか」
「何が?」
「ここに来るの」
「さあ? 忘れちゃった」
彼女はしれっと言い放った。
エレベーターの中で彼女は俺の正面に立ち、鏡に映る自分の制服姿を直していた。スカートの丈を確認し、髪を整え、口元のリップを指で押し直す。
「ねえイクマくん」
「何ですか」
「部屋に着いたらさ」
「はい」
「お茶だけだからね」
「…はい」
「お茶だけだよ?」
「何度も言わないでください」
「だってイクマくんの顔見てたら」
彼女は言葉を切った。
エレベーターの壁に背中を預け、俺を見上げた。
栗色の瞳の中に、さっきまでのおちゃらけた色はなかった。
「…お茶だけじゃ済まなくなりそうだから」
チン。
エレベーターが開いた。
(ああ、まただ)
(また俺は流されている)
だが、今回はヨルさんに押し付けられたわけじゃない。美智代さんの勢いに負けたのだ。
それに、あの瞬間の彼女の目。
「夫が触ってくれない」と漏らした時の、一瞬だけ見えた寂しさ。
あれが嘘じゃないことは、俺の救助隊員としての目が見抜いていた。
「お茶だけにしておいてくださいよ」
「頑張るわ」
「頑張るって何を」
「お茶を」
「嘘ですね」
「バレた?」
彼女は笑った。悪気のない、本当に楽しそうな笑みだった。
(この人、悪い人じゃない)
(ただ、寂しいだけだ)
それが分かってしまうから俺は止められない。
ドアの前に立ち、彼女が鍵を開ける。カチャリ。
「お入りになさいませ、お客様」
彼女がおどけて手招きをした。
セーラー服を着たお母さんが、ホテルの部屋に俺を招き入れる。
(俺の異世界生活、どうなってるんだろ)
ため息を一つ吐いて、俺は部屋に足を踏み入れた。