馬車で揺られること三日。
セフィの手配した馬車は国境を越え、西方魔導諸国の街道を東へ東へと進んだ。途中から道が変わった。煉瓦敷きの道が石畳になり、魔導ランプが紙の行灯に変わり、建物の屋根が尖塔から瓦へと変わっていく。
文明の境界線を越えている実感が、窓の外の風景として目の前に迫ってきた。
「ここが…」
馬車が止まった。降り立った場所は、瑞穂州の西の関所。
俺久世生真は、一人で立っていた。
セフィの護衛であるザスティンは国境までの護送のみだった。ここから先は瑞穂州の領内に入るため、外国の騎士は立ち入れない。セフィからの手紙と、王国の紋章入った通行証だけが俺の所持品だった。
(さて)
関所の門をくぐると、視界が開けた。
「……うわあ」
思わず声が出た。
目の前に広がっていたのは、朱色の鳥居だった。
巨大な一本の鳥居が、街道の正面にそびえ立っている。高さは十メートルはあるだろうか。朱塗りの柱が、午後の日差しを受けて燃えるように輝いている。その奥に続く石畳の道。両脇には柳が垂れ、小さな石灯篭が等間隔に並んでいた。
(京都だ。これ、完全に京都じゃないか)
修学旅行の記憶が蘇る。伏見稲荷の千本鳥居。嵐山の竹林の道。清水寺の石段。
だがここは京都ではない。異世界アステリアの東方六州、瑞穂州。
すれ違う人々は着物を着ている。男は紺や鼠色の羽織に袴。女は鮮やかな色の着物に帯を締め、草履を履いている。頭には藩の紋が入った鉢巻を巻いた侍が、腰に二本の刀を差して歩いている。
(すごい。本当にすごい)
(オスタニアは近代都市だった。電気があってガス灯があって鉄道があった。西方は魔法と貴族の国だった。そしてここは——)
(時代劇の世界だ)
道端で餅を売る屋台がある。湯気が立ち上り、甘い醤油の香りが漂ってくる。子供が刀の代わりに木刀を腰に差して走り回っている。その後を、着物姿の母親が慌てて追いかけていた。
(……あの母親の顔色、少し悪いな)
救助隊員の目が勝手に動く。歩き方、呼吸のリズム、肌の色。この世界の生命力低下は、瑞穂州にも確かに影響を及ぼしているらしい。
(セフィの言った通りだ。どこも同じ問題を抱えている)
石畳を歩く。靴底が石に当たる音がコツコツと響く。編み上げ靴は石畳との相性があまり良くない。着物姿の人々の中で、俺の白いシャツと濃紺のズボンは目立っていた。
「お兄さん、旅の人かい?」
餅屋台の爺さんが声をかけてきた。頬に深い皺が刻まれ、目は細いが温かい。
「ええ。西方から来ました」
「西方から? ずいぶん遠いの」
「手配されて、こちらに用事がありまして」
「手配? 誰に?」
「王国の、セフィ様から」
爺さんの目が一瞬大きくなった。だがすぐに納得したように頷く。
「デビルークの王妃様か。…あの方はこの州とも縁が深い。大名様と仲がいいからの」
「大名様」
「うむ。瑞穂州を治める桔梗院様だ。西の関所に来る外国人は、大概が桔梗院様の客だ」
爺さんは餅を一つ包んで俺に差し出した。
「食べな。旅の腹の足しになる。お金はいらんよ」
「いいんですか?」
「元気な若い男を見るのは久しぶりだ。それだけで見物料は払ったようなもんだ」
爺さんは笑った。だがその笑いの中に、寂しさが混じっているのを俺は見逃さなかった。
(元気な若い男が珍しい。…それもこれか)
(この世界では、男性の生命力低下が深刻なんだ)
餅をかじりながら歩く。甘い。醤油の焦げる香ばしさ。柔らかい餅の歯触り。
(美味い。すごく美味い)
(元の世界で食べた餅と、味が全く同じだ)
(やっぱりこの場所は、どこかで俺の世界と繋がっているのかもしれない)
石畳の道を進む。両脇に並ぶ町屋。木造の軒下に暖簾がかかる。蕎麦屋、呉服屋、薬屋、鍛冶屋。看板の文字は漢字とひらがなだった。読める。普通に読める。
(オスタニアでは文字が別の体系だったのに、ここは読める。日本語に近い)
(やはり、瑞穂州の文化は俺のいた世界の日本と根を共有している)
通りを抜けると、広い場所に出た。
石畳の広場。中央に大きな井戸。周囲に町家が囲むように建ち並び、その奥に——見えた。
巨大な城。
白壁と瓦。天守閣。石垣の上にそびえる五層の城郭。城壁には旗が翻り、桔梗の花が描かれている。
「あれが、桔梗院様の居城か」
俺は立ち止まり、城を見上げた。
風が吹いた。柳の枝が揺れ、どこかで鐘の音が鳴る。ドーン、ドーン、と低く響く梵鐘の音。
(京都に似ている)
(でも、京都じゃない)
(ここは異世界で、生命力が枯渏している。子供が生まれず、人々が消えていく世界)
(俺が来た理由は、その世界を変えるため)
左手首の赤い布が風に揺れた。元の世界と、救えなかった人々の記憶。
(セフィは言った。自分で決めろと)
(なら、まずはここからだ)
俺は懐からセフィの手紙を取り出した。桔梗院宛の紹介状。
(手配された場所へ向かおう)
(それが、俺の選んだ第一歩だ)
石畳を歩き出す。城に向かって。一歩ずつ。
靴音が石に響く。コツ、コツ、コツ。
瑞穂州の風が、俺の頬を撫でた。