「……助けていただき、ありがとうございます」
妖怪の血が染みた石畳を後にして、俺は自分を救ってくれた人物の後ろを歩いていた。
両義式。
それが、彼女の名前だった。
名乗った時の声が、今も耳に残っている。淡々として、温度のない声。感情がこもっていないわけではない。感情を表に出すこと自体を、面倒だと思っているような声。
(というか、強かった)
あの妖怪たちを一瞬で斬り捨てた刀捌き。俺の救助隊時代の格闘訓練なんて、子供の喧嘩レベルに思えるほどの。
彼女は着物に袴、腰には一刀。髪は短く、左右で長さが違う。そして何より特徴的なのは——
(目。あの瞳)
宝石のような、吸い込まれる瞳。じっと見つめられると、自分の内側まで見透かされているような錯覚に陥る。
「ついてこいとは言ったが、礼を言われる筋合いはない」
式が、前を向いたまま言った。
「あの場に居合わせた。斬った。それだけだ」
「それだけ、って……俺は食われるところだったんですよ」
「食われても文句は言えまい。溢れすぎなんだ、あんたの生命力は」
ドキリとした。
(この人も、分かるのか)
「……気づいてたんですか」
「あんな匂いを振りまかれては、な。妖怪が騒ぐのも当然だ」
式は振り返った。その瞳が、俺を値踏みするように細められる。
正直に答えると、式はふっと鼻で笑った。初めて見る、笑みらしい笑みだった。
* * *
案内されたのは、町外れの森の中だった。
杉の木が鬱蒼と生い茂り、昼間だというのに薄暗い。苔むした岩、落ち葉を踏む音。瑞穂州の喧騒が嘘のように静かだった。
(まるで別世界だ。いや、ここも異世界なんだけど)
森を抜けると、開けた場所に出た。
小屋があった。
古い、朽ちかけた感じの山小屋だ。木板の壁は灰色に褪せ、屋根には苔が生えている。普通なら「誰も住んでないな」と思うような佇まい。
「ここ、誰か住んでるんですか」
「見ての通りだ」
式は答えにならない答えを返した。
「今は誰もいない」
「……式さんの家、じゃないんですか」
「仮宿だ。気まぐれで使う。それだけの小屋だ」
掴み所がない。
会話すればするほど、この人は掴み所がない。怒っているのか笑っているのか、こっちを見ているのか別の何かを見ているのか。浮世離れという言葉がこれほど似合う人も珍しい。
だが、歩き方を見れば分かる。
式の足取りには、無駄が一切なかった。重心がぶれない。常にどんな状況でも刀を抜ける体の向き。警戒を解いていない。
(……この人、常に戦場にいる)
(俺の知ってる人で言うなら、ヨルさんに近いかもしれない)
ヨル・フォージャー。俺を保護してくれた、あの市役所職員。穏やかな笑顔の下に、絶対に見せない何かを抱えた人。式からは、それと同じ種類の気配を感じる。
「入れ」
式が小屋の扉を開けた。
軋む音。木の扉が、重たげに開いていく。
中は——本当に、誰もいなかった。
土間。古い囲炉裏。積まれた薪。壁に掛かった藁細きの道具。生活の痕跡はある。誰かが使っている形跡は、ある。
だが、人はいない。
「……病人が、ここに運び込まれたりするんですか」
救助隊員の俺が、つい職業的な質問をしてしまう。式は鍵を閉めながら、首を傾げた。
「あんた、変なやつだな」
「よく言われます」
「褒めている」
囲炉裏の前に座ると、式が火を入れてくれた。マッチではなく、小さな火打ち石を使う。パチン、パチン、と乾いた音がして、火粉が舞った。
「妖怪に食われかけた男が、落ち着いて人の心配か」
「職業病なんです。俺、元は救助隊員でした」
「……救助隊員」
式が火を見つめたまま、その言葉を転がした。
「人を助けるのが仕事、か」
「ええ。まあ……異世界に来る前は、って話ですが」
火がボワッと燃え上がった。赤い光が、小屋の中を照らす。式の横顔が、橙に染まる。
その横顔が——ほんの一瞬だけ、何か遠いものを見る目になった。
「なら、あんたのその力は……妙な皮肉だな」
「皮肉?」
「救う力が、狩られる理由になる。生命力が溢れているからこそ、妖怪はあんたを狙った」
式の瞳が、こちらを向いた。
「あんたの優しさそのものが、この世界じゃはた迷惑な匂いを立てる。……救い手がいるだけで、この枯れた世界では騒ぎになる」
(……言われてみれば、そうだ)
セフィも言っていた。俺の力は国を動かす。俺自身はただの救助隊員のつもりでも、この世界ではそうはいかない。
「式さんは、それを知ってて俺を助けたんですか」
「知ったことか」
式は火箸で薪を突いた。パチパチと爆ぜる音。
「目の前で食われそうなやつを見たら、斬るだけだ。理由はいらん」
「……ですよね。俺と同じだ」
「違うな」
即座に否定された。
「あんたは助けたいから助ける。私は斬りたいから斬る。似て非なるものだ」
「斬りたい、から……」
「死人絡みの性分でね」
さらっと、とんでもないことを言った。
(なんですかそれ。かっこいいんですけど、意味が分かりません)
ツッコミを入れたくなるのを堪えていると、式が唐突に立ち上がった。
「傷を見せろ」
「え?」
「肩だ。妖怪の爪を受けたのだろう。放置すれば化膿する」
言われて、右肩の痛みを思い出した。シャツの裂け目から、血が滲んでいる。痛みは……確かに、じわじわと熱を持っていた。
(いや、俺の回復力なら大丈夫なはずなんだが)
だが、式の手が既に応急手当の包帯を取り出している。断る雰囲気ではなかった。この人の「断れる雰囲気じゃない」は、セフィとはまた別種の迫力がある。
(……助けてもらったばかりだし)
俺は観念して、シャツのボタンを外し始めた。
橙の火影が、小屋の中で揺れていた。
外の森では、風が杉の枝を鳴らしている。
この浮世離れした大和撫子と二人きりの、誰もいない小屋で——俺はまた、この世界のペースに巻き込まれていく予感がしていた。