食事を終えた俺の背中を、式がついてくることはなかった。
「私はここで待つ」
廊下の角で、式は立ち止まった。壁に背を預け、腕を組む。いつもの掴み所のない顔だった。
「え、式さんは来ないんですか」
「あんたは客だ。客の寝所に私が踏み込む筋合いはない」
「寝所って…」
「言われた通りに行け。八坂様が案内してくれる」
式は俺を追い立てるように顎でしゃくった。その目は俺を見ていない。廊下の奥、何か別のものを見ているようだった。
(…置いていかれた感がすごい)
(というか、寝所って何だよ。俺、寝るだけのつもりなんだけど)
案内してくれたのは、先ほどの侍女だった。着物姿の女性は無言で廊下を進み、俺を奥の部屋へと導く。襖を開けると、中は暗かった。
「お休みください」
侍女は一礼して去っていった。
俺は一人、暗い部屋の前に立った。
(…さて)
襖を開ける。中は……薄暗かった。
蝋燭の明かりが数箇所に灯っている。だがそれ以上に目を引いたのは、部屋の中に漂う香りだった。
甘い。
濃い。
鼻の奥をくすぐるような、甘く濃い香り。お香だ。だが、ただのお香じゃない。何かが混ぜてある。香りが粘りつくように鼻孔に張り付き、頭の中に染み込んでくる。
(…これは、怪しい)
(かなり怪しい)
(普通のお香じゃない。何か、こう……理性をにぶらせるような匂いというか)
(…いや、気のせいか。俺、被害妄想が酷くなってるな)
部屋は広かった。十畳ほどの空間。中央に大きな寝台が置かれている。シルクの掛け布団。柔らかな枕。壁には屏風。襖の向こうには庭が見える。池の水音が微かに聞こえる。
上等な部屋だ。瑞穂州の領主の別邸。客室として見れば、破格のもてなしだ。
だが。
(お香が濃い)
(息をするたびに、頭がふわっとする)
俺は額の冷や汗を拭った。違う。これは汗じゃない。背中が熱い。首筋が熱い。お香のせいか。それとも……。
「お腹は膨らみましたか?」
背後から声がした。
「っ!」
跳ねるほど驚いた。振り返ると、八坂がいた。
着替えていた。
先ほどの豪華な着物ではない。薄い、肌色の単衣。下着に近い装いだ。着物の合わせが緩い。胸元が見えそうで見えない。鎖骨が浮き出ている。金髪が解けて、肩に落ちている。
「あの、八坂様…?」
「八坂でいいですよ。夜に様付けるのは堅苦しい」
八坂は微笑んだ。琥珀色の瞳が、蝋燭の光を受けて揺れている。
(やばい)
(これ、絶対にやばい)
俺の勘が警鐘を鳴らしている。救助隊員の勘が。現場に入る前のあの感覚。空気が変わる。何かが来る。
「部屋が…あの、お香が少し…」
「ああ、これ。瑞穂州特産のお香です。心地よいでしょう?」
八坂は扇子を開いた。いつの間に持ったのか。金色の扇面が、蝋燭の光を反射する。
「リラックス効果があるんです。旅の疲れを取るには最適ですよ」
「そうですか…あの、俺はもう休んで…」
「久世さん」
八坂が一歩近づいた。単衣の裾が揺れる。白い足が覗く。
「私の話を…聞いてくれませんか?」
「話?」
「ええ。食事中に途中で終わってしまったでしょう。あなたの生命力のこと。この世界のこと。…私のこと」
八坂の声が低くなった。艶が増している。お香のせいか。それとも彼女の声そのものがそうなのか。
「俺の生命力が…」
「気になります。とても」
八坂はもう一歩近づいた。俺との距離が、一メートルを切る。甘い香りが濃くなる。お香の香りに混じって、彼女自身の体臭が漂ってくる。花の香り。それに、何か甘いもの。
「セフィ様から聞きました。あなたの生命回帰が、この世界を変えられるかもしれないと」
「セフィさんが…」
「ええ。あの方は私の古い友人です。デビルーク王国と瑞穂州の縁は深い。…だから、あなたのことも気になって」
八坂の手が伸びた。
俺の左手首に触れる。赤い布に、白い指が触れる。
「これは…?」
「元の世界の、お守りです」
「優しい手ですね。…人の命を救う手だ」
八坂の指が、俺の手首から前腕へと滑った。皮膚をなぞる感触。冷たい指。熱い俺の肌。
「あの、八坂様…」
「八坂」
「八坂…さん」
「さんもいらない。八坂でいい」
彼女は俺の手を取った。引き寄せる。俺は抵抗できなかった。いや、抵抗しなかった。彼女の手が温かい。いや、冷たい。どっちだ。分からない。頭がふわふわする。
「…お香、やっぱり効いてるんですか」
「効いてるって、何がです?」
「いや、俺の理性が…」
「理性?」
八坂が笑った。扇子で口元を隠しながら。だがその目は笑っていない。琥珀色の瞳が、真剣に俺を見ている。
「理性なんて、なくてもいいんですよ。この部屋では」
彼女は俺の手を引いた。寝台の方へ。一歩、二歩、三歩。
「あの…」
「黙って。感じて」
俺の背中が寝台に当たった。八坂が俺を押し倒す。蝋燭の光が揺れる。八坂の顔が、俺の顔の上にある。金髪が垂れて、俺の頬に触れる。琥珀色の瞳が至近距離で俺を見つめている。
「久世さん。あなたの生命力…私にください」
「え…」
「お願い。…この枯れた世界で、唯一輝く光を。私に」
八坂の唇が、俺の耳元に触れた。吐息が耳の中に潛り込む。
「全部…私に」
俺の理性が、音を立てて崩れていく。