(お話を……ランナル様となんでもいいからお話をしたいわ)
窓の外の太陽は天頂近くで輝いており、夕方過ぎになるというランナルの帰宅にはまだ遠い。
イルヴァは、彼を出迎えたあとの行動を脳内でシミュレートしながらも、とにかく彼と話をしたいと考えていた。というのも、結婚式当日も含めて、これまでに二人で落ち着いて話せたことが、まだほとんどない。結婚式の翌日も、出立するランナルをただ送り出しただけだったので、夫婦の営みはおろか、実はまともな会話もまだできていないのだ。
(でも……何を話せばいいのかしら)
十歳の頃からずっと恋い焦がれていた相手。せっかちな自分とは違ってじっくりと物事に取り組み、武人にしては理知的で落ち着いていて、しかし見事な剣技を見せるランナル。素敵だと思うところを挙げればきりがないが、その恋い焦がれた相手と夫婦になれたいま、彼とどんな言葉を交わせばよいのだろうか。
(それに今夜こそ……そうよ、今夜こそいよいよ……!)
結婚式の日の夜には行われなかった、夫婦の営み。それがついに、今夜行われるはずだ。初めての行為に向けて、しっかりと湯浴みをして体をきれいにしておかなければ。
そう思い立ったイルヴァはマーシーを呼びつけて湯浴みの用意をさせようとしたが、「イルヴァ様、さすがに湯浴みにはまだ早すぎます。せっかちもほどほどにして、落ち着いてくださいませ」とたしなめられてしまった。
気が急くイルヴァにはうんと長く感じられたが、太陽はいつもと同じ速度で西へ傾いていく。そして、一台の馬車が屋敷の前に止まった。陸軍本部からランナルを乗せてきた馬車だ。降りてきたランナルは寝不足気味なのか、目の下に隈を作っていたが、使用人たちに荷物を預けると、背筋を伸ばして屋敷の中に入った。
「おっ、おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま」
玄関ホールには、イルヴァをはじめ集まれる使用人たちが集まっていた。三週間ぶりに帰宅した主人を出迎えた使用人たちは、イルヴァとマーシーを残してすぐさま持ち場に戻っていく。
「あ、あのっ……ランナル様っ」
「はい」
イルヴァは自分よりも頭一つ分背の高いランナルを見上げて、何度も瞬きをした。そんなイルヴァをランナルはやや不審に思ったが、何か言いたげな新妻の言葉をじっと待った。
「あのっ……好きですっ!」
「え?」
「えっ、あっ……」
ランナルは口を半開きにして、間の抜けた顔になった。一方でイルヴァは、告げる予定など一切なかったはずの自身の言葉に動揺して、半歩後ろにいたマーシーに真っ赤になった困惑顔を向けた。
「ランナル様、イルヴァ様はランナル様のお帰りをたいそう待ち望んでおられました。湯浴みでもお食事でも、どちらも準備は整っておりますが、どちらになさいますか」
「あ……ああ、では……食事を先に。イルヴァ様は?」
「わっ、私ですかっ!?」
ランナルから問いかけられると思っていなかったイルヴァは、勢いよくランナルのほうへと顔を戻して目を見開き、しかし肩をぎゅっと縮こまらせた。
「イルヴァ様も夕餉はまだですよね。お二人とも、食堂へどうぞ」
挙動不審なイルヴァと違い、冷静なマーシーは淡々と二人をうながした。
そうして新婚夫婦は顔を見合わせながら夕食にしたのだが、その空気はとても和やかと言えるものではなかった。イルヴァはランナルの帰宅が嬉しい気持ちと会話をしたい気持ち、今夜こそ行われるであろう閨が気になる気持ち、さらにはランナルが目の前にいて興奮する気持ちなど、様々な思いが混ざり合ってどうにかなってしまいそうだった。
一方のランナルは任務明けの疲労と、実質的にまだ二日目である新居の慣れない空気と、さらにはまったく予想すらしていなかった先ほどのイルヴァの告白で、頭の中がたいそう混乱していた。イルヴァを気遣って何か声をかけたいと思ったのだが、疲れた頭では先ほどの彼女の告白をどう受け取ればよいのかわからず、結局何も言えない。
二人とも、まるで険悪であるかのように会話することなく、とても新婚夫婦の夕餉とは思えない殺伐とした空気が流れていった。
「ランナル様、お疲れでしょうが、イルヴァ様に先に湯浴みをしていただいてもよろしいでしょうか」
不自然なほどに静かでどこかピリッと張り詰めた夕餉の終わる頃、マーシーがランナルに尋ねた。ランナルはちらっとイルヴァのほうへ視線を向けたが、一瞬目が合っただけで、イルヴァは真横を向いてしまう。
「ああ、構わない」
「恐れ入ります。それではイルヴァ様、どうぞ浴室へ」
「え、ええ……ご馳走様でした。あの、マーシー、料理長のジャコブに、ステーキのトマトソースがとても美味しかったと伝えてくれる?」
「畏まりました」
イルヴァはランナルからそらした視線をそのままに、マーシーと話しながら食堂を退出する。
(参った……任務のほうがまだ気が楽だ)
そんな新妻の背中を見送ったランナルは、ほんの少しだけ残っている白ワインの入ったグラスをくるりと揺らし、ため息をついた。
国主のドナート・グントバハロンから「末姫を嫁にやる」と言われた約一年前のあの日から、ランナルは宗家の末姫について情報を仕入れるように――など、あえてしなかった。自ら動かなくとも、彼女についての噂話は、末姫との結婚を持ちかけられたと知った部下たちが散々教えてくれたのだ。
いわく、末姫というだけあって、宗家のほかの子女よりも甘えん坊だの、何事も急いでこなそうとするので、せっかち姫と呼ばれているなど。特別に知ろうとしなくても、イルヴァの人となりは大なり小なりランナルの耳に入った。
所詮は噂話なので、鵜呑みにするまいとは思っていた。しかし、自分と違って活発な性格なのだろうなと思っていた。
ところが、結婚式の日の彼女はランナルなりに想像していた人物像とはかけ離れていた。いい意味で落ち着いていたし、成人したばかりの末姫とはいえ、さすがは宗家の子女だけあって、あらゆる礼儀作法の所作は完璧だった。
だからこそ、ランナルは心の底から思ったのだ。父であるドナートの計らいとはいえ、年の離れたこんな特筆すべき魅力もない武人と結婚させられて気の毒だ。イルヴァに釣り合う夫はきっとほかにいるはずだ、と。
そんなふうに気の毒に思う若き妻に対して、どのように接するべきか。任務を終えてグントバハロンへ戻る道すがら、ランナルはずっと考えていた。しかし答えの出ない悩みを抱えたままいざ帰宅してみれば、ランナルはさらに頭を抱えることになった。約三週間ぶりに会った妻から「好きです」と、まさかの告白を受けたのだ。
これはいったい、どういうことだろうか。妻は――イルヴァは、この結婚を父に決められたのではないのだろうか。そこに彼女の意思や感情など一切なく、宗家に生まれた者の宿命としての、政略結婚のはずではないのか。
少なくとも、ランナル自身はそう思っていた。だからこそイルヴァを気の毒に思っていたのだ。
(それなのに好きとは……わからん)
妻を哀れに思っていた気持ちが一転する。なんの前振りもなく妻から好きだと告白されて、決して悪いことではないのにひどく混乱する。いかに部下の犠牲を出さずに任務を終えられるかを考えているほうが、まだ正解への道筋が明確だ。
マーシーではない別の侍女が「湯浴みの準備ができました」と呼びに来るまで、ランナルはずっと考え続けた。しかし自問自答で答えが出ることはなく、イルヴァとじっくり話さねばなるまいと、心を決めるのだった。
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