ホテルの扉が閉じた瞬間、美鈴の手が俺の胸を押した。逃げる間もなく背中が壁に当たる。冷たい壁面がシャツ越しに背中の熱を吸い取っていく感触。それと対照的に、掌から伝わる彼女の体温がじわじわと浸透してくる。
「ふふ、心臓の音、すごく速いわよ。壁越しでも分かるんだから」
言いながら彼女は首を傾げ、上目遣いで俺の顔を覗き込んできた。茶色の瞳の奥で、薄い光が揺れている。距離にして二十センチもない。彼女の吐く息が、顎のあたりにかかる。
「当たり前です。いきなり押し倒されたら誰だって」
「押し倒したのは、これからよ。今はほら、品定めの時間」
彼女は笑いを含んだ声でそう言うと、俺の胸板に片手をついたまま、もう片方の手でシャツのボタンに指をかけた。一つ目が外れる。二つ目が外れる。指先が布地をくぐるたびに、俺は息を詰めて、その動きを目で追うしかなかった。
くすぐったいような、歯がゆいような感覚が、肌の上をゆっくりと這い回る。彼女の爪が鎖骨の窪みを掠めた瞬間、背筋に小さな波が立った。
「あんた、こう見えて意外と厚みがあるのね。力仕事でもしてた?」
「まあ、それなりに」
「黙ってないで、話しなさいよ。せっかくいい雰囲気になってんだから」
彼女の手が俺の脇腹をなぞり、肋骨の一本一本を確かめるように下へ滑っていく。そしてベルトの金具に触れた。冷たい金属の音が、やけに大きく耳に届いた。
その瞬間、腰の奥が熱くなって、つい彼女の手首を掴んでしまった。
「待ってください」
「あら、何? 今更、やめるなんて言わないでよ。女の子をここまで誘っておいて」
「やめろとは言ってません。ただもう少し…落ち着いてほしいだけです」
握った手首は細く、熱を持っていた。俺の手の中で、彼女の脈が打っている。その感触に、胸の奥がきつく締め付けられる。彼女の指先が、俺の手のひらの中でわずかに動いた。振りほどこうとしているのではない。握り返そうとしているのだ。
「落ち着く? 私が? ふふ、何言ってるの。こういうのは落ち着いたら駄目なのよ」
彼女は笑いながらも手を振りほどこうとはしなかった。呼吸が少し乱れている。俺の手の中で彼女の体温が移っていく。
「…俺のことを、どこまで知ってるんですか」
「そりゃあ、男がいて、体も元気で、女に困ってないことぐらいかしら。…あとは、今から知るのよ。匂いで嗅ぐように、指で確かめる。そういうやり方も悪くないでしょ」
びり、と空気が震えた気がした。彼女の声は柔らかいのに、目が笑っていなかった。飢えた夜を何度も越えてきた女の目をしている。その色を見た瞬間、俺の中の何かが音を立てて解けていった。
「…なら、俺にも少し自由にさせてください」
俺は壁についていた手を、彼女の髪に触れないぎりぎりの位置へ動かした。彼女の目が、わずかに見開かれる。呼吸が止まる。一秒、二秒。それから、ゆっくりと口元が緩んでいく。
「…いいわ。好きにしなさい。ただし最後はちゃんと抱いてよ。私を一人の女にして」
彼女は俺の手を振りほどき、今度は自ら服に手をかける。絹ずれの音が、やけに大きく響いた。
「あんたが初めて壁越しに私を止めたから、こっちも上がっちゃったじゃない」
「…やめてくださいよ。そういう言い方」
「本当よ。ほら、こんなになってる」
彼女が外した下着の奥からふわりと甘い匂いが立ちのぼる。その匂いを吸い込むだけで頭の芯が焼けるように熱い。
「美鈴さん」
「なあに、生真くん」
「俺、多分止まれませんよ」
「今更。誰が止まってくれって言ったの。むしろ、止まらなくていいの。あなたが思うままに、私をめちゃくちゃにしてみせなさいよ」
彼女はそう言って、ベッドに背を預けた。白いシーツに、明るい茶色の髪がほどけて広がっていく。その姿があまりに綺麗で、俺は一瞬息をするのも忘れて見とれた。
「…綺麗だ」
「ふふ、ありがと。じゃあ、来なさいよ。お姉さんの体、全部あんたに預けるから」
彼女が片手を差し出す。手首の内側に浮かぶ青い静脈。指先まで熱く、細かく震えている。俺はその手を取って、そっと握り返した。
「…お手柔らかになんて言いませんよ」
「当然。私も言う気ないわ」
目が合う。彼女の瞳の奥で小さな炎が揺れている。俺は彼女の足の間に片膝をつき、そのまま体重を預けるように近づいた。
美鈴さんの肌に触れるのは、服越しではない。この距離で、彼女の呼吸が直接、俺の首筋にかかる。吐息の熱が、汗ばんだ肌をなぞって、俺のほうが先に啼きそうになる。
「…いい顔。飢えた男の顔してるわ」
「それを言ったら、あんたもですよ」
「へえ、言うじゃない」
彼女が笑い、指の背で俺の頬を撫でる。やわらかな殺意のような色香だった。
俺は、その先を促されるままに、彼女の唇へと顔を近づけた。先に動いたのは、けれど向こうだった。唇が触れる寸前、彼女が小さく「ん」と漏らし、俺の首に腕を回してくる。
「来なさいよ」
「…はい」
俺は低く返して、彼女の肩をそっとシーツの上へ押し戻した。
どちらからともなく、唇が重なる。息が混ざり、鼻先が触れ、胸の奥でずっと燻っていた熱が音を立てて弾けた。
美鈴さんの指が、俺の後ろ髪を掴んで、逃がさない。俺も彼女の背中に腕を回して、埋めるように深く口づけた。
「ん…っ、は…」
唇が離れたとき、彼女の目元はほんのり赤く染まっていた。
「…悪くない口づけだったわ」
「まだ、こんなもんじゃないですよ」
「あら、楽しみ」
胸が詰まるような沈黙が一瞬降りて、それから俺は彼女の首筋へ唇を落とした。彼女の白い肌に背徳の痕を刻んでいく。
外では薄く蒸気の音が響いていた。けれど今の俺の世界には、彼女の細い呼吸と直接伝わる心臓の脈だけがやけに鮮明に流れていた。