ルティドロンは強大な武力を持っていないが、国全体が豊かな土壌をしており、粘り強くて温厚な国民たちが実に多くの作物を育てる。農耕具の改良に必要だったからなのか、鉄加工技術も進んでいる。それらの作物や鉄製品を、グントバハロンは盛んに輸入している。二国は軍事的なつながりだけでなく、経済的なつながりも深いのだ。他国が両者の関係を揶揄する表現に、「ルティドロンはグントバハロンの台所」という言葉があるほどだ。
そのルティドロンから請われたのなら、グントバハロンが軍を派遣するのは当然のこと。きっと今回もルティドロンは、グントバハロンの武人たちの到着を歓迎し、そして感謝の意を表すためにあれもこれもと、あまたの農作物をお礼に持たせてくれるだろう。
宗家の姫として育ってきたイルヴァに、ルティドロンへ軍を派遣することの意義がわからないはずがない。だから、ろくな会話もできないまま出立してしまったランナルを責める気持ちはない。
しかし、二つ目の不機嫌さの原因にはどうしても納得がいかなかった。
「マーシー、いったいどういうことかしら!」
「イルヴァ様、お静かに。女主人らしい、落ち着きのある態度をお願いします」
婚前からイルヴァ付きだった侍女のマーシー・パトシャは、イルヴァより七歳年上の、中規模商家のお嬢さんだ。実家の事業は彼女の父と兄が担っており、「自分の食い扶持は自分で稼げ」と言われているため、十代の頃からイルヴァの侍女として宗家に仕えて働いている。そしてイルヴァが結婚するにあたり、マーシーはイルヴァと共に新居へ引っ越してきて、引き続き仕えてくれていた。
前々から、「自分が結婚できたら必ずお暇を頂きます」と宣言しており、わりとドライな態度のマーシーだったが、なんだかんだ言いつつもイルヴァが心配なのかかわいいのか、多少なりとも出会いはあるだろうに未婚だ。自分より若いイルヴァが先に結婚したことについて嫉妬することもなく、淡々とこれまでどおり、イルヴァを一番傍で支えている。
そんなマーシーはイルヴァにとって、血のつながらない姉のような存在であり、心から信頼できる侍女だ。
そのマーシーにイルヴァが尋ねるのは、今日でもう四度目のことだった。せっかちなイルヴァは早く答えを知りたいらしいが、その答えを持っている人物は西へ遠征してしまって不在だ。そんなことは百も承知だろうに、イルヴァは落ち着きを失っていた。
「昨夜は初夜だったのよ!? それなのに……それなのにランナル様ったら!」
「閨事がなかったのですね」
「そうよ! どういうことなの!? 初夜は一度しかないのに!」
マーシーが用意してくれたホットティーを飲みながら、イルヴァはリビングルームの窓の外に視線を向けた。
グントバハロン国では、すべての国民が何かしらの労働をしなければならない。それは必ずしも給金を得るような労働だけでなく、たとえば家事や育児、家や使用人を取りまとめる仕事、奉仕活動など、「誰かの生活の支えになること」全般を指す。グントバハロンという国名は、「働き者の国」という古語が由来で、成人した国民ならば老若男女問わず、働けない理由がない限りは死ぬまで働くのがこの国の常識なのだ。
イルヴァのように宗家、あるいは公家、武家の子女ならば、結婚後は家のこと一切合切を取り仕切るのが仕事と言えるが、ほかに何かしらの仕事をすることもある。
イルヴァはどうしたのかというと、ランナルとの結婚を機に、慰問楽団に入ることにした。
慰問楽団とは、治療院や老齢院を不定期に訪問して音楽を披露する団体のことだ。自宅に帰れず、治療院で長らく治療を続けている者。身内を失い、自身は年をとって一人きりでの自活が難しくなったために、国が運営する老齢院で余生を過ごす者。そうした国民たちに、ひと時の息抜きや娯楽として、慰問楽団が音楽を届けるのだ。
せっかちなイルヴァは、姉たちと違って地道な作業が続く針仕事は得意ではなかった。しかし意外と音楽の才能があり、特に竪琴が得意だった。そのため、慰問楽団の本部での練習や、依頼のあった場所での演奏を、この家を取り仕切ること以外の仕事にする予定である。
だが、慰問楽団の仕事はもう少し先に始まる予定だ。なにせ宗家から武家に嫁ぎ、生活環境が一変したばかりだ。夫であるランナルは子供の頃から恋心を抱いてきた相手なので、決して見ず知らずの相手ではない。しかし、結婚してようやくまともに話せるようになった相手ではあるので、「しばらくは新しい環境に慣れるために、時間が必要でしょう。夫君との仲も、ゆっくりと深めてください」と、慰問楽団からは気を遣われている。
そのためイルヴァは、楽団員としての仕事に精を出す前に、まずはこの家の間取りや物の位置、それから日々仕えてくれる使用人たちの顔と名前、経歴、彼らの実家などを憶えることに専念する予定だった。
「同じ回答を申し上げますが、本日の出立があったのでお控えになったのではありませんか」
イルヴァの休憩に付き合うマーシーは、イルヴァとローテーブルを挟んで向き合うようにして座ると、自分もホットティーをすすった。主と侍女ではあるが、昔からイルヴァは、「横に立っていられると落ち着かないわ」という理由で、自分が茶を嗜むときはマーシーも座らせるのが常だった。
「そうなのかしら。それなら理解はできるけれど……でも、でもっ! ランナル様と結婚できたのが本当に嬉しくて、だけどはしたなく騒いで嫌われないようにしなきゃと思って、昨日の結婚式はとーっても頑張って冷静に振る舞ったのよ!? その頑張りの翌日にこの仕打ち……残念すぎるわ!」
「心中お察しいたします。昨日の結婚式は、せっかち姫と呼ばれるイルヴァ様にしてはとてもしおらしく、宗家の姫にふさわしい振る舞いでご立派でした。まずはそんなご自身を褒めてあげてください」
マーシーは堂々巡りをするイルヴァの愚痴に真っ向から付き合うことなく、彼女の気が休まるような言葉を返した。
イルヴァとランナルの結婚が正式に決まったのは、一年も前のことだ。結婚式や新居の用意をしている間に、イルヴァは十七歳になった。もう子供とは呼べない年齢ではあるが、ランナルとの十三歳という年の差は、何をどうしても埋まるはずがない。せめて子供っぽいと思われないようにと、結婚式でのイルヴァは人生で一番の自制心を発揮した。
本当なら、礼装姿のランナルに目を輝かせてまじまじと視線を向けたかった。早く彼に名前を呼んでほしかったし、自分も彼の名前を呼びたかった。「これまでほとんど話すことはできませんでしたが、それでもあちこちからあなたのお話は聞いていました。剣舞会でも、いつもあなただけを見ていました。子供の頃からずっと好きだったんです」と、言ってしまいたかった。
しかし、とにかく落ち着いた宗家の淑女であらねば、と思った昨日のイルヴァは、借りてきた猫よろしく、たいそう静かにしていた。
そんな自分の態度はそっけなく、ランナルに抱きたいと思ってもらえるような愛らしさはなかった――ということなのだろうか。
「私……何かランナル様の気に障るようなことをしたり、言ったりしてしまったのかしら……」
「思い当たることでもあるのですか」
「いいえ……。だって昨日は、すべての予定が終わってここへ帰ってきて、湯浴みをしたあとは寝るだけだったもの。夫婦の営みがあると思ったのだけれど、ランナル様は『疲れたでしょう。今日はゆっくりお休みください』とだけ言って、自分もお休みになってしまったの」
「でも、床は共にしたのでしょう?」