案内されたのは、屋敷の奥にある座敷だった。
廊下を進むにつれて、廊下に並ぶ妖怪たちの視線が消えていく。代わりに、女の香りが濃くなった。
「こちらです」
先頭を歩く八坂が、廊下の突き当たりの襖を開けた。
中は明るかった。昼の光が差し込むように、窓が大きく開け放たれている。畳の上には、低い机。そしてその上に並べられた食事。
「和食…だ」
思わず声が出た。
目の前に広がっていたのは、見慣れた和食だった。焼き魚、煮物、酢の物、味噌汁、ご飯。湯気が立っている。色合いも香りも整えられていて、出汁のいい香りが鼻をくすぐった。
「懐かしい」
口から漏れた。俺がいた世界の和食。それに近い食事が、異世界の屋敷で出てくるとは。
「お口に合いますか?」
八坂が微笑んだ。扇子で口元を隠しながら。その仕草が、妙に色っぽい。扇子の向こうの唇が、ふわりと笑っている。
「ええ。とても。匂いだけでも美味しそうです」
「ふふ。そうですか。瑞穂州の食事は、他の地域よりも繊細ですから。生命循環が衰えてからも、味わいだけは守ろうとしています」
八坂は、俺の向かい側に座った。緋色の着物の裾が畳に広がる。金髪が揺れ、琥珀色の瞳が俺を捉えた。
「どうぞ。冷めないうちに」
促されて、俺は畳に座った。座布団がふにふにと沈む。机の上の食事に手を伸ばす。箸が添えられていた。竹でできた、質素だが丁寧に磨かれた箸。
「いただきます」
口にした魚は、柔らかくて脂が乗っていた。出汁の効いた煮物は温かく、酢の物は酸味がきいている。味噌汁の出汁は深く、ご飯は粒立っている。
「…美味しい」
素直に声が出た。この世界に来てから、野菜も肉も味が薄いと思っていた。生命力の低下が原因だと聞いていた。だがこの食事は、別格だった。
「お口に合って何より」
八坂が、扇子を開いた。金色の扇面。ぱちり、という音。
「久世さんは、どこから来られたんですか?」
「えっと、中央連邦オスタニアの海岸に流れ着いたんです。その前は…別の世界から」
「別の世界…」
八坂の瞳が細くなった。興味深そうに、俺を見つめている。
「セフィ様からは、生命力が異常なほど高い男性だと聞いていました。実際に会ってみると…なるほど。匂いが違いますね」
「匂い、ですか?」
「ええ。あなたからは、生の匂いがします。この枯れた世界にはない、濃い生の匂い」
八坂の扇子が、俺の頬を撫でた。扇子の縁が、肌に触れる。冷たい感触。
「正直に言いますね」
彼女の声が低くなった。扇子越しの瞳が、じっと俺を見ている。
「私は、あなたのことが気になります」
「え?」
「その生命力。その温かさ。この枯れた世界で、ただ一つ輝いている星みたい」
八坂は扇子を閉じた。金色の扇面が、ぱたんと音を立てる。
「妖怪たちがあなたを狙うのも分かります。私も…同じ気持ちになりますから」
その言葉に、俺の背筋が凍った。
(この人も…?)
セフィも、美智代さんも、俺の生命力を求めてきた。そして今、八坂も。
「八坂様」
隣で黙って座っていた式が、口を開いた。
「客を脅かすな」
「脅かしていませんよ」
八坂は涼しい顔で答えた。だがその瞳は、相変わらず俺を見つめている。
「ただ、事実を伝えているだけです。この方の生命力が、どれほど価値のあるものか」
「価値、ですか」
俺が問い返すと、八坂はゆっくりと頷いた。
「ええ。この世界では、生命力は何よりも貴重です。特に女性は、生命力が低下して子供を産みにくくなっています。あなたの生命力があれば…」
彼女は言葉を切り、ふっと笑った。
「…なんて、食事中に縁起でもない話を」
八坂は立ち上がった。着物の裾が揺れる。緋色の布が、畳の上を滑る。
「ごゆっくりどうぞ。私は着替えてきます。…食後、お話の続きをしましょう」
彼女は襖の向こうへ消えた。残されたのは、俺と式。そして湯気の立つ和食。
「…緊張したか?」
式が問いかけた。壁際で腕を組んで、じっと俺を見ている。
「ええ。正直、かなり」
「だろうな。あの女は一枚岩じゃない。表向きは瑞穂州の領主だが、裏では妖怪と通じている。それに…」
式は一瞬言葉を切り、廊下の方を見た。
「あんたの生命力を狙っているのは妖怪だけじゃない。人間もいる」
「人間も」
「ああ。この屋敷の中にも、いるだろう。あんたの匂いに惹かれて」
式の声は静かだった。だが、その目は鋭かった。俺を守るつもりなのか、それともただ観察しているだけなのか。判断がつかない。
「…食べろ」
式が促した。
「冷めないうちにな。体力をつけないと、この先はきつい」
「はい」
俺は箸を手に取った。味噌汁を口に運ぶ。温かい。胃の中に広がる温かさ。だが、心の緊張は解けない。