朝は、妙に静かだ。
中央連邦オスタニアの首都とはいえ、人口減少の波はここにも届いている。通勤時間の通りを歩く人影はまばらで、かつて満員だったであろう路面電車には空席が目立つ。
俺——久世生真は、支給された白いシャツの袖を整えながら、ヨルさんから渡された市街地図を片手に表へ出た。
「今日は西外れの市場まで行ってみようか」
独り言が口をつく。元の世界でも、現場の待機中に独り言を言う隊員がいた。俺はそのタイプじゃなかったはずだが、この世界に来てから少し変わったのかもしれない。
いや、変わったというより——情報が少なすぎて、頭の中の整理が追いつかないのだ。
あの日から数日。
美智代さんとの一件を経て、俺は痛感した。この世界は、俺が想像していた以上に歪んでいる。
生命力が枯渇し、子供が生まれず、男は男と寝るのが主流で、女と抱き合うのは変態の所業。
(……変態って俺のことかよ)
自嘲しても状況は変わらない。変わるために動くしかない。だから今日は、この世界を自分の目で見て、理解するために歩く。
左手首の赤い布が風に揺れた。元の世界の、救えなかった人々の記憶。それと、自分が異世界に漂着した漂流者であるという事実。
どちらも、俺の足を止めさせてはくれない。
「さて、行きますか」
* * *
バーリントの西側にある市場は、活気という言葉とは縁遠い場所だった。
出店の半数が閉まり、野菜を並べる婆さんが一人、卵を数える爺さんが一人。客は……俺を含めて三人程度。
「いらっしゃい、若いの。珍しい顔だね」
婆さんが枯れた声で呼びかけた。並べられた野菜は小さく、色も薄い。トマトのような赤い果実は、本来の半分もないサイズに見えた。
「星命樹の衰弱の影響ですか?」
俺は率直に聞いた。ヨルから基本的な知識は教わっている。百年前から続く生命力の低下。その元凶である巨大な霊樹の枯死。それがこの世界の全てを歪めている。
「そうさね。昔はこんな小さなトマトじゃなかったよ。今じゃ肥料を幾ら入れても、これが精一杯」
婆さんはしわだらけの手でトマトを撫でた。その手には、労働の痕跡だけでなく、何かを諦めたような疲れが滲んでいた。
「いくらですか?」
「一枚銅貨で三つどうだい。若いのにくれてやるよ」
俺はポケットの小銭を確認し、トマトを三つ買った。硬い皮の感触。元の世界なら瑞々しいはずの果実が、ここでは干からびた石ころみたいだ。
(やっぱり、この世界は枯れている)
実感として、改めてその事実が胃の底に沈んだ。
市場を後にして、俺は西郊外の広い道へ足を向けた。ヨルが「西に行くと西方魔導諸国との国境に近づくから気をつけて」と言っていたが、見るだけなら問題ないはずだ。
オスタニアと西方魔導諸国の間には、緩衝地帯がある。国境砦と呼ばれる監視拠点がいくつか建てられているが、平時は通過も可能だという。
俺が見たかったのは、そこだ。
オスタニアは近代国家で、電気も火薬もある。だが西方魔導諸国は、魔法と貴族制度が中心のまったく異なる文明圏。その境界線で、二つの文明がどう接しているのか。
自分の目で確かめたかった。
* * *
国境に近づくにつれ、風景が変わった。
オスタニア側の煉瓦と鉄の建物から、徐々に石造りの塔が増えていく。屋根の形が尖り、壁に刻まれた魔導文字が微かに発光している。
そして道が、広くなった。
「……なんだ、あれは」
俺の足が止まった。
広場のような開けた場所に、馬がいた。
いや、馬だけじゃない。
鎧を纏った人影が、馬から降りて水を飲ませている。金属の甲冑に、紋章入りの盾。腰には剣。背中には槍。
——騎士だ。
本物の、鎧を着た騎士が、目の前にいた。
「……マジか」
現実感が揺らぐ。オスタニアの市街では銃を持った警察官を見かけた。電柱があり、ガス灯があり、鉄道がある。なのにここには、中世そのままの甲騎士が立っている。
(異世界の世界観と現代が合わさっている——って、こういうことか)
頭の中で整理する。オスタニアは近代化を進めたが、西方魔導諸国は魔法文明のまま発展した。同じ世界に、別の時代が同居している。
その光景は、奇妙を通り越してシュールだった。
パラパララ——。
乾いた蹄の音。騎士たちの馬が、広場の石畳を歩く。その奥に、馬車が見えた。白と金の装飾が施された、見るからに高級な馬車。
護衛の騎士は四人。甲冑の色は銀で、マントは深い紫。紋章は——十字に交差した剣と花。西方魔導諸国のどこかの王国紋章だろう。
俺は道端に立ち止まり、距離を取って観察した。
救助隊員の習性だ。状況を把握してから動く。不用意に近づかない。
四人の騎士の動きには、緊張感があった。手綱を持つ手が時折握り直され、視線が周囲を警戒している。何かを護送している。あの馬車の中身を。
(外交使節団か? それとも……
考え込んでいると、視線が動いた。
一人の騎士が、俺の方を見た。
「——」
距離は三十メートルほど。普通なら気づかれない。だがその騎士は、一瞬で俺を捉えた。鎧の隙間から覗く鋭い目。女の目だった。
「おい、あそこの男」
声が飛んできた。
低く、鋭く、よく通る声。甲冑の骑士が手綱を仲間に渡し、俺の方へ歩いてくる。金属の plate がカチャカチャと鳴る音が、静かな広場に響いた。
(来た)
逃げる必要はない。逃げれば怪しまれる。俺は逃げず、背筋を伸ばして正面からその騎士に向き合った。
近づいてくる騎士は、他の三人よりも小柄だった。だが歩き方に迷いがない。鍛えられた身体が鎧の下にあるのが分かる。腰の剣の柄が磨き上げられ、実戦で使われていることが窺えた。
「あなた、この辺りの者じゃないね」
騎士が俺の前に立った。見上げると、銀色の髪が鎧の隙間から覗いている。年は二十代前半。だが瞳の奥に宿る光は、実戦を潛り抜けた者のそれだった。
「ええ、中央連邦の首都から来ました。久世生真です」
俺は名乗った。嘘をつく理由がない。名前は、もう市役所にも登録されている。
「久世……生真」
騎士が名前を咀嚼するように繰り返した。そして、ふと眉を寄せた。
「変な名前だね。西方の者でもない、東方の者でもない」
「旅の途中でこちらに流れ着いたもので」
「旅の途中、か。……それにしては身元があやふやだね」
騎士の目が細くなった。完全に警戒されている。
(まあ、当然だ。身分証なし、証人なし、言葉は通じるが出身が説明できない。怪しくない方がおかしい)
俺は正直に、しかし要領よく答えた。
「オスタニアの市役所に身元登録しています。保護者もいます。嘘をつくつもりはありません」
「市役所の保護……ふん」
騎士は鼻を鳴らした。納得はしていないが、即座に拘束する気配もない。
その間、他の騎士たちも馬車の周囲を固めたまま、こちらを警戒していた。一人が何かを手元の魔導具に話しかけている。
(連絡を入れているな)
俺は冷静に状況を読んだ。騎士たちは何かを護送している。その任務の途中で、不審な男と遭遇した。対応としては正しい。
「——で、何か御用でしょうか」
俺は率直に聞いた。
銀髪の騎士は腕を組み、金属がガシャンと鳴った。
「御用も何も、あんたがこちらから近づいてきたんだろう」
「いや、俺は市場から散歩で——」
「散歩で国境付近に来る馬鹿がいるかね」
言い返せなかった。確かに、言われてみればその通りだ。
(……ぐうの音も出ない)
「ただ、西方と東方の文明の違いを自分の目で見たかっただけです」
「好奇心で死ぬ タイプか」
騎士が呆れたように息を吐いた。呆れの中に、わずかな興味が混じっているのを俺は見逃さなかった。
(この人、俺を疑いつつも、会話を続けている。何かを探っているのか)
ふいに馬車の扉が、内側から開いた。