「ま、間違えた……間違えたのよ、マーシーっ」
「はいはい、そうですね」
両手で口元を覆い、青ざめた表情で脱衣所の床を見つめるイルヴァに、マーシーはテキパキとボディークリームを塗り、寝間着を着せていく。
食堂を退室して以降、イルヴァはずっと呪文のように「間違えた、間違えた」と言い続けているが、マーシーとしてはたいした問題ではないように思えた。
「いきなり好きだなんて……言うつもりはなかったのよ!」
「はあ、そうですか」
「おかえりなさいませって言って、お勤めお疲れ様でしたって言って……それから普通のお話をして……それで、いい雰囲気になったら好きって……」
「別に、最初に告げても構わないと思いますけどねえ」
「よくないわ! ランナル様のあの驚いた顔を見たでしょう!? ああ、もう、どうして私ってば、こんなにおっちょこちょいなのかしら!」
「おっちょこちょいというか、せっかちですよね」
「ちょっとマーシー! もう少ししっかりと慰めてちょうだいよ!」
「慰めなど不要でしょう。イルヴァ様は失敗をされたわけではありません。大丈夫です。新妻から好きだと言われて嫌な気持ちになる夫など、どこにもおりません」
「それは……でも……」
取り乱しているなりに元気ではあったイルヴァの声が、急にしょぼんと小さくなる。
「この結婚は、私がお父様にお願いしたもの……ランナル様はお嫌だったかもしれないわ……」
子供の頃からずっと恋い焦がれていた相手。その相手との結婚を国主である父に望めば、よほどのことがない限り実現するだろう。それはわかっていた。当人であるランナル自身の意思や感情を考慮しないやり方であることも、イルヴァはきちんと理解していた。それでも彼と結婚したかった。好きだから、好きになってほしかった。
「だからちゃんと時間をかけて、私を好きになってもらいたかったのに……」
宗家に生まれた以上、婚前に互いを知り合い、お付き合いを重ねたうえで婚姻する恋愛結婚は難しい。結婚式当日まで相手とは会話すらせず、個人の結び付きよりも互いの家の結び付きが重視される政略結婚が、宗家に生まれた者のさだめだ。
それでも、先に政略結婚をした姉たちは、それなりに互いを想い合える夫婦になっていると聞いていた。だからイルヴァも、最初こそランナルの気持ちはこちらに向いておらずとも、時間をかけて想い合えるようになれたらいいなと思っていた。
「間違えた……失敗したわ」
「イルヴァ様、大丈夫です。大丈夫なんですよ。失敗ではありません」
イルヴァの身なりの世話が終わったマーシーは、それまでのどこかおざなりな調子から一変し、真面目な眼差しでイルヴァを見つめた。そして、彼女の両肩に両手を置き、ゆっくりと言い聞かせる。
「ランナル様との生活は、まだ始まったばかりです。今日が実質的に二日目ですよ。ランナル様とはこれからゆっくりと、たくさん、お話をなさればよいのです。せっかちに事を進めるのではなく、ランナル様のペースも大事にしながら」
「ランナル様のペースも……?」
「そうです。ランナル様はイルヴァ様とは真逆で、じっくりと腰を据えて物事に取り組むお方とお聞きしております。ランナル様を見習って、イルヴァ様も落ち着いてお話されれば大丈夫でしょう」
マーシーはイルヴァの背をそっと押すと、寝室へと向かわせた。
「結婚式の日は本当にご立派でしたよ。せっかち姫のイルヴァ様でも、やればできます。焦らず、急がず、じっくりとランナル様と向き合うのです」
「マーシー……ありがとう」
寝室のドアを開けたイルヴァは、音量を控えた声で礼を述べた。それから室内に片足を入れたが、すぐにひょこっと顔を出して、マーシーに釘を刺す。
「でも、ランナル様のことは〝旦那様〟と呼んでちょうだい。妬いてしまうわ」
「失礼いたしました。以後、気を付けます」
人口の多いグントバハロンでは、苗字で呼ぶと個人の識別がしづらいため、性別や年齢を問わず、誰もが基本的に親しく名前で呼び合う。その習慣があったうえに、イルヴァがランナルに恋をしてからマーシーもずっと「ランナル様」と呼んでいたので、つい今も名前で呼んでしまう。だが、ランナルはマーシーにとっても主になったのだから、たしかに侍女の立場では「旦那様」と呼ぶべきだろう。
マーシーが頭を下げて謝ると、イルヴァは「おやすみなさい」とマーシーに声をかけた。そして、ランナルが寝室に来るのを今か今かとそわそわしながら待ち続けた。
◆◇◆◇◆
(さて……)
それから、しばらくの時間が経った。
湯浴みを終えてあとは寝るだけになったランナルは、寝室のドアノブに手をかけたまま、しばし廊下に立ち続けていた。そのドアの向こうにはイルヴァが待っているはずだが、果たしてどう振る舞えばよいのだろうか。
(結婚式の日の夜はさすがに抱けなかったが……)
この世界を創ったという神、ウォンクゼアーザに夫婦になることを誓い、書類による契約手続きもして、男女は夫婦になる。しかし多くの公家や武家では、夫婦の夜の営みを行って子供ができてこそ、真に夫婦になったとみなす。結婚式という儀式や、共に暮らすという物理的な環境変化も大事だが、子作りこそが夫婦になったことの証なのだ。
とはいえランナルは、結婚式の夜すぐに、十三も年下の生娘を抱く気持ちにはなれなかった。次の日から任務で遠征するという事情もあったが、ただただ早急に抱いては、互いの感情を無視した政略結婚であると、自ら認めることになってしまう。それではどこか寂しいと、ランナルはそう思った。裏を返せば、国主によって決められた結婚とはいえ、自分なりにイルヴァとは、仲睦まじい夫婦になりたいと思ったのだ。
(さすがに……今夜は抱くべきだろうな)
しかし、年齢の差はあれども結婚したのだ。名実ともに夫婦になるためには、やはり契りを交わさねばなるまい。宗家の姫なので性教育を受けていて知識はあるだろうが、処女であるからうんと気遣って抱いてやらねば。
(だがその前に……)
部下のネロから「国主に今回の結婚の考えを訊いてはどうか」と尋ねられた際、ランナルは「必要ない」と一蹴した。しかし、それは誤りだった。国主の思惑と、何より妻となったイルヴァの気持ちはしっかりと聞いて理解しておかねばならない。この結婚は、宗家と武家のつながりを強めるための単なる政略結婚ではないのかと。もしかして、最初からイルヴァも望んでくれた結婚なのかと。
じっくりと考えて心の中を整理したランナルは、ようやくドアノブを回して寝室に足を踏み入れた。
「っ……」
やや薄暗い室内で、誰かが息を呑んだ音がする。ほかに人がいるはずもないので、間違いなく妻のイルヴァだろう。先に寝てしまったかもしれないという可能性を少し考えていたが、夫が床に就くのをしおらしく待ってくれていたようだ。
「イルヴァ様、お体、冷えてはいませんか」
「え……ええ、大丈夫です」
ランナルは浴室から羽織ってきたガウンを脱ぐと、室内の椅子の背もたれにそれを掛けて、まっすぐに寝台に向かった。寝台に腰掛けていたイルヴァが、恐る恐るこちらを見上げてくる。ふわっとした薄茶色の髪にくりっとした大きな瞳は、まだあどけなさを感じさせた。
ランナルはそんな新妻イルヴァの隣に拳一つ分の隙間を空けて、彼女と同じように寝台に腰掛けた。
「自分は、ランナル・ハリーンと申します」
「えっ?」
「きちんと、自ら名乗っていなかったなと思いまして」
「あっ、ああ、そういう……えっと、わ、私はイルヴァ・グントバハロンですわ。あっ、でもランナル様と結婚しましたから、イルヴァ・ハリーンですわね」
とんちんかんなことを言い出したと思われたようだが、イルヴァはすぐにくすりとほほ笑んで、ランナルと同じように名乗った。やや早口なところは彼女のせっかちな性格が出ているようで、ランナルはそんなところが愛らしいなと思った。
「イルヴァ様、単刀直入に訊いてしまうのですが、この結婚はイルヴァ様の感情を無視した政略結婚……ではないのでしょうか」