目が覚めた時、俺はまだ囲炉裏のそばの寝台にいた。
布団に包まれた身体は重く、しびれるような心地よい疲労が全身を包んでいた。昨夜の行為のせいだろう。初めての経験ではないはずなのに、体の芯から力が抜け切って動くのが億劫だ。
……ああ、泥のように眠っていたんだな。
体を起こそうとして、鈍い痛みが腰を走る。昨日は結構激しく腰を振ったから、自業自得だ。周囲を見渡すと、囲炉裏の火はまだ小さく燃えていた。夜が明けてもいない。明かりは橙色の柔らかな光を放ち、小屋の木造りの壁を照らしている。
「起きたか」
静かな声が響いた。その声に導かれるように顔を向けると、式がそこにいた。
彼女は何事もなかったかのように、着物をすっかり整えて座っている。背筋を伸ばし、小さな囲炉裏の前に正座していた。長い髪は整えられ、腰の刀もきちんと差している。あの激情的な姿が嘘のように、元の涼しい顔つきに戻っている。
「……あ、おはようございます」
俺は情けない声を出した。自分の姿を見て、ぎょっとする。俺は上半身裸で、布団から足だけ出している。まるでやるだけやって、そのまま寝てしまった男の図だ。
「朝にはまだ早いがな」
式は淡々と言った。火を見つめたまま、俺の方は見ない。その横顔は、あの妖艶な笑みも熱っぽい瞳もなく、ただの静かな大和撫子の顔だった。
「……すみません。その、泥のように眠ってしまって」
「構わん。疲れていたのだろう」
あっさりとした返事だった。昨夜のことは、夢だったのかと思うほど。だが、俺の腰の痛みと、まだ名残のある余韻が、それが現実だったことを伝えている。
「あの……」
「服を着ろ。風邪を引く」
式が、俺のシャツを指先でつまんで放り投げた。俺は慌ててそれをキャッチし、シャツを羽織る。ボタンを留める手が少し震えた。着替えながら、式の横顔を盗み見る。
本当に、何事もなかったような顔だ。
「……気にしてないんですか?」
俺がそう尋ねると、式はようやくこちらを振り返った。火影に照らされた瞳は、宝石のように静かに光っていた。
「何をだ」
「いや……俺と、その……」
「ああ、生命力を分け与えてもらったことか?」
彼女は、当たり前のように言った。
「確かに、妖怪達が狙うだけはある生命力だ。驚かされたよ」
「え、あ、はあ……」
「だから、気をつけた方が良い」
式は火箸で薪を突き、ぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら言った。
「これから向かう所には魑魅魍魎は遠慮無く、襲うから」
「向かう所……?」
俺は首を傾げた。向かう所って、どこだ? 俺は確か、瑞穂州の大名に会うためにここに来たはずだが。
「桔梗院様の居城だ。あんたが持っている紹介状の宛先だろう?」
「ああ、そうでした」
セフィの手紙を思い出す。瑞穂州を治める大名、桔梗院。彼女の居城に行く手配をしてくれたと聞いていた。
「案内してくれるんですか?」
「ああ。妖怪退治のついでにな」
式は立ち上がった。着物の裾が揺れ、腰の刀がかすかに鳴る。
「桔梗院様の領内は、この森の奥に続いている。そこには魑魅魍魎が跋扈している。あんたの生命力は、彼らにとってご馳走だ」
「……ご馳走、ですか」
「そうだ。昨日のように、群れて襲ってくるだろう。あんた一人では、とても無理だ」
冗談のようで、本当のような口調だった。彼女の瞳には、俺の生命力を食べようとした妖怪たちの血が、まだ乾いていないように映っている気がした。
「だから、私が案内する」
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。ついでだからな」
彼女は小屋の扉を開けた。外の空気が流れ込んでくる。冷たい。だが、俺の体は不思議と熱かった。昨夜の余韻が、まだ体の中に残っている。
「行くぞ」
式が振り返った。その顔は、何事もなかったように静かだった。だが、俺の目には、その横顔にわずかな赤みが差しているように見えた。
* * *
森の中を歩きながら、俺は式の背中を見つめていた。
着物の背中は、昨日の夜と変わらず引き締まっている。腰の刀が揺れるたびに、小さな音がする。その音が、妙に心地よかった。
「あの……」
「何だ」
「昨日のこと、本当に気にしてないんですか?」
俺は聞いた。聞かずにはいられなかった。昨夜のあの言葉。「生きててよかった」。あれは、本心から出た言葉のはずだ。
「気にしていない」
式は即答した。
「ただの契約だ。生命力を分けてもらった。それだけだ」
「契約、ですか」
「そうだ。死人の性分として、生者の力を借りる。あんたはそれに応じた。それだけのことだ」
彼女の声は淡々としていた。だが、俺の胸の奥には、何かが引っかかった。
「……でも」
「何だ」
「俺は、嬉しかったですよ。式さんが生きててよかったって言ってくれて」
式は足を止めた。振り返らずに、少しの間、沈黙した。
「……黙れ」
短い言葉。だが、その声は少し低かった。怒っているのか、照れているのか、俺には判断できなかった。
「服を着ろ。風邪を引く」
彼女は再び歩き出した。俺は自分の服の状態を確認する。上着は着ているが、ボタンが一つ外れている。慌てて直す。
「……すみません」
「構わん」
式は前を向いたまま言った。
「ただ、あんたの生命力は本当に異常だ。妖怪が狙うのも無理はない」
「それ、何度も聞きました」
「だから、気をつけろ。これから向かう所には、あんたのことを嗅ぎつける連中がいる」
「……連中?」
「桔梗院様の所には、様々な者が集まっている。妖怪退治の専門家や、魔導の使い手や、あんたのような漂流者を探す者たちも」
「漂流者を探す者……」
俺は足を止めた。漂流者。その言葉は、俺の胸に重く響いた。俺がこの世界に来た理由。それを知る者が、ここにいるのかもしれない。
「心配するな」
式が振り返った。その瞳には、わずかな温かみがあった。
「私がついている。魑魅魍魎が近づいたら、斬る」
「……はい」
俺は頷いた。式の言葉には、不思議な安心感があった。彼女の背中を見ながら、俺は歩き出した。
森の中は静かだった。鳥の声も、風の音もない。ただ、二人の足音だけが、静寂を切り裂いていく。
「式」
「何だ」
「あんた、優しいですね」
「……黙れ」
また、短い返事。だが、その声には少しだけ笑みが混じっていた気がした。俺はそれを聞き逃さなかった。
* * *
森を抜けると、視界が開けた。
遠くに、白壁の城が見えた。瑞穂州の大名、桔梗院の居城。その城壁には、桔梗の紋が翻っている。
「着いた」
式が言った。
「あそこが、桔梗院様の居城だ。あんたの目的地だろう?」
「はい。ありがとうございます。案内してくれて」
「ついでだと、言ったはずだ」
彼女は歩き出した。城に向かって。俺も続く。
「あんた、これからどうする?」
「どうするって、とりあえず桔梗院様に会って、セフィ様の紹介状を渡します。それから……」
「それから?」
「この世界のことをもっと知りたい。俺が何をすべきか、自分で決めたい」
「……そうか」
式は小さく頷いた。
「なら、力を貸そう」
「え?」
「魑魅魍魎を斬る力だ。あんた一人では、とても無理だからな」
彼女は振り返り、珍しく微笑んだ。
「死人の性分が、生者の手助けをするのも悪くない」
その笑みは、昨夜の妖艶なものとは違った。静かで、穏やかで、どこか寂しげな笑み。
「……ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。式は小さく「礼はいらん」と言い、再び前を向いた。
城へと続く道。その両脇には、桔梗の花が咲いている。淡い紫色の花びらが、風に揺れていた。