※この作品はR-18です。

正義とは、「他人の眺める悪」である。   作:氷菓くん

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01 ゲロ

 俺は永平真希にゲロを飲ませたことがある。

 永平真希、現在17歳、高校2年生のサキュバス。小学校4年生の時に父親からレイプされ、5年生になる前に売春まで強制された過去を持ち、レイプと強制売春に塗れた生活は今もなお続いている。

 レイプは心の殺人だというけれど、サキュバスの心がレイプその物によって傷つけられることはないらしい。ユリがそう言っていた。世間と相手とスケジュールが許せば白昼堂々とセックスできる彼女らの感性は、そのまま性暴力への絶対的な耐性として機能するらしい。……ただし、性暴力に付随する「性以外の暴力」については、その機能の埒外なのだとも聞いた。

 たとえば、レイプという手段は問題にならなくても、友達だと思っていた相手に裏切られればサキュバスだって普通に傷つくらしい。ジョッキに溜められた精液を平気な顔して飲むくせに、替えのない制服を汚されると泣いてしまうことと同じように。

 真希は、性的虐待を受けることでずっと何かに傷ついていた。その何かとは何なのだろう。父親に裏切られたこと? 誰も自分に同情してくれなかったこと? それを誰にも相談できなかったこと? ……逆の言い方をすれば、彼女はどのような性的虐待なら無傷で受け入れられたのだろうか……?

「ここなら誰にもバレませんよ」

 何度目だったか、彼女の部屋に立ち入った時。今まで何度も危うい方向に傾きかけた雑談や身の上話がついに一線をこえて、俺は夕暮れの影差すその部屋で、這うようにすり寄ってくる真希から誘惑された。

 そもそもの話をすれば俺にはずっと、真希にはもう会わないようにするという選択肢があった。けれどそれを選ぶ勇気はなかった。売春の客としてでもいいからまた来てほしい……そう言ってくれた相手を、しかも結構仲良くなった相手を、突き放して生きる引き際の良さという物が俺にはなかった。

 しかしそれで俺は本当に、真希と純粋な友人関係を築き上げられると思っていたのだろうか? いつか一線を超える日が来るとは想像できなかったのか、あるいは、それを断固として断る覚悟をきちんと決めていたのか? 誘惑を受けた時、俺の心はふわふわと地に足のつかない宙ぶらりんの有様になっていて、受け答えを善意ぶるには我ながら白々しくなる。

 どんな虐待なら真希は傷つかないのか……という疑問はつまり、俺はどこまでなら彼女を、人間の基準で言って蔑ろにしていいのかという問いだった。

「正直に答えてほしいんだけど。真希ちゃんは、エッチ有りで仲良くするのと無しで仲良くするの、どっちが嬉しい?」

「エッチ有りの方がいいです」

「それはどうして?」

「……えー、サキュバスの本能?」

「……なるほど」

 恋愛感情ではないことに安心する自分がいた。

 その後も俺は根掘り葉掘り……嘘のつけない質問を彼女に繰り返した。ここは俺の天国だから、「正直に答えてほしい」と言葉にして要求すれば、誰もそれに逆らえない。その上で問う。

 エッチがしたいのは、それは完全に真希本人の欲求なのか、それとも俺に気を遣ってくれているのか。仮にエッチするとして、俺が無難な性癖をしているとでも思っているのか。また一線を超えることで、今後の俺たちの関係がどうなるのかをちゃんと考えているのか。

 真希は全てに躊躇なく答える。どの答えにも概ね「あなたが心配しているようなことはない」というニュアンスが乗っていた。そして何度目かの回答の後、堪えきれないといった風に真希が笑い出す。

「お兄さん、大丈夫ですよ。わたし結構、お兄さんの本性に気づいてますよ」

「本性って?」

「そうですねぇ。たとえばわたしが小学生の頃から虐待されてるって知った時、ちょっと興奮してましたよね?」

「……なんでそう思ったの?」

「サキュバスですから」

「サキュバスですから……?」

 そんな女の勘みたいなあやふやな物に見抜かれるほど、俺の本性は透けて見える物だったのか? さすがにそんなはずはない……と思いたかった。「本当は大して可哀想とも思ってないでしょ」と言われるなら分かるけれど、興奮とまで見抜かれたことは正直信じ難い。カマをかけられたのではと思った。

 懐疑的な気持ちのまま真希のことを見つめると、それを受けた彼女の方も怪訝そうな顔をした。

「……あれ、もしかしてお兄さん、サキュバスのことあんまり知りませんか」

「というと?」

「サキュバスって、近くにいる人の性欲を察知できるんですよ。だからお兄さんが興奮してる時は分かるんです」

「えっ」

「あ、本当に知らなかったんだ……」

「いや、ちょっと待て待て。じゃあ真希ちゃんは今までそれを察知しながら、どんな気持ちで俺と……」

「どんなって。普通に建前のコミュニケーションかなって」

「えぇ……」

 それを平然とやってのけるのがサキュバスという生き物なのか……?

 困惑する俺に手を合わせて、申し訳なさそうにギュッと目を閉じた真希が謝る。

「ごめんなさいっ、そんなに気にしてると思ってなくて……! ……今からでも気づいてなかったフリしますか?」

「いや、正直俺はなんでもいいんだけど……。問題は真希ちゃんの方だから」

「わたしは全然いいですよ? お兄さんがロリコンでも」

「そういう問題でもなくない……?」

「え、じゃあどういう問題……?」

 小首を傾げられる。どうやら今の真希には本気で分からないらしかった。懐いた相手が、自分を虐げてきた者たちと同類であることにショックを受けるという感覚が。

 ユリの言っていた通りではある。サキュバスは性暴力その物には傷つかない。その暴力の内容が何であれ、そこに例外はないのかもしれない。

 しかし、それではなおさら、真希の受けた傷が謎めいていく。彼女の真面目な性格を尊重しない他人の暴挙が彼女を傷つけることは知っている。けれどそれでは、初めて会ったあの時、真希が死んだ目をして服を脱ごうとしていたことの説明がつかない。ただレイプされるだけだと思っていたなら、「ただのレイプでは傷つかないサキュバス」である彼女は、もっと生気のこもった顔をしていてもよかったはずじゃないか。

 今ここで幸いなのは、「俺は真希を拒絶しているわけではない」と自明に伝わること。俺の質問に彼女を拒絶する意図はない。しつこくても、一線を超えない方向に誘導しているように聞こえても、決してそこに拒絶の意図はない。そのかわり、善意も、道徳も、大人としての責任も、同じように何一つとしてそこにはない。俺はただ、真希をこの手で傷つけることを恐れているだけだから。一人で考えて一人で怯えて、一人で納得したがっているだけだから。

 質問はすべて偽善なのだと、性欲を察知するサキュバスには伝わってしまうから、それが逆に良かった。そのおかげで俺は、気兼ねなく真希に問うことが出来た。

 俺は疑問に思っていることをそのまま本人に聞いた。初めて会った時、真希の心は明らかに俺を拒絶していたこと。けれどその理由はレイプその物にはないらしいと察せること。……じゃあ真希ちゃんは、いったい何に傷ついているんだ。俺は何をすると君を傷つけることになって、何をしなければ平気で済むんだ。それが全然分からないのに、まぁいっかで抱けるわけがないだろう。

 ……洗いざらいを打ち明けられてもさほど動じることはなく、うーん……と宙を眺めながら、真希はしばらく適切な言葉を探るべく思考に耽った。そしてさほど重要なことでもなさそうに、軽く答える。

「わたしが嫌なのは、尊重してもらえないことです。お前の意思なんか関係ないって態度で何かを強制されると、すごく傷つきます」

「……エッチしたら俺もそうなるかもよ」

「なりませんよ。だって、「そうなるかもよ」って先に警告して、わたしにどうするか選ばせてくれてる時点で、がっつり尊重してもらってますから」

「……それはそれこそ建前の話でしょうに」

「その建前が一番大事なんです。……わたしは、お願いだから抱かせてほしいって頼まれ方だったら、お父さんとするのだって嫌じゃなかったんですよ」

「…………小学生なのに?」

「小学生の頃からそういう性格なんです」

 まるで欠点を語っているかのように、彼女はバツが悪そうにはにかんだ。

 ユリいわく、人間より遥かに強い力を持つサキュバスでも、幼い頃は人間に似て力が弱いらしい。サキュバスの強さの源は魔力にあり、その魔力の扱いが子どもの頃はおぼつかないことが理由らしい。だから小学生の真希はきっと、大人の男に力づくで押し倒されては抵抗できなかったのだろう。そしてその頃に植え付けられたトラウマが、身体的には強くなった彼女を今も弱者の立場に縛り続けている。

 俺は真希の母親を見たことがない。単純に姿を……という意味でも、話題にすら聞いたことがないという意味でも。おそらく、少なくとももうその母親がこの家に帰って来ることはないのだろう。父親が娘に手を出した理由も大方それ絡みだと察せられる。何せサキュバスは望まなければ妊娠せず、サキュバスからしかサキュバスは生まれない。真希の母親もかつては夫との愛のもとに、娘を生むことを選んだはずなのだ。真希の父親は、その妻を愛していたはずなのだ。

 傷心の父親が、娘にその胸中を正直に打ち明けていたなら。……あぁそんな仮定は無理筋だと人間の感覚で俺は思うけれど、しかしもしもそれが実現していたら。性的虐待の存在はそのまま残っていたとしても、真希は今頃、もっと幸せな人生を送っていたのかもしれない。

 そこまで想像して、その時俺は本当に心の底から、真希には優しくしようと自分自身に誓った。建前だけでも心の存在を尊重する素振りがあれば父親に犯されても構わない……なんて言ってのける相手を丁重に扱うことくらい、それくらいなら俺にも出来ると思ったのだ。

 ……だけど誓いが保たれたのはその一夜だけだった。一線を超えた真希と二回目の夜を共にした時、性根の腐ったサディストである自分自身への誓いなど茶番であるのだということが、早々に露呈した。

 真希はサキュバスのことをいろいろと教えてくれた。

「ひどいことされると、反射で涙が出たり変な声が出たりしますけど。それはただの反射なので、ちゃんと魔力を使えば、実際に痛かったり苦しかったりすることはないんですよ?」

 彼女がそう教えてくれたことで、ユリがあの日俺から拷問を受けても平気な顔でいたことのカラクリが分かった。あれは天国の案内人としての特別な力などではなく、ある程度成熟した年齢のサキュバスなら誰にでも出来ることだったのだ。

 だけどそれなら、小夏のあの迫真の悲鳴はなんだったのだろう……。具体的に何を見たのかは伏せつつ、それとなく真希に尋ねてみる。

「あー、リアクションしやすくするために、わざとちょっとだけ痛いのを残したりする人もいるらしいですよね。調整が難しいから、わたしは出来ないんですけど」

「なるほど……?」

「まぁどのみち、サキュバス側が自分の意思でやることですから。お兄さんは心配しなくて大丈夫ですよ」

「……そっか」

 苦痛に悶える様は体の反射で、その内側に本当の苦痛が存在してもしなくても、全ては被害者本人の意思によるもの。だから加害者は何も心配しなくていい。……真希がその話を俺に聞かせたのは、明らかに「誘い」だった。

 真希はすでに俺のサディズムを察知していたのだろう。だからそれを引き出そうとする。それはサキュバスの本能としてなのか、それとも別の動機なのか。俺には分からないけれど、それもまた「どのみち同じ」な話であるように思える。

 誘いを無下にすることは忍びない。かといってまさか、すぐにアクセルをベタ踏みするというわけにもいかない。だから俺はとりあえず、行為の最中に真希の首を軽く絞めてみた。殺意の欠片もない、不死身でなくとも安全な、じゃれあうようなその暴力で真希が納得してくれれば、それが一番いいと思った。

 けれどサキュバスの目はそんなことで誤魔化せる物ではないのだ……と、俺は思い知らされる。そういえばいつかのユリだって、手加減されると魔力の質が落ちるというような話をしていたなと思い出す。

 お兄さん手加減してるでしょ。ひと段落してからそう言い当てた真希は、ベッドに隣合って腰かけたまま、続けて俺に尋ねた。

「他の人とする時はどんな風にしてるんですか?」

「えっ」

 それは尋問には程遠く、本当にただ尋ねられているだけだと思えるほどに、真希のまとう空気は弛緩していた。

 サキュバスとは、セックスを他人と比べられることにも耐性を持つものなのだろうか。というか、仮にそうだったとして、真希はよく「俺が他の相手にはもっとひどいことをしている」と見抜けたものだ。その目星が少なからずついていなければ今の質問は出てこないはずだから。

 サディズムをセーブしていることがバレて、そのセーブが常に死守できている物ではないことまで見抜かれて。俺は、自分を取り繕うことへのモチベーションの大部分を失ってしまった。証言の決定的矛盾を指摘された真犯人が、一周まわって肩の力を抜くみたいに。これ以上シラを切ることに意味を感じられなくなった。

 生首の絵的なインパクトがそうさせたのか、俺の脳裏に真っ先に浮かんだ答えは、ユリとした時の光景だった。

「……イラマで吐かせたりとか」

「わぁ。そういうの好きなんですね」

「まぁ、好きかどうかで言えば、好きだね」

「含みがありますね」

「相手の嫌がることはしたくないから」

「わたし嫌がりませんよ」

「本当かなぁ」

 少なくともあの時のユリは、自分がどういう扱いを受けるか分かった上で俺を誘ったはず。彼女は天国の案内人として読心能力を持っている。ユリは俺の趣味を見抜いた上で誘ってきていたはず。だから信用できた。

 一方で真希は、俺の腐りきった性根と性癖の全貌をまだ知らない。そこに無限の不安が残る。ゲロイラマくらいどんと来いと言った彼女が、数分後には「こんなことになるとは思わなかった」と泣いている可能性が否定しきれない。

 信用されていない雰囲気を感じ取って、真希本人は不服そうにしていた。まるでそれが、子ども扱いに腹を立てる年相応の振る舞いであるかのように。

「言っときますけどわたし、大抵のひどいことはされ慣れてますから。そこらの大人より耐性あると思いますよ」

「そこが心配なんだよ」

「なんでですか」

「慣れとトラウマは紙一重だから」

 俺がいつか、真希の中で「他のクズたちと根は同じ男」になってしまった時、そうなるに至ったことを彼女自身に後悔してほしくない。俺が真希には優しくしたいと思うことは単なる同情ではなく、実利的な心配も兼ねている。この子はこれ以上傷つけると壊れてしまうと。

 けれどどうしてだろう。俺は彼女の身や心を案じているはずなのに、肝心の目の前の彼女が、今、まさに今、俺が将来に渡って避けようとしていたはずの悲しそうな顔を、この場で見せつけてくる。

「じゃあお兄さんは、私が虐待されずに育った子だったら、遠慮せずに全部ぶつけてくれたんですか……?」

「……それは、場合にもよるだろうけど」

「お兄さん自覚なさそうなので言いますけど、それはちょっとひどいですよ」

「ひどい?」

「トラウマは慣れに変えないと、一生トラウマのままじゃないですか。お兄さんはわたしに、経験を強みに変えるよりも、ずっと過去に怯え続ける人生であってほしいんですか」

「そんなことは言ってない」

 言ってない……つもりではある。

 ただ、そもそも「トラウマを強みに変える」なんて理屈は、机上の空論にしかならないのではと疑ってもいる。本人は克服して強みに変えたつもりでも、無自覚のうちに精神的自傷行為に手を染めているなんて話はよくある物だ。

 けれど元来、サディズムとはその自傷行為につけこむ物である。サキュバスなんていなかった現世において、マゾヒズムとはほぼ必ず、不幸の中に咲く病だった。倒錯行為について得られる同意とは、病人の心の弱みにつけこむことでしかなかった。それを控えることはサディズムを封印することに等しい……が、偽善者である俺にそれを志す覚悟はない。

 しかしだからこそ俺は、せっかくサキュバスがいるこの世界の中で、病みの表れではなく単なる付き合いとしてサディズムを受け入れてくれる相手を見つけたいと思っている。だから真希は選外だと思っていた。……しかしいざ「本当にわたしを選外にする気か」と問い詰められると、俺自身の過去から呪いのような何かが急速に追ってくる。

 今さらどの口が言う、私にしたことを忘れたのか。

 童貞ではない俺に、現世から怨嗟の声が届く。いや、正確にはそれは届くのではなく、俺の自意識が勝手に作りだして持ち込んだ物なのだけど。

 日が沈んで暗闇に落ちた部屋の中でも、真希が俺のことを真っ直ぐ見つめていることが分かる。その目が、自意識の呪いまで見透かしているような気がした。

「……そんなことは言ってないけど。でも真希ちゃん、俺は、ロリコンじゃないから」

「え?」

「俺は、可哀想な子を見ると興奮するんだよ。イラマで吐かされてる子は可哀想でしょ? ……同じ可哀想なことなら、大人がされるより子どもがされた方が余計に可哀想だから。だから興奮する。それだけ」

「……え、じゃあわたし適任じゃないですか」

「そうかな」

 あの日、ジャージ姿の真希が電車に乗ってきた時の光景が脳裏をよぎる。当時その場では、彼女が通ってきたあまりに惨い背景を察して純粋にショックを受けたけれど……。そのショックは長くは続かなかった。

 頭の中にフォルダがあるなら、あの一場面を切り取った写真は、オナホ扱いされたユリの写真と今は同じフォルダに入っている。

「俺は、制服を汚されて泣いてた真希ちゃんを思い出しても興奮するよ。……それを聞いてまだ俺の本性を知りたいって思う?」

「えっ……」

 やはりその暴露は、彼女の想像を超えたようだった。何をされても平気だと豪語する人ほどそんな風にショックを受けることになりがちなのは、人間もサキュバスも同じなのかもしれない。

 真希は「自分の意思を尊重してもらえないと傷つく」と言っていた。だから性行為自体は平気なのだと。しかしこの世の悪意というものは、意思を踏みにじることとセックスの二つしかないわけではない。悪意の形は無限大にある。真希はまだ子どもだからそれが分からず、だから優しく接しなければならない。そうでなければ壊れてしまう。

 絶句した真希に「ごめんね」と声をかけると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。

「いや、いいんです。でも、それだと困っちゃいましたね」

「なにが?」

「だってわたし、お兄さんのおかけでもう服には困りませんから。泣けませんよ」

「……いいことだよそれは」

 与えた魔法を剥奪することだって出来るけどね……とは、さすがに怖くて言えなかった。もちろん実際に剥奪する気もさらさらない。

 真希が泣く理由は一つ減って、それに伴い、彼女が歪な性癖の慰み物にされる危険も一つ減った。それはいいことなのだと、俺は自分自身に言い聞かせる。少なくとも心の半分では、本当にその通りだと思っているのだ。

 ベッドの上で、おそるおそるといった速度の小さな手が伸びてきて、真希が暗闇の中で俺の手を握る。触れることも嫌になるほど軽蔑されたわけではなかったならよかった……と、自分のことばかりが頭によぎる。

「お兄さん、つらかったですね」

「……え?」

「あの日から何度も、遊びに来てくれてるじゃないですか。その間ずっと、今の話を隠してくれてたんですね」

「……隠してたというか、わざわざする話じゃなかったから」

「ううん。お兄さんは隠してたんだと思います。わたしが小学生の頃の話をした時に、興奮を隠して真剣に聞いてくれたのと同じで」

「……それについては本当に申し訳ない」

「いいんですよ。言ったでしょ、意思を尊重してもらえたら、あとは大丈夫って」

 そう言って微笑む彼女の声音には、気のせいでなければ母性のような物が宿っていたように思う。十代の子どもにも立派なそれが備わっているものなのか……なんて、いい歳した大人が思うはずもなく。俺はそれが、恋に恋することと同じような、ロールプレイの一種だということを察する。

 真希は多感な時期相応に背伸びして、母性をロールプレイしている。俺はそれを真に受けてはいけない。彼女の好意は受け止めつつ、それが「よりかかる側の行い」であることを認識しなければいけない。

 ……頭では確かにそう思っているのだけど。

「ねぇお兄さん。……つらかったこと全部、本当に全部、オナニーのネタにされて。泣いても、頼っても、そういう目でしか見てもらえなくて。わたし、とっても可哀想ですね?」

 だからわたしは特別に魅力的ですよね?

 ……と、真希は好意と包容力に満ちた声で、明らかにそう言っていた。

 こんな時に、俺の脳裏にはしょうもない小話がよぎる。世間いわく、うざい男の特徴の一つに「不調に不調で返してくる」というものがあるらしい。体調が悪いと言われれば「俺もそうだ」と返し、生活がつらいと言われれば「俺もそうだ」と返し、相手のことを全く労らずに自分のことばかり主張する。世の中にはそういう男が多すぎると、いつかどこかで誰かの小言を聞いた。

 ……実際、俺は真希に、彼女の不幸をオカズにしていることを隠していた。結果として隠していただけではなく、気持ちの向きとしても「隠そう」と思っていた。一方で俺に懐いた真希は、次々に自身の不幸を開示してきた。初めての虐待、初めてのセックス、初めての売春。こちらの性欲を察知しておきながら、彼女は俺に洗いざらい様々を話した。

 彼女が可哀想であればあるほど、俺の隠し事は増えていく。そして隠し事をすることは、まさに指摘された通り、そう、つらいのだ。

 真希がつらいように、俺もつらかった。

 でも、真希のつらさが百なら、俺のそれは一ですらなく、多く見積っても百分の一だ。だから口に出せるはずがない。「隠しているのつらかったね」と言われて、「うん」と言えるはずがない。

 けれど真希は暗に、「そこは「うん」でいいんだよ」と言ってくれている気がした。彼女は自身の可哀想を女の武器にすることで、俺のつらさを過大評価するのではなく、自身のつらさを過小評価したのだ。これは取り扱い注意の腫れ物ではないと自ら見せることで、単なる受容よりも広く俺のことを肯定したのだ。

 ダメだ、そっちへ行くなと、頭の中で声がする。音の無い声が……ユリ風に言うなら、借り物の道徳の声がする。

「……そうだね、真希ちゃんは可哀想だよ」

「お兄さん好みですね」

「どうかな……。俺に関わる女の子はみんな、みんな可哀想だよ。誰も報われないから」

「報われたくてエッチするわけじゃないですよ」

「そんなわけない」

「どうして?」

「みんな報われたいって思ってる。人間なら、愛されたいとか認められたいとか。サキュバスでもそうだろうし、そうでなくても、魔力が欲しいんでしょ? でも、ひどいことされたから良い魔力が得られるってわけじゃない。まともな男とまともなエッチをしたってきっと……」

「じゃあお兄さんは、報われたくてエッチするんですか?」

「え……?」

「他の人ともしたことあるんですよね? その時、報われたいって思ってしたんですか?」

「……俺はただの性欲で」

「わたしも同じです」

 他の人がどうかは知りませんけどね。……そう言って、真希はもう一度俺の手を握った。

 結局最後まで、俺に自らの意思で彼女を蹂躙する勇気は備わらなかった。ただ、ある種サキュバスらしくこちらを押し倒そうとする彼女に、抵抗しないという選択をすることだけが俺にできる意思決定のせいぜいだった。

 消極的賛成があるなら、消極的加害もあるだろう。俺はされるがまま言われるがままに、当たり前のように彼女の部屋のベッドに寝そべっては、彼女自身の手によって導かれるがままに、男の物を咥えた真希の頭を押さえつけた。ほんの数回のストロークで彼女が嘔吐したことが、見ずとも分かった。

 吐瀉物がベッドを汚す。俺の力ですぐに綺麗な状態に戻せることを察しているからか、彼女がそれを気にする素振りはない。すぐに咥え直そうとする彼女にテレパシー能力を与えて「大丈夫?」と聞くと、嬉しそうな声で「大丈夫」と返ってくる。

 加虐しながら、定期的に真希の意思を確認する。あの日ユリに対してしたそれは相手の心を折るための物だったけれど、真希に対するそれは純粋な心配から来る。テレパシーだって常に有効にしている。少しでもしんどくなってきたらいつでも言えるように。

 だけど真希は、散々吐かされたあとで、自分の喉から出る声で言う。

「もっとひどいことしてもいいんですよ?」

 さすがサキュバスというべきなのか、雑談して笑い合っている時と何ら変わらないほど、その声音には無理をしている様子など一切見受けられなかった。

 嫌な方面にばかり素早く行き渡る自分の思考が、彼女の言う「ひどいこと」の具体例を導き出す。きっと彼女の性格からして、単純な痛みの類よりもっと他の暴力の方が「ひどい」に該当するのではないかと。

 それで俺は、これは誓って、どうしてもそれがしたかったというわけではなくて。ただ彼女が納得してくれることを願って、自分の性癖の中からそれらしい物を一つ取り出したのだ。

「……吐いた物を舐め取れって言ったら、嫌?」

「……ふふっ。嫌じゃないです」

 暗闇に慣れてきた視界に、真希の微笑みを見下ろした。返答に少し挟まれた間にはネガティブなニュアンスがなく、ただ分かりやすく、「ちゃんと聞いてくれてありがとう」という心が伝わってきた。

 真希にとっての「本当にひどいこと」は、彼女の意思を確認せずに何かを強いることにある。それが分かっていても、俺はそれを選ばなかった。「真希の期待しているひどいこと」はそれではないことが察せられたから。

 その意味で、良いコミュニケーションが出来たとは思う。けれどそれが、虐待を受ける子どもに対してすることとして正しいのかというと、そんなはずはないとしか思えない。俺のしていることは極悪人のそれだ。

 最終的に真希の口の中に射精したあと、それを飲み込んだ彼女の笑顔と、自分のしたことの罪深さを照らし合わせて見ると、俺には善悪の何たるかが分からなくなってしまう。借り物の道徳で労わっていた時よりもずっと、真希は幸せそうな顔をしていた。

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