「さあ、続きを始めましょうか」
美鈴さんがふいに体を起こした。
俺の首に回っていた腕が解かれ、代わりに両手が俺の肩を押した。
不意の力に抗う間もなく背中がシーツに沈む。
天井の薄暗い照明が、俺の視界いっぱいに広がった。
(また取られに行く気か)
彼女は俺の上に跨り、両手を俺の肩口について見下ろしてくる。
茶色の瞳が、獲物を押さえ込んだ捕食者の色をしている。
髪の毛が俺の額にかかり、くすぐったい。
太腿の内側の柔らかな肉が、俺の脇腹を挟み込んでいた。その体温が、服越しにじわじわと伝わってくる。
「品定めはまだ途中よ。じっとしててね」
「美鈴さん、ちょっと…」
抗おうと上げた俺の手が、彼女の手首に触れた。
先ほど壁の前で掴んだのと同じ手。同じ手首。同じ細さ。
だが今のそこには、さっきとは違う熱があった。
肌の表面だけでなく、骨の奥から伝わってくるような、深い熱。脈打つ血管の鼓動が、指先に直接響く。
俺は彼女の手首を引いた。
ぐい、と。
強くはない。ただ、自分の方へ導くだけの力。
彼女の手が、俺の胸を離れる。
肩口から浮き、空中を滑って、俺の唇の前に来る。
彼女の手のひら。
指先から掌の中心へと続く柔らかな窪み。
そこに俺は唇を落とした。
「――」
美鈴さんの息が止まった。
音が消えた。
部屋の空調音も、窓の外の蒸気の音も、何もかもが遠のいた。
ただ唇に触れる彼女の掌の温度だけが、鮮明に残った。
柔らかい。
熱い。
そして微かに震えている。
彼女の手のひらは、ヨルさんや日和さんの時とは違う。
性器でもなければ性感帯でもない。
ただの手だ。
日常的に物を掴み、子供の頭を撫で、グラスを傾ける手。
その手に唇を押し当てるという行為が、これほどまでに心臓を打つとは思わなかった。
俺は目を閉じたまま、唇を動かした。
掌の中心から、指の付け根へ。
薬指、中指、人差し指。
一本ずつ丁寧に。
(何をしてるんだ俺は)
(わからない。ただこの手を口に含みたかった)
彼女の指先が、俺の唇に触れるたびにピクリと反応する。
その小さな震えが、唇を通して顎へ、首筋へと伝わっていく。
「…何いきなり」
美鈴さんの声がした。
強がった声。
けれど音程が上がっている。
いつものハキハキとした調子が半音ほどずれた。
俺は答えず、彼女の小指に唇を移した。
一番小さな指。
そこを軽く吸い、舌先でなぞる。
「っ…」
美鈴さんの全身から力が抜けた。
俺の上に跨っていた太腿の力が緩み、体重がストンと俺の腹に落ちてくる。
肩をついていたもう片方の手が、シーツに滑り、支えを失う。
彼女の上半身がゆっくりと傾いていく。
「ちょっと…待って…何これ…」
声が掠れた。
余裕が消えた。
品定めをしていたはずの目が泳いでいる。
俺の顔と自分の手と天井と、何を見ていいか分からないといった風に。
俺は彼女の手を離した。
放り投げたのではない。
指先を滑らせるように、ゆっくりと。
彼女の手が行き場を失って、俺の胸元に落ちた。
「美鈴さん」
「な、に…」
「品定めはどっちがするんでしたっけ」
「…バカ」
彼女は俯き、前髪で表情を隠した。
だが耳が赤い。
首筋まで染まっている。
いつもの大胆不敵な御坂美鈴が、耳一本で赤くなっている。
彼女は長い沈黙の後、何かを決めたように息を吐いた。
そして俺の首に腕を回した。
強引に、というわけではない。
むしろ慎重に。
まるで壊れ物を抱き上げるように。
彼女の体が俺の胸に重なる。
「あんた正直に言って。これやったことあるでしょ」
「ありませんよ。初めてです」
「嘘つき。あんた絶対やってる。だって私…今、何されたか分かんなくなったんだから」
彼女は俺の胸に耳を押し当てた。
俺の心音が、彼女の鼓膜に届く距離。
ドクン、ドクン、と不整律なリズムが伝わっているはずだ。
「…変なの。手のひらにキスくらいで」
「くらいて」
「くらいくらいで…こんなに…」
言葉が途切れた。
代わりに、彼女の指が俺の胸板を軽く握った。
握って離して、また握る。
何かを掴みたいのに掴めない、そんな風に。
俺は彼女の背中に手を回した。
何も言わずに。
ただ、掌で体温を感じる。
肩甲骨の角度。
背中の筋肉の薄さ。
肋骨の一本一本が呼吸に合わせて動いている。
彼女の心臓も、俺の胸に押し付けられて伝わってきた。
早い。
俺より早い。
「久世くん」
「はい」
「あんたの心臓、うるさいわね」
「お互い様でしょ」
「…そうね」
彼女は小さく笑った。
いつもの笑い方とは違う。
声の奥が、震えていた。
窓の外で蒸気がシューッと鳴った。
遠い音だ。
この部屋の中には、互いの呼吸と心音しかない。
主導権がどこにあるのか、もう分からなくなっていた。
彼女が俺を押し倒し、俺が彼女の手を取り、彼女が俺に身を預けた。
行ったり来たりの果てに、二人の体がただ重なり合っている。
攻めでも守りでもない。
ただ、互いの温度を確かめ合っているだけ。
美鈴さんの耳が俺の心臓に触れている。
彼女は目を閉じて、そのリズムを聞いているのだろう。
ドクン。ドクン。
規則正しくはない。
けれど確かに打っている。
「…ねえ」
「ん?」
「もう少しこのままでいていい?」
俺は答えず、彼女の髪に指を差し入れた。
それが答えだった。
「…ねえ」
「ん?」
「もう少しこのままでいていい?」
俺は答えず彼女の髪に指を差し入れた。
それが答えだった。
柔らかな茶色の髪が指の間をすり抜けていく。
細い髪一本一本が俺の指に絡まって、解けて、また絡まる。
美鈴さんは小さく息を吐き、俺の胸に体重を預け直した。
ドクン。ドクン。
俺の心臓の鼓動が彼女の耳に届いている。
彼女の体温が俺の胸にじわりと染み込んでいる。
静かだった。
心地よかった。
けれど。
(このままで終われるわけがない)
俺の指が、彼女の髪から滑り落ちた。
意図したわけではない。
手が、自然に流れた。
首筋の曲線に沿って、ゆっくりと。
髪の末端から、うなじの窪みへ。
そこから背中の最初の窪みへ。
美鈴さんの背中が、微かに反った。
シーツの上で肩甲骨が動く音が、かすかに聞こえた。
「…ちょっと」
声が出た。
けれど体は退かない。
俺の胸に預けたまま、耳を心音に当てたまま。
ただ唇から空気が漏れただけの、そういう声だった。
「何するの」
問いかけだったが、拒否ではなかった。
俺の指がうなじの窪みで止まる。
そこだけ皮膚が薄くて、体温が直接伝わってくる。
熱い。
汗の湿り気が指先に触れる。
「…このままで終わったら嘘になります」
俺は正直に言った。
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
「欲しい」とも「したい」とも言っていない。
けれど嘘ではなかった。
この静かな余韻のまま終わったら、俺はきっと夜中に目を覚まして後悔する。
彼女の体温を知ってしまった手は、もう戻れない。
美鈴さんが顔を上げた。
ゆっくりと。
俺の胸から耳が離れ、顎が動き、視線が上がる。
茶色の瞳が俺を捉えた。
そこにはいつものからかいもなかった。
「品定め」の余裕もなかった。
強がりも軽口も、全部脱ぎ捨てた後のような、剥き出しの目だった。
ただ問いかけている。
「本当なの」と。
「…あんた正直ね」
彼女は呟いた。
声が低い。
酒場で俺の背中を叩いた時の声とも、品定めを宣言した時の声とも違う。
どこか呆れたような、けれどどこか安らいだような、そんな声だった。
そして彼女は、俺の手を取った。
俺の指が彼女のうなじに触れていたその手を。
彼女の指が俺の手首を包み込み、ゆっくりと、自分の首筋へと導いた。
戻したのではない。
進めたのだ。
俺の手を、彼女自身の選択で、そこへ置いた。
「なら、正直にしなさい」
彼女は言った。
俺の目を見たまま。
「正直にしてくれたら、私も正直になるから」
俺の指が、彼女の首筋に戻る。
いや戻ったのではない、置かれたのだ。
彼女が選んで、俺の手をそこに置いた。
脈が触れる。
彼女の頸動脈が、俺の指腹の下でドクンドクンと打っている。
早い。
さっきまで俺の胸に耳を当てて聞いていたはずの俺の心音より、彼女の脈の方が速い。
俺の指がゆっくりと動く。
首筋から、肩の付け根へ。
鎖骨のラインをなぞるように。
彼女の肌は、首の下に行くにつれて少しだけ温度が変わった。
汗の湿り気が薄くなり、代わりに柔らかな肌の弾力が指に応える。
美鈴さんが、目を閉じた。
長い睫毛が震えている。
唇が微かに開いた。
何か言おうとして、止めたのか。
それともただ呼吸を漏らしただけか。
どちらにせよ、彼女は俺の手を受け入れた。
退かなかった。
俺の手を自分の首筋に戻したのも、その選択だった。
「…正直にね」
もう一度、彼女は小さく呟いた。
目を閉じたまま。
俺の指は彼女の肩の付け根で止まっていた。
これから下へ行くか、上へ戻るか。
どちらにせよ、もう「静かな余韻」では終わらない。
けれど急いではいなかった。
彼女が選んで俺の手を置いてくれたその場所を、俺はもう少しだけ確かめていたかった。
窓の外で蒸気がシューッと鳴った。
遠い音が、部屋の中の沈黙を縁取る。
俺の指先にある彼女の体温と、彼女の指にある俺の手首の脈。
二つの鼓動が、少しずつ重なり始めていた。