※この作品はR-18です。

種を求められる異世界放浪   作:ボルメテウスさん

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温もりの体温

「さあ、続きを始めましょうか」

 

美鈴さんがふいに体を起こした。

俺の首に回っていた腕が解かれ、代わりに両手が俺の肩を押した。

不意の力に抗う間もなく背中がシーツに沈む。

天井の薄暗い照明が、俺の視界いっぱいに広がった。

 

(また取られに行く気か)

 

彼女は俺の上に跨り、両手を俺の肩口について見下ろしてくる。

茶色の瞳が、獲物を押さえ込んだ捕食者の色をしている。

髪の毛が俺の額にかかり、くすぐったい。

太腿の内側の柔らかな肉が、俺の脇腹を挟み込んでいた。その体温が、服越しにじわじわと伝わってくる。

 

「品定めはまだ途中よ。じっとしててね」

 

「美鈴さん、ちょっと…」

 

抗おうと上げた俺の手が、彼女の手首に触れた。

先ほど壁の前で掴んだのと同じ手。同じ手首。同じ細さ。

だが今のそこには、さっきとは違う熱があった。

肌の表面だけでなく、骨の奥から伝わってくるような、深い熱。脈打つ血管の鼓動が、指先に直接響く。

 

俺は彼女の手首を引いた。

ぐい、と。

強くはない。ただ、自分の方へ導くだけの力。

 

彼女の手が、俺の胸を離れる。

肩口から浮き、空中を滑って、俺の唇の前に来る。

 

彼女の手のひら。

指先から掌の中心へと続く柔らかな窪み。

そこに俺は唇を落とした。

 

「――」

 

美鈴さんの息が止まった。

 

音が消えた。

部屋の空調音も、窓の外の蒸気の音も、何もかもが遠のいた。

ただ唇に触れる彼女の掌の温度だけが、鮮明に残った。

 

柔らかい。

熱い。

そして微かに震えている。

彼女の手のひらは、ヨルさんや日和さんの時とは違う。

性器でもなければ性感帯でもない。

ただの手だ。

日常的に物を掴み、子供の頭を撫で、グラスを傾ける手。

その手に唇を押し当てるという行為が、これほどまでに心臓を打つとは思わなかった。

 

俺は目を閉じたまま、唇を動かした。

掌の中心から、指の付け根へ。

薬指、中指、人差し指。

一本ずつ丁寧に。

 

(何をしてるんだ俺は)

(わからない。ただこの手を口に含みたかった)

 

彼女の指先が、俺の唇に触れるたびにピクリと反応する。

その小さな震えが、唇を通して顎へ、首筋へと伝わっていく。

 

「…何いきなり」

 

美鈴さんの声がした。

強がった声。

けれど音程が上がっている。

いつものハキハキとした調子が半音ほどずれた。

 

俺は答えず、彼女の小指に唇を移した。

一番小さな指。

そこを軽く吸い、舌先でなぞる。

 

「っ…」

 

美鈴さんの全身から力が抜けた。

俺の上に跨っていた太腿の力が緩み、体重がストンと俺の腹に落ちてくる。

肩をついていたもう片方の手が、シーツに滑り、支えを失う。

彼女の上半身がゆっくりと傾いていく。

 

「ちょっと…待って…何これ…」

 

声が掠れた。

余裕が消えた。

品定めをしていたはずの目が泳いでいる。

俺の顔と自分の手と天井と、何を見ていいか分からないといった風に。

 

俺は彼女の手を離した。

放り投げたのではない。

指先を滑らせるように、ゆっくりと。

彼女の手が行き場を失って、俺の胸元に落ちた。

 

「美鈴さん」

 

「な、に…」

 

「品定めはどっちがするんでしたっけ」

 

「…バカ」

 

彼女は俯き、前髪で表情を隠した。

だが耳が赤い。

首筋まで染まっている。

いつもの大胆不敵な御坂美鈴が、耳一本で赤くなっている。

 

彼女は長い沈黙の後、何かを決めたように息を吐いた。

そして俺の首に腕を回した。

強引に、というわけではない。

むしろ慎重に。

まるで壊れ物を抱き上げるように。

彼女の体が俺の胸に重なる。

 

「あんた正直に言って。これやったことあるでしょ」

 

「ありませんよ。初めてです」

 

「嘘つき。あんた絶対やってる。だって私…今、何されたか分かんなくなったんだから」

 

彼女は俺の胸に耳を押し当てた。

俺の心音が、彼女の鼓膜に届く距離。

ドクン、ドクン、と不整律なリズムが伝わっているはずだ。

 

「…変なの。手のひらにキスくらいで」

 

「くらいて」

 

「くらいくらいで…こんなに…」

 

言葉が途切れた。

代わりに、彼女の指が俺の胸板を軽く握った。

握って離して、また握る。

何かを掴みたいのに掴めない、そんな風に。

 

俺は彼女の背中に手を回した。

何も言わずに。

ただ、掌で体温を感じる。

肩甲骨の角度。

背中の筋肉の薄さ。

肋骨の一本一本が呼吸に合わせて動いている。

 

彼女の心臓も、俺の胸に押し付けられて伝わってきた。

早い。

俺より早い。

 

「久世くん」

 

「はい」

 

「あんたの心臓、うるさいわね」

 

「お互い様でしょ」

 

「…そうね」

 

彼女は小さく笑った。

いつもの笑い方とは違う。

声の奥が、震えていた。

 

窓の外で蒸気がシューッと鳴った。

遠い音だ。

この部屋の中には、互いの呼吸と心音しかない。

主導権がどこにあるのか、もう分からなくなっていた。

彼女が俺を押し倒し、俺が彼女の手を取り、彼女が俺に身を預けた。

行ったり来たりの果てに、二人の体がただ重なり合っている。

攻めでも守りでもない。

ただ、互いの温度を確かめ合っているだけ。

 

美鈴さんの耳が俺の心臓に触れている。

彼女は目を閉じて、そのリズムを聞いているのだろう。

ドクン。ドクン。

規則正しくはない。

けれど確かに打っている。

 

「…ねえ」

 

「ん?」

 

「もう少しこのままでいていい?」

 

俺は答えず、彼女の髪に指を差し入れた。

それが答えだった。

 

「…ねえ」

 

「ん?」

 

「もう少しこのままでいていい?」

 

俺は答えず彼女の髪に指を差し入れた。

それが答えだった。

柔らかな茶色の髪が指の間をすり抜けていく。

細い髪一本一本が俺の指に絡まって、解けて、また絡まる。

美鈴さんは小さく息を吐き、俺の胸に体重を預け直した。

 

ドクン。ドクン。

俺の心臓の鼓動が彼女の耳に届いている。

彼女の体温が俺の胸にじわりと染み込んでいる。

静かだった。

心地よかった。

けれど。

 

(このままで終われるわけがない)

 

俺の指が、彼女の髪から滑り落ちた。

意図したわけではない。

手が、自然に流れた。

首筋の曲線に沿って、ゆっくりと。

髪の末端から、うなじの窪みへ。

そこから背中の最初の窪みへ。

 

美鈴さんの背中が、微かに反った。

シーツの上で肩甲骨が動く音が、かすかに聞こえた。

 

「…ちょっと」

 

声が出た。

けれど体は退かない。

俺の胸に預けたまま、耳を心音に当てたまま。

ただ唇から空気が漏れただけの、そういう声だった。

 

「何するの」

 

問いかけだったが、拒否ではなかった。

俺の指がうなじの窪みで止まる。

そこだけ皮膚が薄くて、体温が直接伝わってくる。

熱い。

汗の湿り気が指先に触れる。

 

「…このままで終わったら嘘になります」

 

俺は正直に言った。

自分でも驚くほど素直な言葉だった。

「欲しい」とも「したい」とも言っていない。

けれど嘘ではなかった。

この静かな余韻のまま終わったら、俺はきっと夜中に目を覚まして後悔する。

彼女の体温を知ってしまった手は、もう戻れない。

 

美鈴さんが顔を上げた。

ゆっくりと。

俺の胸から耳が離れ、顎が動き、視線が上がる。

茶色の瞳が俺を捉えた。

 

そこにはいつものからかいもなかった。

「品定め」の余裕もなかった。

強がりも軽口も、全部脱ぎ捨てた後のような、剥き出しの目だった。

ただ問いかけている。

「本当なの」と。

 

「…あんた正直ね」

 

彼女は呟いた。

声が低い。

酒場で俺の背中を叩いた時の声とも、品定めを宣言した時の声とも違う。

どこか呆れたような、けれどどこか安らいだような、そんな声だった。

 

そして彼女は、俺の手を取った。

俺の指が彼女のうなじに触れていたその手を。

彼女の指が俺の手首を包み込み、ゆっくりと、自分の首筋へと導いた。

戻したのではない。

進めたのだ。

俺の手を、彼女自身の選択で、そこへ置いた。

 

「なら、正直にしなさい」

 

彼女は言った。

俺の目を見たまま。

 

「正直にしてくれたら、私も正直になるから」

 

俺の指が、彼女の首筋に戻る。

いや戻ったのではない、置かれたのだ。

彼女が選んで、俺の手をそこに置いた。

脈が触れる。

彼女の頸動脈が、俺の指腹の下でドクンドクンと打っている。

早い。

さっきまで俺の胸に耳を当てて聞いていたはずの俺の心音より、彼女の脈の方が速い。

 

俺の指がゆっくりと動く。

首筋から、肩の付け根へ。

鎖骨のラインをなぞるように。

彼女の肌は、首の下に行くにつれて少しだけ温度が変わった。

汗の湿り気が薄くなり、代わりに柔らかな肌の弾力が指に応える。

 

美鈴さんが、目を閉じた。

 

長い睫毛が震えている。

唇が微かに開いた。

何か言おうとして、止めたのか。

それともただ呼吸を漏らしただけか。

どちらにせよ、彼女は俺の手を受け入れた。

退かなかった。

俺の手を自分の首筋に戻したのも、その選択だった。

 

「…正直にね」

 

もう一度、彼女は小さく呟いた。

目を閉じたまま。

 

俺の指は彼女の肩の付け根で止まっていた。

これから下へ行くか、上へ戻るか。

どちらにせよ、もう「静かな余韻」では終わらない。

けれど急いではいなかった。

彼女が選んで俺の手を置いてくれたその場所を、俺はもう少しだけ確かめていたかった。

 

窓の外で蒸気がシューッと鳴った。

遠い音が、部屋の中の沈黙を縁取る。

俺の指先にある彼女の体温と、彼女の指にある俺の手首の脈。

二つの鼓動が、少しずつ重なり始めていた。

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