玉座の前に立つと、華帝の全身が見えた。
龍袍の下に引き締まった体格。褐色の肌に、筋肉の輪郭が浮き出ている。武人だ。瑞穂州の式と同じ種類の強さだ。だが式とは違う。もっと重厚な、圧迫感のある強さ。
「久世生真」
華帝が俺の名を呼んだ。金色の瞳が、俺を捉える。
「単刀直入に言う。そなたに頼みがある」
「頼み、ですか」
「うむ。そなたの生命回帰。その力を使ってほしい」
「具体的に、何を?」
華帝は一瞬、口を閉じた。龍袍の胸元を指で探る仕草。俺はそれを見逃さなかった。ためらいだ。この男がためらうとは、相当なことらしい。
「私の妻との間に、子供を儲けてほしい」
「……は?」
声が出た。間抜けな声だ。だが仕方ない。聞き間違いかと思ったからだ。
「子供を。私の妻との間に。そなたの生命力を注いでほしい」
「いや、ちょっと待ってください。それはつまり、俺が奥方様と」
「そうだ」
「いやでも、あなたの奥方でしょう。皇帝の妻でしょう。それに俺が」
「そうだ」
華帝は繰り返した。金色の瞳は逸らさない。だが顎の筋肉が僅かに動いた。俺はそれを見逃さなかった。
(何だ。この違和感)
(皇帝が自分の妻に他の男を当てる? この世界でそれがあり得るのか)
(いや、この世界では男同士が主流だと美智代さんが言っていた。でもそれは)
「あの、なぜ俺なんですか」
俺は聞いた。率直に。
「あなたの妻なんですから、あなたが」
華帝の表情が歪んだ。
いや、歪んだというより——砕けた。
龍袍の胸元を握りしめていた手が、ふっと力を緩めた。金色の瞳が天井を向く。ため息が漏れた。
「……実はな」
華帝の声のトーンが変わった。皇帝の威厳が消え、ただの男の声になった。
「私男色家だ」
「……は?」
「男色家なのだ。女には興味がない」
俺の思考が停止した。
(は)
(は?)
(皇帝が。この国の皇帝が。男色家。女には興味ない)
「……えっと」
「だから妻とは床を共にしておらん。五年になる」
華帝はляてばせるように言った。龍袍の袖を引っ張りながら。
「五年も? それはいかにも」
「国のための政略結婚だった。だがどうしてもその気になれん。妻には申し訳なく思っているが」
華帝は立ち上がった。龍袍の裾が床を擦る。近くで見ると、龍袍の金糸の細かさが分かる。だがそんなことはどうでもいい。
「妻は未だに未婚のようなものだ。可哀想なことをした」
「それで、俺に頼むと」
「そなたの生命力なら、妻の子宮に生命力を注げるだろう。健康な子供が産まれるはずだ」
華帝は真剣だった。金色の瞳に、本気の光が宿っている。
「待ってください。それは分かりました。でも俺があなたの妻と寝るって、いろいろまずくないですか」
「なぜだ。この世界では子供を作るために他の男を頼るのは珍しくない。生命力の強い男に種を頼むのは一般的だ」
「一般的って」
「私の寝所には代わりの男を置いている。だがそやつらは生命力が弱い。妻に注ぐには足りん」
(代わりの男を置いているって何だよ)
(つまりこの皇帝、自分の寝所に男を置いて、妻には別の男を当ててるのか)
(この世界の婚姻制度はどうなってるんだ)
俺は頭を抱えたくなった。だが華帝の表情は真剣だ。
「で、どうだ。引き受けてくれるか」
「いや、正直に言うと」
「断るなら」
華帝の声が低くなった。金色の瞳が、俺を捉える。龍袍の袖から、白い手が覗く。
「私の相手をしてくれ」
「……は?」
「私の相手だ。そなたの生命力、私にも分けてもらいたい。男同士でな」
華帝は涼しい顔で言った。
(え)
(この皇帝。俺と寝る気満点なのか)
(俺に妻との間に子供を作らせるか、俺と寝るか。二択で来たのか)
俺は華帝の顔を見た。褐色の肌に彫りの深い五官。引き締まった体格。金冠。龍袍。
(皇帝と男同士で寝る)
(それとも皇帝の妻と寝る)
(どっちだ)
(いやどっちも正気じゃないけど)
「そなたの生命力は異常だ。八坂から聞いた。あの九尾ですら、そなたに手を出したくなったと」
「あの人に言ったんですかそんなこと」
「あいつは私に隠し事ができない性質だ」
華帝はふっと笑った。
「どうだ。妻の方を頼むか。それとも」
金色の瞳が、いたずらっぽく光った。
(いたずらっぽい。この皇帝いたずらっぽい目をした)
(四十代半ばの皇帝が中年男にいたずらっぽい目をしてる)
(何この人)
「……分かりました」
俺は即答した。
「どっちですか」
「妻の方です。お願いします」
「ほぅ」
華帝は眉を上げた。
「私の相手では不満か」
「不満とかじゃなくて、俺はそっちじゃないんで」
「そうか。残念だ」
華帝は肩をすくめた。大げさに。四十代半ばの皇帝が肩をすくめた。
(なんだこの皇帝)
(威厳はどこに行った)
「では妻を呼ぶ。少し待て」
華帝は袖を振った。玉座の横の柱の裏から、侍女が現れた。
(いたのか。柱の裏に)
「妻を呼べ。客がある」
侍女は一礼して消えた。
俺は天井を仰いだ。
(皇帝の妻と寝ることになった)
(皇帝自身は男が好きで、俺と寝たかったらしい)
(この世界は狂ってる)
(いやもう何度目だこの感想)
左手首の赤い布を握りしめた。元の世界ではあり得ない状況だ。だがここは異世界アステリア。生命力が枯渇し、男女の営みが歪んだ世界。
俺がこの世界で何をすべきか、まだ分からない。でも目の前に助けを求める人がいるなら、それに応じるしかない。
それが救助隊員としての、俺の性分だから。
華帝の金色の瞳が、まだ俺を見ていた。
(諦めきれてない目だこれは)
(俺と寝る気満々じゃないか)
(早く奥方様来てくれないかな)
俺は冷や汗をかきながら、玉座の前に立ち尽くしていた。