城へ向かう道は、賑やかな通りから次第に静かになっていった。
町家の軒並みが途切れ、石畳の両脇に杉の木が増える。日差しが細かく枝分かれした影を地面に落としていた。
(静かだな。さっきまで人の声があったのに)
餅屋の爺さんに教わった道順は間違っていないはずだ。城の北側にある桔梗院の別邸へ向かる途中。セフィの手紙を持っていれば通れるはずだ。
だが。
(空気が変わった)
救助隊員の勘が鳴る。災害現場に入る前のあの感覚。何かがおかしい。現場の空気が重くなる時がある。普段は目に見えないものが、肌で分かる。
足を止めた。
風が止んでいる。
先ほどまで柳の枝を揺らしていた風が、いつの間にか止まっていた。杉の葉も動かない。鳥の声も消えた。
(…まずい)
俺は周囲を見回した。石畳の道。両脇の杉。そして——
影が、動いた。
「——」
影じゃない。
杉の木の陰から、何かが立ち上がった。
人ではない。
大きさは子供ほど。だが形が人とは違う。赤い肌。頭には一本の角。口は耳まで裂け、黄色い歯が並んでいる。着物のようなものを纏っているが、汚れきってボロボロだ。
妖怪。
それ以外の言葉が浮かばなかった。時代劇の絵巻で見たような、鬼の姿。
「ひ…人の、におい…」
妖怪が鼻をひくつかせた。ぎょろりとした目が、俺を捉える。
「あったま…元気な、におい…」
声はしゃがれていた。だがその言葉の意味は、はっきりと理解できた。
(生命力の匂い。この妖怪、俺の生命力を感じ取ったのか)
「うまそう…」
妖怪が一歩踏み出した。足音がしない。地面を滑るように移動する。
(やばい。絶対にやばい)
俺は後退った。一歩、二歩。
「にげた」
妖怪が笑った。カカカ、と乾いた笑い声。
「にげたにげた。おもしれえ」
(一匹じゃない)
背後の杉の陰から、もう一つ影が動いた。今度は緑色の肌。頭に皿を乗せた、河童のような姿。
「こっちにもおる。元気な男だ。久しぶりだぁ」
三匹目。四匹目。杉の木の陰から次々と妖怪が現れた。赤いのも、青いのも、黒いのも。
全部で——六匹。
(六対一。しかも相手は妖怪。身体能力が人間とは違うレベルだ)
「おいしいにおいがするぅ…」
一匹の妖怪が舌を出した。舌は長く、先端が二股に分かれている。蛇みたいだ。
「この辺りの男は、もう生命力がない。パサパサで不味い。でもこいつは違う。溢れとる。熟れた果実みたいだ」
「食おう。食おう」
「骨までしゃぶる」
妖怪たちが包囲を狭めた。六匹が六方向から。逃げ場がない。
(走るしかない)
俺は踵を返し、全力で走り出した。
ドンッ!
一歩目を踏み出した瞬間、背後から風圧が来た。妖怪が飛びかかってきたのだ。俺は反射的に身を沈め、地面を転がった。
「ちっ。速いな」
背後で妖怪が着地する音。石畳に爪が当たるガリッという音が、背筋を凍らせる。
(速い。人間じゃない速度だ)
俺は立ち上がりながら走った。編み上げ靴の底が石畳を叩く。コツコツコツ。
だが——
背後の足音はそれより速い。シュッ、シュッ、という音。地面を蹴るというより、空気を裂いて飛んでいる感覚。
「にげろにげろ。逃げると追いたくなるぅ」
遊んでいる。この妖怪たち、俺を本気で追っていない。猫が鼠を弄ぶみたいに、楽しんでいるのだ。
(くそっ)
角を曲がった。石畳の道が右に折れる。そこを——
「待ってたよ」
正面に、妖怪がいた。
(いつの間に回り込んだ!?)
一匹が先回りしていた。ニヤニヤと笑みながら、裂けた口から涎を垂らしている。
俺は急停止した。靴底が石畳を擦り、体が前のめりになる。
(前から一匹。後ろから五匹。完全に囲まれた)
「もう逃げられないよ」
正面の妖怪が一歩近づいた。赤い手が伸びる。爪が、俺のシャツに触れた。
「いい匂い。…いただきまーす」
(俺、死ぬのか?)
(異世界に流れ着いて、数日で妖怪に食われるのか?)
(救助隊員としても、消防士としても、最悪の死に方だ)
(でも——)
(まだ諦められない)
俺はシャツを破られる前に、正面の妖怪の腕を掴んだ。力任せに引き寄せ、体を回転させる。柔道の原理だ。相手の力を利用して、体を投げる。
ドガッ!
妖怪が石畳に叩きつけられた。一瞬だけ、包囲に隙間ができる。
「なっ——!」
妖怪たちは驚いたようだった。獲物が反撃してくるとは思っていなかったのだろう。
俺はその隙間に体を滑り込ませた。
走る。走る。走る。
肺が燃える。足が重い。だが止まらない。
(城まであとどれくらいだ。町家が見えてきた。人里に出れば——)
「あはは! 面白い! 面白いよ!」
背後から笑い声。近づいている。
(速い。やっぱり速い。人間の走り速度なんて、妖怪には通用しない)
石畳の道が町家の並ぶ通りに繋がった。人がいる。着物姿の町人が数人、通りを歩いている。
「逃げてください!」
俺は叫んだ。声が裏返る。
「妖怪が——」
だが町人は動かない。動けないのだ。恐怖で足がすくんでいる。あるいは、この世界で妖怪に襲われることなど日常茶飯事なのかもしれない。
「ひぃ…」
老婆が腰を抜らして座り込んだ。
(間に合わない)
背後の気配が、すぐそこまで迫っていた。
シュッ!
風切り音。俺は反射的に伏せた。頭上を何かが通過した。妖怪の爪だ。もし避けていなかったら、後頭部が持っていかれていた。
「つっぱしるねぇ。でもそろそろ疲れてきたでしょう?」
妖怪の声が、耳元で聞こえた。
(いつの間に——)
右肩に激痛が走った。
「つーん」
爪が、俺の肩を掠めた。シャツが裂け、血が滲む。
(くそっ。もう捕まる——)
俺は足を滑らせた。石畳が濡れている。いつの間にか雨が降っていたのか、それとも妖怪の仕業か。バランスを崩し、片膝をつく。
妖怪たちが、四方から迫った。
赤い肌の妖怪が、俺の左腕を掴んだ。爪が皮膚に食い込む。痛い。
「見つけた。いただきまーす」
緑色の妖怪が、右脚に噛みつこうとした。口が開く。黄色い歯が、俺の太腿に——
(だめだ。このままじゃ——)
俺は目を閉じた。
(すみません。まだ何もできてないのに)
(セフィ。あの人に、何も返せてないのに——)
ふいに風が、鳴った。
いや、風ではない。
鋭い、澄んだ音。空気を一刀で断ち切ったような音。
シュッ——
「——へ?」
目を開けた。
俺の左腕を掴んでいた赤い妖怪の手が、無かった。
肩から先が、滑り落ちたように無くなっている。断面から黒い血が噴き出し、妖怪が悲鳴を上げる間もなく——
二閃。
右脚に噛みつこうとした緑色の妖怪の頭が、胴体から分離した。宙を舞った頭が、石畳に転がる。ゴロゴロと。
三閃。四閃。五閃。
残りの四匹が、一瞬で切り裂かれた。
赤いのも、青いのも、黒いのも。全て。
石畳の上に、妖怪たちの断片が散乱した。黒い血が石畳を染める。
俺は呆然としていた。
何が起きたのか分からなかった。ただ、一つのことだけは確かだった。
俺を殺そうとした六匹の妖怪は、全て——一瞬で切り裂かれていた。
そして、風が止んだ。
静寂が戻った。
「…大丈夫か?」
声がした。
俺は顔を上げた。
石畳の上に、一人の人物が立っていた。
逆光で顔は見えない。だが、そのシルエットははっきりと分かった。
着物。袴。腰に差した一刀。
刀身が、血を一滴もつけずに、冷たい光を放っていた。
「立てるか」
その人物が手を差し出した。
俺は——震える手で、その手を掴んだ。