桔梗の花が揺れる道を歩くことしばし。
森を抜けると、視界が開けた。白壁の城の麓に、屋敷が見えた。城そのものではなく、城下町と城の間に位置する離れのような場所。
「ここだ」
式が足を止めた。
俺も立ち止まる。屋敷の門構えは立派だった。石垣の上に瓦を乗せた塀が続き、門には桔梗の紋所。だが城そのものよりも少し古い、年代を感じさせる造りだ。
「桔梗院様の別邸だ。本城ではなく、ここに案内した」
「別邸、ですか」
「ああ。本城は政務の場だ。あんたのような漂流者がいきなり行けば、騒ぎになる」
確かにその通りだ。俺の生命力は、この世界では異常らしい。わざわざ目立つ場所になんて行きたくない。
「…少し、気配が違うな」
式が門の前に立って、ふと呟いた。声の調子が少し変わった。普段の淡々とした声に、鋭いものが混じる。
「どうしました?」
「…客だ。中に妖怪がいる」
俺の背筋に冷たいものが走った。妖怪。昨日のことを思い出す。あの赤い肌、裂けた口、黄色い歯。食い殺されそうになった感覚が、ふっと蘇る。
「え、ちょっと待ってください。屋敷の中に妖怪が?」
ビビった。正直に言えばビビった。俺は妖怪に食われかけたばかりだ。トラウマになりかけている。
「出入りしている連中だ。桔梗院様の領内には、妖怪も住まわせている。人と共存するのがこの州の方針だ」
式は何でもないことのように言ったが俺には全く何でもないことではなかった。
「共存って…あの、俺を食おうとした連中と同じ種類の?」
「あれは野生の妖怪だ。桔梗院様の下につくのは賢い妖怪だ。人を襲わない。…たぶん」
たぶんって何だ。たぶんって。
「式さん」
「なんだ」
「たぶんって何ですか」
「言葉の通りだ。賢い妖怪でも、稀に理性を失すことがある。あんたの生命力は特大の串団子だ。刺されば我を忘れるかもしれん」
「刺されたら串団子って何ですか」
「比喩だ」
式は門をくぐった。俺は躊躇したが、一人で残される方がよっぽど怖い。慌てて追いかける。
屋敷の中は静かだった。廊下が続く。木の床が磨かれていて、裸足の足音がコツコツと響く。俺の編み上げ靴だけが異質な音を立てる。
(妖怪がいる…)
廊下の隅を何かが動いた気がした。影が動いた気がした。いや、気のせいではない。確かに何かがいる。柱の陰、天井の梁の上、廊下の曲がり角。俺の生命力を感じ取った何かが、じっと見ている。
ビクビクと肩が揺れる。俺、二十五歳。救助隊員。これでも結構タフな方だと思う。けど、異世界に来てから知らないものに囲まれるのに慣れない。
「式さん。ちょっと、視線が痛いんですけど」
式がちらりと俺を見た。その視線は何でもないことのように通り過ぎ、だが次の瞬間彼女は廊下の奥の影に向かって、ふっと息を吐いた。
「出てこい」
声は静かだったが、芯があった。命令だ。それだけで、影が揺れた。
一つ、二つ、三つ。影から何かが這い出してきた。
妖怪だ。狐の耳に人の姿。狸の腹に人の顔。蛇の尾に女の上半身。昨日のと違う、もっと人の形に近い妖怪たち。だが見た目が人の形に近い分、その異様さは際立っていた。
「…お客さんだ」
式が短く告げた。
「手を出すな。出せば斬る」
妖怪たちは一斉に怯えた。式の腰の刀を見て、一斉に一歩下がる。昨日の妖怪たちを一閃で切り裂いた刀だ。この妖怪たちもそのことを知っているらしい。
「…へい、へい。分かってますよ、両義の旦那」
狐の耳の妖怪が、ひょこひょこと頭を下げた。声はしわがれた老人のようだった。
「新しいご客人ですかい。随分と元気な匂いがしますねぇ」
「匂いは嗅ぐな。噛みつくな。舐めるな。触るな」
式が事務的に並べた。まるでペットのしつけのような口調だ。
「…へいへい。分かってますって」
妖怪たちは一斉に一歩下がった。だが、視線は俺の方を向いたままだった。俺の生命力を感じ取って、喉が鳴っているのが聞こえる。ごくり、と。
(喉鳴ってる。喉鳴ってるよこの妖怪たち)
(俺、串団子じゃなくてクリスマスの七面鳥くらいの扱いなんじゃないか)
式が俺の背中を押した。
「行くぞ。奥へ」
俺は逃げ出したくなる足を無理やり押さえ込んで、式の後ろについて歩いた。廊下の両側から妖怪たちが見守っている。というか、見張っている。俺の生命力を、じっと見ている。
(式さんがいなかったら、どうなってたんだろう)
(まあ、考えたくないな)
廊下を抜けると、広い座敷に出た。襖が開け放たれ、庭が見える。池に錦鯉が泳いでいる。庭の隅には灯篭。静かで美しい庭だ。…妖怪がいなければ。
「ここだ」
式が座敷の前に立った。そして、襖を開けた。
「桔梗院様。お連れしました」
中は、明るかった。
部屋の中には、数人の侍女が控えていた。着物姿の女性たち。だがその奥に、一人の女性が座っていた。
俺は目を見開いた。
金髪だった。
鮮やかな金色の髪が、着物の黒い襟から流れ落ちている。結い上げられた髪には簪が刺さり、その輝きが灯籠の光を受けてきらめいている。
着物は豪華だった。深い緋色に金糸で鳳凰が縫い取られている。帯は同じく金色。左右で長さの違う前髪が、整えられた顔立ちを縁取る。大きな瞳は琥珀色。長い睫毛がその下に影を落としていた。
美人だ。それも、はっきり言って別格の。
セフィとも式とも違う。豪華というか、絢爛というか。とにかく目が釘付けになる女性だった。女性の美しさには慣れてきたつもりだったが、この人は格が違った。
「どうもぉ、初めまして」
声が降ってきた。ゆったりとした、伸びやかな声。少しだけ間延びしたような、それでいて芯のある声。
「ここの主である、八坂です」
八坂。その名前を口にした時、彼女の唇がゆっくりと弧を描いた。笑みというよりは、余裕というか。全てを知っているような、そんな顔だった。
「セフィ様から話は聞いておりますよ。久世生真さん…でしたっけ」
「は、はい。久世生真です」
声が上擦った。俺、二十五歳。救助隊員。目の前の金髪の美女にただならぬ迫力を感じて、声が上擦った。
「ふふ。随分と元気なお方ですね。セフィ様が仰る通り、生命力が溢れている」
八坂は扇子を開いた。金色の扇面に、同じく鳳凰が描かれている。ぱちり、という音。
「この瑞穂州に流れ着かれたとは、運がいいのか悪いのか。…まあ、今日はお話ししましょう。まずは、お腹も膨らめてから」
彼女は扇子で庭を指した。
「食事の準機が整っております。こちらへ」
俺は式を振り返った。式は何事もなかったかのように壁際に座っていた。もうすでに俺のことは役割を終えたかのような顔だ。
(いや、役割って何だよ。俺の)
「式さんもご一緒に」
八坂が言った。
「あんたも久しぶりに生者の御相伴に預かりなさい。腐る前に」
「…腐る前、とは」
式が眉を寄せた。だが八坂は涼しい顔で扇子をあおいでいる。
「冗談よ。さあ、久世さん。こちらへ」
八坂が立ち上がった。緋色の着物が揺れ、金色の髪が背中で揺れる動きに俺の目は無意識に追っていた。