翌朝、目が覚めた時、俺は豪華な布団の中にいた。
ふかふかの絹の感触。ふわりと漂う香り。だが昨夜のあの甘いお香とは違う。澄んだ、清潔な香り。
「…生きてる」
呟いた。喉が渇いているが体は重くない。むしろ軽い。生命回帰が夜の間に働いてくれたらしい。動かしてみると、指も足も問題なく動く。
(式さんは無事か)
ふと横を見ると、八坂はいなかった。代わりに枕元に湯飲みが置かれていた。まだ温かい。茶だ。
(…毒は入ってないよな)
疑いながらも一口飲む。ほろ苦い抹茶の味が口に広がった。毒っぽい味はしない。いや、毒が入ってたら味で分かるもんでもないか。
* * *
湯浴みを済ませて案内された座敷には、豪華な和食が並んでいた。
焼き魚、煮物、酢の物、味噌汁、ご飯。昨夜と同じメニュー構成だが、品数が増えている。鯛の尾頭付き、穴子の蒲焼き、鶏肉の松茸風味。出汁の香りだけで腹が鳴った。
「おはようございます、久世さん」
八坂が襖を開けて入ってきた。今日は着物をしっかり着ている。緋色の着物に金の刺繍。昨夜の単衣姿とは違い、凛とした領主の顔に戻っていた。
「おはようございます」
俺は正座して挨拶した。膝が痛い。この世界に来てから、正座に慣れる気配がない。
「体調はいかがですか」
「あの…正直に聞きたいんですけど」
「何ですか」
「俺、昨日何をされたんでしょう」
八坂は扇子を開いた。金色の扇面。ぱちりという音。
「覚えていないんですか」
「感覚は残ってるんですけど、詳細が曖昧で」
「お香の効果ですね。筋肉を弛緩させるついでに、記憶も少し鈍らせるんです。悪気はありません」
「悪気はないって言われても困るんですが」
「ふふ。ごめんなさい」
八坂は悪びれもせずに微笑んだ。その笑顔には昨夜の妖艶さはなく、ただ涼しい顔の美女だった。
「でも久世さん。あなたの生命力は本物でした。私の体が温かい。今もまだ、中に残ってる感じがします」
「そこを言わないでください」
「事実ですから」
八坂は扇子を閉じて、俺の向かいに座った。
「さあ、食べてください。朝から動くには体力が必要です」
促されて、俺は箸を手に取った。鯛の身はふっくらとしていて、出汁の味が染み込んでいた。穴子は香ばしく、松茸の香りが口いっぱいに広がる。
「美味しい」
「でしょう?瑞穂州の食事は、生命力が低下しても味だけは守ろうとしているんです。せめて口にする喜びくらいは残さないと」
八坂は自分も箸を取り、味噌汁を啜った。意外と庶民的な食べ方だ。
「…意外と普通に食べるんですね」
「何だと思ってました?」
「蜘蛛みたいに糸で獲物を巻いて吸い尽くすイメージで」
「失礼ね。私は領主です。最低限の食事作法は身につけてます」
八坂は笑った。その笑い声が、妙に楽しそうだった。
食事を終えて、茶が運ばれてきた。抹茶と和菓子。抹茶の苦みと、和菓子の甘さが口の中で混ざり合う。
「久世さん」
八坂が口を開いた。
「あなたに提案があります」
「提案?」
「ええ。瑞穂州から、別の国へ向かわないかという提案です」
俺は茶椀を置いた。
「どうしてですか」
「あなたの生命力は、この瑞穂州一国では足りません」
「足りない、って」
「ええ。瑞穂州は確かに豊かな国です。ですが、生命力の枯渇は止まらない。あなたの力でも、一国を救うには足りない」
八坂の琥珀色の瞳が、真剣な光を帯びていた。
「あなたはもっと広く、この世界を見るべきです。西方の魔導諸国、東方の残りの州、北部の機工連盟、南方の魔族領。どこも同じ問題を抱えています」
「セフィさんも同じことを言ってました」
「でしょうね。あの方は世界を俯瞰する視点を持っています」
八坂は扇子を開いた。
「それに、あなたは面白い人間です。瑞穂州に留めておくには惜しい」
「面白い?」
「ええ。生命力が強いだけじゃない。誰かを救おうとする意志が強い。その意志が、この世界を変える力になる」
八坂は立ち上がった。襖を開け、庭を指差す。
「見てください。この庭も、百年前はもっと豊かでした。池の鯉も、木々も、今よりずっと元気だったはずです」
確かに庭は美しい。だが池の水は少なく、木々はどこか弱々しい。
「私の力だけでは、守り切れません。だから、あなたに頼みたいのです」
「何をですか」
「この世界を、救ってください」
直球だった。セフィとは違う種類の直球。セフィは俺の力を利用しようとした。だが八坂は、俺自身に世界を救えと言っている。
「俺一人で、世界を救えるわけがないでしょう」
「救えるかどうかは分かりません。でも、救おうとする意志はある」
八坂は微笑んだ。
「だから、面白い」
その笑みには、昨夜の妖艶さも、蜘蛛のような冷たさもなかった。ただ、純粋に人間としての興味の色があった。
「瑞穂州を出てください。次は東方の別の州か、北部の機工連盟がいいかもしれません。北部は科学技術で生命力を補おうとしています。あなたの力と、彼らの技術が合わされば、何か分かるかもしれません」
「式さんはどうなりましたか」
「ああ、両義のことですか」
八坂は扇子を閉じた。
「今朝解放しました。彼女は少し怒っていましたが、無事です」
「怒ってたって」
「あなたを私の色香に溺れさせたからです。私が悪かったと謝りました」
「謝って済む話じゃないと思うんですけど」
「謝りました。それで許してもらえました」
「…許したのか、式さんが」
「ええ。『死人絡みの性分でね』と笑っていました」
式らしい。何を考えているのか分からない。だが無事ならそれでいい。