天国とは、眺める「他人の地獄」である。
地獄を生きる者を安全圏から眺めて、自分ではなくてよかったと安心したり、あるいは嗜虐心を満たしたり。そういう要素があって初めて天国は成立する。全員が平等に幸せな世界なんて天国ではない。自覚の有無を問わず、それが俺にとってのリアリティだから、俺の天国には他人の地獄が含まれている。
ニュース番組で連日のように悲惨な報せを聞くことも、きっとその一環なのだろう。かつて生きていた現世と同じように、夏になれば水難事故が報道され、時々どこかの街で大規模な家事が起きて、痴情のもつれから刺される人がいたり、子どもを虐待した親の裁判が開かれていたり、芸能人が離婚したりする。そうでなければ天国ではない、リアリティではない、ということなのだろう。
だから、サキュバスが強姦されて精神に異常をきたすというニュースがあること自体には、さほど違和感を覚えなかった。元々、死ぬ死なないの差は現世とあれど、頭のおかしい男にサキュバスが刺されたりするニュースは珍しくもなかった。
妙な事件が世間を騒がせ、警察がそれに翻弄されているように見えても、まさか「全能の力を持つこの俺が手を貸そう!」とド素人の立場で乗り込んでいけるはずもなく、俺の生活は普段と何ら変わらないままだった。天国ともあれば、ド素人が実際に乗り込んでみたらみたでいい感じに話を合わせて楽しませてくれるのだろうし、ヒロイックなことに憧れる心がないといえば嘘になるけれど、その上でその可能性を蹴ったということはつまり、目先のエロスの方がより魅力的に見えたということ。……その魅力と向き合うのに必死で、それどころではなかったということ。
真希と仲良くなってからずっと、俺は彼女の家に2~3日に一度のペースで通っている。滞在時間はいつも夕方から夜にかけての数時間ほどで、かつては彼女の父親に向けた「性行為の偽装」も続けていた。……が、最近はそれが偽装ではなくなっている。
藤村に金を渡したことがきっかけで、俺はやはり真希にも金を払うべきなのではないかという考えを強めていた。いくら払おうと彼女の父親の私腹を肥やすだけなのかもしれないけど、その恩恵が少しでも真希に及ぶかもしれないことを思えば、藤村に渡して真希に渡さないというのはおかしい気がしたから。
というのも、俺が数日に一度のペースでしか彼女の家に行かないのは、そのくらいのペースでしか彼女の時間が空いていないからなのだ。決して少なくない頻度で、真希の体を目当てにした客は日が沈むやいなやの時刻にやって来る。もし俺が金を渡すことで少しでもその頻度を下げられるならそうしたいと思った。
けどその申し出は、真希本人からはっきりと断られてしまった。
「大丈夫ですよ、お兄さん。わたし、いっぱい働いて、いっぱい稼いでますから。お金には困ってないんです」
明かりの消された部屋の中で、わざわざ耳打ちで、彼女は俺からの申し出を断った。そのやり方は明らかに「可哀想なわたしで興奮してね」と主張していた。
サキュバスは性欲を察知する。俺がどうしようもない人間であることが、耳打ちから秒で本人にバレてしまう。相手の性格が違えば一瞬で絶交されても文句は言えないと我ながら思う。だけどその自覚は諦念や開き直りにはなりきれず、興奮とも罪悪感とも似て異なる感情が渦巻いては俺の心中を荒らしていく。
その感情は「不安」だった。俺は真希に「可哀想でなければ価値がない」と思わせてしまったのではないか。そんな不安が脳裏をよぎる。何せ知り合った当初の真希は明らかに売春を嫌がっていたのに、今では自ら進んでそれに従事しているかのような物言いをする。俺のせいでそうなっているのだとしたら、これは、天国に来てから一番罪深いことをしていると言わざるを得ない。
だけど俺は、何を考えているの? と、真希に聞くことは出来なかった。怖かったから。聞いた瞬間に「可哀想でなければ価値がない」が真希の中での真実に確定してしまう気がして。あるいは、性的興奮がバレているままでは、自分の言葉が全て白々しくなる気がして。
それで俺はずっと、真希がくれる興奮を甘んじて受け取る立場から抜け出せずにいた。
いつの間にか彼女とのプレイは、彼女が客からされて嫌だったことを俺相手に再現することが定番化していた。
「いらっしゃい、お兄さん」
夕方、高校生にとっては放課後と呼ぶ頃合いに、玄関で真希に迎えられる。その日するプレイは事前にLINEのやり取りで決められていて、今日の彼女は出迎えの時点からすでに、その瞳に歪んだ期待の色を宿していた。
俺は彼女のポニーテールを取っ手のように掴んで、小さく悲鳴を上げる彼女を部屋まで連行する。そういう風にしようと、二人で相談して事前に決めていたから。
「脱げ」
部屋に入って後ろ手に扉を閉めたら、夕暮れの暗い部屋の中で会話もなく脱衣を命じる。渋々それに応じる真希の演技の上手さが、背景を想像させて悲しかった。彼女は演じているというよりも思い出しているのだろう。……その悲しさと興奮は、両立されてしまうのだけど。
真希が下着まで全て脱いだことを確認してから、部屋の明かりを点ける。スマホカメラをその裸体に向ける。
「えっ……。あ、あの、写真はやめてください」
「あれ、逆らうの? お父さんに言いつけるよ?」
「…………はい」
手を後ろに回して晒された彼女の体を、大きなシャッター音と共にカメラロールに収めていく。何枚も何枚も、顔まで写した全体像から、舐め回すような至近まで、執拗な撮影が続く。……これらは全て事前の打ち合わせで決められた「真希が実際にされて嫌だったこと」で、これは神に誓って本当に、それを思うと心が痛む。
一方で同時に俺は、彼女を性の対象とすることへの罪の意識を忘れつつあった。サキュバスは皆見た目が若くて、正直言って、20歳くらいに見えるサキュバスの体と、本物の17歳のサキュバスの体の間に目に見える差があるのかというと、俺の目にはほとんどないように映る。天国での性経験の数々がそういう理屈で俺から罪の意識を薄れさせていく。ユリに言わせれば、それでこそ天国の価値があるという物なのかもしれないが……。
打ち合わせ通りの撮影を済ませたあと、これもまた台本通りに、俺は真希を自分の上に跨らせて腰を振らせた。そして少しでも動きが鈍ったら、憎しみでもぶつけるかのように強く乳首をつねり上げる。
「サキュバスのくせに、手抜いてんの?」
「ち、ちがいます。ごめんなさい」
……そんな茶番をしていると、真希は泣きそうなのか笑いそうなのかよく分からない顔をする。そんな彼女と目が合うと、俺は自分がどんな顔をしていればいいのか分からなくなる。
サキュバスの苦痛をカットする力は不意打ちには弱いらしく、客から暴力を振るわれる時、それが予期せぬ物だと本当に痛いらしい。その再現をするために、今日の真希は要所でわざと魔力の活用をやめている。「手加減しないでほしい」と打ち合わせで言われたとはいえ、その要望にあっさり応じられてしまう自分の外道ぶりに思いを馳せながら、俺は、真希の頭を撫でてやりたくなるのを我慢していた。それは全ての茶番が終わったあとにやることだから。そうでないと、せっかく台本通りに進めたことが台無しになる気がするから。
可哀想な真希を慰み物にすることも好きだけど、頑張ってる彼女を愛でることもちゃんと好きだ。よく頑張ったねと褒めると、真希はいつも本当に嬉しそうに笑う。搾取のマッチポンプじみていて手放しに喜ばしい物ではないと分かってはいるつもりだけど、それでも俺はその笑顔に心を満たされてしまう。
お掃除フェラまできちんと済ませた真希のことを、俺は思うがままに褒めた。俺は褒め下手だろうけど、真希は喜び上手だった。
「ほら、ちゃんと全部消したよ」
「残しててもいいのに」
思い出を振り返るみたいに肩を寄せあって、撮影パートで大量に生じた写真を全て消去する。客との事後にそんなくだりはなく、真希の裸体を余すことなく写した物は、今もこの世のどこかに存在している。俺の力を使えばそれを遠隔で削除することも出来るのかもしれないけど、突然写真を失った客がどんな行動に出るのか分からない以上、気軽に実行することはできない。
残しててもいいのにという真希の言葉が、俺への好意なのか、それとも自暴自棄なのか、どちらもなのか。考えるほどに、俺の中の真希はより「可哀想」になっていく。
俺はいつまで経っても、真希をこの手で救い、その人生の全てに責任を負う覚悟を持てはしない。どれだけ仲が深まっても、それだけは出来ない。だから真希はどんどん可哀想になっていく。彼女がこちらに向ける好意が、日に日に大きくなっているような気がするから。
「ねぇお兄さん。わたしが学校に行ってる間、いつも何してるんですか?」
「え? ……まぁゲームとかかな。不労所得で生きてるから」
「本当に?」
「なんで……?」
「んー」
女の勘というやつだろうか。全て見透かしたような素振りで、真希は言う。
「わたしの経験もそろそろネタ切れなんですよね。お客さんも意外と乱暴な人ばかりじゃないし、乱暴な人もワンパターンだったりして。あとはもう、好き好き言いながら全身舐め回してきたおじさんくらいしかいなかったかなーって」
「サキュバス的にもそれはさすがにキモかったんだ?」
「いやキモいっていうか、普通に反応に困っちゃって。お兄さんもその役やるの嫌でしょ?」
「まぁ……うーん……。嫌とまでは言わないけど……」
「っていうことで、お兄さんが他の子にしてることの中で、何か面白いことないのかなーと思って」
「…………他の子って、ユリとか?」
「ユリさん以外にはいないんですか?」
「…………うーん」
どこからバレるのだろう、こういうことは。純粋に不思議でならなかった。もしかするとカマをかけられていたのかもしれないけど、どのみち俺は嘘をつくのが下手だから観念するしかなかったと思う。
交際しているわけではないという建前の話が、こういう時には何の力も持たなくなることを俺は知っている。真希とこれまでのように仲良くしていくことは今後叶わなくなるのかもしれないと、仕方なしに覚悟しながら話す。
「真希ちゃんは、俺が他の子と関わってると嫌?」
「え、いや全然! わたしもいろんな人とエッチしますし」
「それはやらされてるからでしょ……」
「いやいや。じゃあお兄さんは、わたしが望んで売春してたら、お客さんに嫉妬します?」
「……俺はしないけどさ」
「それと同じですよ。……全部それと同じなんですよね」
含みのある言い方をした真希は、なぜか自嘲気味に笑う。
「全部?」
「お兄さんは、わたしがお客さんにされたことを聞くの楽しいですよね?」
「えっ。…………まぁ、うん、ごめん」
「ふふ」
性欲が察知される以上見栄は張れない。それで仕方なく本心を口にすると、借り物の道徳を心から引き剥がす練習を、手とり足とり先導されているような感覚がする。
真希が10代とは思えない微笑みを浮かべてくれることが、こういう時は素直に俺の救いになっていた。
「それと同じです。お兄さんが誰と何をしててもいいけど、何をしてたのか教えてもらえないのはちょっと、つまんないかなって」
「……なるほど」
「ね。だから教えてください。それで、同じことをわたしともしましょう……?」
「同じことね……」
真希が自分のされたことをプレイのネタにするかわりに、俺は自分のしたことをネタにする。それだけ聞けば確かにフェアで前向きな話にも聞こえるけれど。
ただ俺は不安だった。真希の言葉選びは本当に正確なのかと。「つまらない」は、「つらい」や「寂しい」の言い換えであったりはしないのかと。……けれど仮にそうだったとして、俺に選択肢はない。俺は自分に正直に、卑怯で薄情な半人前であり続ける限り、売春の強制を見逃すという選択の意味するところを噛み締め続けるしかない。……それが俺にとっての消去法なのだ。
俺は真希の可哀想なセックスが面白くて彼女を見捨てるわけではない。何の責任も負いたくないから彼女を見捨てるのだ。……なら、どの場面でも、どんな形でも、俺は同じ選択をすることになる。「つまらない」の意味がなんであれ、俺の行動が変わることはない。
試しにその日、チカのアナルに入れたディルドを真希に見せてみた。
「こ、これを生身で……?」
生身(魔力を使わないことをそう言うらしい)でそれに嬲られたチカの話を紹介すると、真希の苦笑は分かりやすく引きつっていた。そして彼女は長考の末に、おそるおそるといった様子で俺の顔を見上げる。
「…………ギブしたらやめてくれますか?」
信用と恐れが同居したその声に、俺は思わず顔をほころばせてしまった。
「当たり前でしょ。ていうか、無理そうならやらなくていいから。ね?」
「す、すいません。ひよっちゃって……」
「いやそれでいいんだよ。無理しないのが一番。嫌なことは嫌って言ってくれる方が嬉しいから、ちゃんと教えてくれてありがとう」
「そ、そうですか……? ……お兄さんって性癖やばいのに、変なところ優しいですよね」
嬉しそうに、真希はそう言ってくれた。俺もそう言ってもらえることが純粋に嬉しかった。
ただ、その評価自体は買い被りかもしれないな……と、藤村のことを記憶に振り返りながら思う。俺が本当に「性癖以外は優しい人」なら、万に一つもあんなことは起こらなかったはず。
……いや、違う。そこで振り返るのが藤村なのはいくらなんでも話を逸らしすぎている。俺が優しい人なら、真希は今頃もっとまともな生活をしているはずなのだ。
「……俺はクズだよ、普通に」
「ふふっ。それ、本当にクズな人をいっぱい見てきたわたしに言います〜?」
恋人が冗談で「今さら紳士ぶるの?」と揶揄するような軽いノリで、真希はそんなことを言った。
俺はそれを聞いて、あぁやっぱりこの子はちゃんと子どもなんだなと実感する。自分の犯し続けている罪も、それで自動的に実感する。
人の性根がクズであるかどうかは、比較で語る物ではないよ。……とは、口に出せなかった。真希を突き放すような言い方になってしまう気がしたから……というのは、これも俺の卑怯な建前だろうか。
誤魔化すように、俺はまた真希を抱く。聞くと、魔力を使えば例のディルドも平気で受け入れられるとのことだったから、それで彼女に動きとしてはチカと同じことをさせた。本当に普通の騎乗位と何ら変わらない穏やかなリアクションで彼女はそれをやってのけた。
また来てくださいね、と。事が済んだあとは玄関まで見送られる。俺はそれに手を振り返す。願う力で後始末をする時、真希がそう望んだから、彼女の中には無遠慮に出された精液がそのままになっている。サキュバスは望まない妊娠をしない。そういう風に出来ている。真希が血迷って俺の子を孕んだりしないのは、それをしたら俺が彼女をあっけなく捨てることを、あなたはクズではないと言ってのけながらその内心で察知しているからだろうか。
その日の夜のニュースでも、新たな強姦被害者と、男性を恐れるようになったサキュバスの話を聞いた。
真希が俺のことを恐れるようになったら、結構本当にショックかもしれない。……無責任にそんなことを思いながら、ユリと二人で夕食を平らげた。
「蛙化」という言葉が最近はあるけれど、いつの間にか天国のSNS上では「人間化」という言葉が広まっていた。主にその言葉は、強姦被害の体験を機に男性恐怖症を発症したサキュバスたちを指して使われる。
俺が日々サキュバスをとっかえひっかえしながら罪を重ねている間に、それとは少し趣の違う大罪を犯し続けている者がいる。人間化は、その誰かが何らかの方法で意図的に引き起こしている物だとしか思えなかった。何せ、ただ酷い目にあっただけのサキュバスがそうなるのだとしたら、もっと多くの人数がそうなっているはずだから。……わざわざ報道するほどではないとスルーされているだけで、女性の99%がサキュバスである天国においても、性犯罪の発生件数は十や二十ではないはずだ。人間女性ばかりが被害者ではないはずだ。
とはいえ不安になって、願う力でこっそり調べたのだけど、結論から言って藤村は男性恐怖症になっていなかった。俺と会ったスーパーを使うことは避けるようになったようだけど、別の場所で別の男を捕まえては普通にセックスしまくっているらしい。それもその形態は援交で、タダマンさせてくれる相手だらけな「女性の99%がサキュバスな世界」の中で援交をするとなるとそれなりに過酷な行為を強いられることも多いようだけど、藤村はそれらの行為には全く心を折られていないようだった。……幸いなことに、サキュバスというのはやはり本来そういう生き物らしい。俺がたまたま針の穴のような弱点に糸を通してしまっただけで。
誰がなぜどのように、強姦と人間化を連日欠かさず行っているのか。それも調べれば分かることなのかもしれないが、調べたからにはそのまま解決するのが筋であるような気がして、義憤に駆られているわけでもない俺はずっとその調べ物を避け続けている。自分が好き勝手に生きておいて、誰かの悪事は颯爽と止めにかかるなんて、そんな割り切ったことはまだ今の俺には出来る気がしない。
強姦魔の犯行はある程度同じ地域で起こっている。具体的には俺の住んでいる場所から、車で日帰りの往復をできる程度の距離内で。……それで俺はどちらかというと、その謎の悪人にシンパシーすら感じている。きっとその人にもどうしようもない性癖があるのだろうな……と。
同じスーパーで毎回張り込んでいてはさすがにいつか店の人から苦言を呈される気がして、平日のナンパは店を転々とするようになった。どの店にでもイートインがあるというわけではないから、何も買わずに店を徘徊し続ける不審者にならないように、見えないカメラだけを店内に飛ばして自分自身はファミレスのドリンクバーで陣取っておくのが最近は定番と化してきている。……ファミレスを作戦に組み込んだ初日に「ワープゲートがあるのだから、在宅で同じことをしてもいいのでは」と気づきはしたけど、そんなことを言い始めると家から出る理由の一切を失う気がして、人生を彩るためにもそれはやめておくことにした。
だからカメラも必ず、その日見張るスーパーに自ら足を運んで飛ばす。そんな活動を初めて何日目になったかももはや忘れたある日だって、俺は同じようにそうするつもりだった。
するとその日は、店に入る手前の駐輪場で、盛大なドミノ倒しを起こしてしまった女性を偶然に目撃した。
「……はぁ〜ぁ〜」
深い……というよりは長いため息を吐きながら一台一台起こしにかかる姿が気の毒で、俺はそこに加勢する。願う力を使えば一瞬で終わるのだけど、外出の理由と同じで、そういうことをしているとそのうち自分はスマホすらこの手で触らなくなる気がする。そうやって生活が味気なくなることを危惧して、倒れた自転車たちを地道な手作業でコツコツ起こしていく。
「あっ、すいません、ありがとうございます」
「いえいえ」
社交的な雰囲気のある声に、俺は相手の顔も見ずに返事をした。ナンパをしに来たクズが思いつきで善人ぶっていることが小っ恥ずかしくて、目を合わせる気になれなかった。
大きめのスーパーの駐輪場一列を丸々なぎ倒したとはいえ、復旧作業は二人でやればすぐに終わった。集中して従事するべき作業を失ったことで、いよいよ観念するように俺は相手の顔を見る。
あっ。と、お互い声が出た。
「お兄さん、前に会いましたよね?」
「……瀬名川さん?」
「そうそう!」
チュートリアル期間に酔いつぶれているところを目撃した相手、瀬名川と、偶然のエンカウントを果たした瞬間だった。……しかしそれは必ずしもハッピーな出来事ではない。
うわっ、気まず……。と、俺は咄嗟に思ってしまったし、それが顔に出たかもしれない。何せ俺は彼女からの「恩返しになんでもするからいつでも声かけてくださいね!」みたいなLINEに「ありがとう!」と返したきり、一切何の連絡も入れていなかったから。まるであなたの助力なんて必要ないと突き放しているかのようで、ずっとうっすら気に病んでいた。そしてそのモヤモヤを、まぁもう二度と会うこともないだろうからべつにいいかと誤魔化していたのだ。
というか実際、願えば何でも叶うとかいう全能の力を持っている俺にとって、誰かの助けが必要なんてことは理論上起こりようがない。瀬名川の力が必要ないというのはそのまま真実でもある。……この世にサキュバスが彼女しかいなければ、今頃毎日のようにセックスをせがんでいたのかもしれないけど。
「お兄さんもお買い物ですか?」
どこか向こうもその気まずさを共有しているような間の取り方で、会話の無難な送球が寄越される。客観的には無難でも、こちらはスパイのような気分でそれに応じなければならなかった。
「え、あ、あぁ、そう。買い出し」
「私もです。あのタオルを干すタコみたいな、あれ、あるじゃないですか。ぐるぐる回るやつ。あれがそろそろ限界で」
「あぁ、よく折れますよねあれ」
「本当にねぇ。そっちは何買いに来たんですか?」
「俺? 俺はあれです、トイレットペーパーが切れて」
「あ、私もそれ買わなきゃ。……行きましょ?」
口から出まかせを言った結果、なんとなく一緒に買い物をする流れになった。食材の買い出しだと答えれば行先の違いからそうはならなかったのかもしれないけど、俺は自炊のセンスがないことから嘘がバレることを恐れて今の答えを選んだから、起きる結果はある種の必然だった。
今日来たスーパーは二階建てで、一階には食材の類が、二階には生活用品等が置いてある。そこそこ大型なこともありイートイン的なコーナーも無いことはないのだけど、作荷台が一つだけ突然変異を起こしてイートインになったかのような距離感をしているそこはシンプルに居心地が悪く、個人的には敬遠している。
トイレットペーパーは広告の品とかいって、店内に足を踏み入れてすぐの場所に山と積まれていた。二人してそれを買い物カゴに入れて、エスカレーターで二階へ向かう。
カゴ片手に、話題に困った沈黙のまま運ばれていく自分の姿は、我ながらちょっとシュールだったと思う。
「私、あれからちょっと考えたんですけど」
「え?」
エスカレーターの二段上から背中越しに話しかけられる。本格的な雑談に興じるほど上る道のりは長くなく、俺はなんとなくそのまま彼女の背中を追う形で売り場を歩いた。
「あの時、恩返しがしたいって言ったじゃないですか」
「あぁ。ありましたね」
「でもよく考えたら、お兄さん結構すごい力持ってそうだし、私が出来ることって無いんじゃないかなって思って」
「あっ……。気づいてしまいましたか」
「気づいてしまったんですよ」
そりゃそうか……と、言われてみて初めて納得する。俺が瀬名川に見せた力は、物品の召喚、物探し、瞬間移動、記憶操作や証拠隠滅と、かなり多岐に渡っていた。そうなればさすがのサキュバスでも「全部あいつ一人でいいんじゃないかな」という気になるのはむしろ自然なことに思える。
なんだ、気づかないうちに俺たちは認識を共有していたのか。それなら過度に気まずさを感じることもなかったのだと、俺は素直に安堵する。
「まぁ実際、わりとなんでも出来ますね」
「やっぱりそうですか。……トイレットペーパーは服みたいに出せたりしないんですか?」
「……出せますね、無限に」
「あはは」
買う必要のない物を付き合いでカゴに入れている身として、それは気まずさの二の太刀だった。何が面白いのかはよく分からないが、ただ相手が笑っていることだけが救いだった。……考えてみれば、全く栄養にならないのに付き合いとして人間流の食事をするサキュバスの感覚は、今の俺に似ている物なのかもしれない。
目当ての洗濯物干しを見つけた瀬名川がレジに向かう。俺はそれを後ろに並ぶ形で見守る。手持ち無沙汰ではあるものの、ナンパのためのカメラを飛ばせるような心の余裕などはあるはずもない。
待っている間にふと、今日が平日であることを思い出した。すると当然、おそらく会社員であるはずの瀬名川がなぜ平日のスーパーにいるのだろうと気になってくる。まさか職場環境に嫌気がさして退職したのでは……とまで考えたところで、会計に自分の番が回ってくる。シチュエーションが家庭的すぎるせいか、あるいはこれが宝くじを当ててしまった人の精神性なのか。俺は無限の資金がありながら、瀬名川の分の支払いを名乗り出ることはできなかった。
エスカレーターを二人して降りていく。なんとなく瀬名川が常に前を行っている。今度はその背中を見下ろす形になり、無防備だな……とぼんやり思った。得体のしれない力を持っている相手に対してもそういう自然な態度を取れることは普通なのか、それともすごいことなのか。俺にはよく分からない。
「ところでお兄さん、今日って暇ですか?」
店を出て自転車の鍵を外しながら瀬名川が言う。俺はドミノの再発が起きないか若干不安になりながらそれを見ていた。
「えっ。あー、まぁわりと」
「私と遊びません?」
「え? ……なにします?」
「なんでもよければ、卓球とか」
「卓球……?」
なにゆえに。
とはいえ特に断る理由もなく、本当に卓球を目指して最寄りのラウンドワンに向かうことになる。荷物は一時的に全てワープゲートで俺の家の玄関に送り付けて解散時に回収することにして、相手に合わせてこちらも自転車を引っ張り出してくる。ここからラウンドワンまでは大体20分くらいだろうか。
道中、信号に引っかかるたびに雑談が起きた。
「今日、有給を消化してるんですよね」
「あ、そうなんですね」
「でもやることなくて」
「無欲ですね」
「いや、家でゲームするのが好きなんですけど、土日と仕事終わってからでわりと満足しちゃって。なんかもったいないなって」
「なるほど。……でもなんで卓球?」
「ふふ、それは行けば分かります」
まったく全容が掴めないまま信号は青になり、その話はそれでうやむやになった。その後は「お兄さんは暇な時いつも何してるんですか?」とか「思ったんですけど、あのワープゲートでラウンドワンまで行けばよかったのでは……?」とか何かと話を振られて、そのたび微妙に緊張を伴って答えることになった。「俺もゲームしてますね」とか「味気ないかなと思って」とか。後者はもちろん、前者も嘘ではない。ただ真実の全てではないというだけで。
ラウンドワンの卓球といえば休日はやたら混雑しているイメージがあるけれど、平日昼間ならさすがにその心配もなかった。受付を済ませ、ネットに囲まれた専用ルームにレンタルのラケットと球を持って入る。行けば分かるとやらの真相が何だったのかはついぞ判明することなく、「行きますよー」と瀬名川のサーブからゲームが始まった。点数記録に関しては、願う力で見えない手が得点板を全自動操作してくれる。
異常な身体能力を持つらしいサキュバスのことだからとんでもない速度のサーブが飛んでくるのかとも思ったけれど実際はそんなこともなく、一般人の卓球らしく穏やかなラリーが交わされることになった。俺は他のあらゆるスポーツと同じで卓球もまったくのド素人だから、時々思ったように球が飛ばず失点してしまう。
……何かがおかしいような気がしてきたのは、その穏やかなラリーの行く先が7-0という一方的なスコアになり始めた頃だった。
「ちょっと、上手くないですか?」
「いやいやお兄さん、もっと本気出してくださいよ」
「いや普通にこれ本気なんですけど」
初めからずっとそうだという言い方をしながら、気持ちとしてはいくらか序盤よりも熱心になっていく。せめて1点くらいは取れたっていいのではないかと、実力にまったく反映されない執念の炎を中火程度に燃やす。
そしてその末に、11-0で普通に完敗した。えげつないサーブが飛んでくるわけでもなく反応できないスマッシュが繰り出されるわけでもなく、それどころか難しいコースに球が飛んでくることもなければネットインすらなかったのに、なぜか1点も取れない、必ずこちらがどこかでミスをして負ける。壁と打ち合っているような気分とはこのことかと思い知らされた。
そしてその結果について、瀬名川から明らかに鼻で笑われた。
「ふふ、そんなもんですか」
「こんなもんです」
「いやもっと張り合ってくださいよ。お兄さんならいくらでもやりようあるでしょ?」
「……ズルしろってことですか?」
見えない手によって、ピンポン球を空中に静止させて見せる。この手のズルがありなら確かに間違いなく勝てるだろうけど、そんなことに何の意味があるのか。俺はこれでもスポーツマンシップだけは一人前な男なのだ。
が、その超能力的な力を目にした瀬名川は、待ってましたと言わんばかりに口角を上げた。
「たぶんそれでちょうどいいくらいですよ」
「……なに〜?」
そう言われるとなんだか少し、その自信の根拠を見たくなってくる。
よって二試合目の初っ端から、俺はお望み通りズルをした。自分のラケットに「当たれば必ずいい感じの返球になる」という力を付与したのだ。これによって俺は、平和なラリーを続けている限りまず間違いなく負けなくなった。そうすることで「何かがおかしい」という一試合目で俺が感じた物の意趣返しを狙う。
……しかし、先制点を取ったのは瀬名川の方だった。こちらがそもそも反応できない速度で球が返ってきたのだ。
「お兄さん、ズルの規模がしょぼいです」
「は〜?」
「どうせラケットに当てさえすれば必ず返球できるようにしてるんでしょ」
「ぐっ……」
「私、学生の頃ちょっとだけ卓球にハマってたんですよ」
「部活ですか?」
「いや。お父さんに勝てなかったのが死ぬほど悔しくて」
「わぁ微笑ましい」
なんて言っている間に向こうのサーブで試合再開。やはりそのサーブには何の変哲もなく、速度もなければ妙な回転もない。当然ラケットに当てることは造作もなく、当たったそれは自動的に低めの軌道をとって相手コートに返っていく。
けれど、なぜなのか、とにかく相手の方が一切ミスをしない。左右に打ち分けてみても余裕で追いついてきて、同じような球を打ちやすい位置にばかり返してくる。そしてその返球に半ば飽きかけるほど慣れた頃に、不意に強烈な追い風を受けたように加速した球が飛んできて、俺はそれを見送ることになってしまう。
二試合目も3-0になったあたりで、俺はようやく、瀬名川がずっとこちらをおちょくっているのだということに気付き始めた。
「よし、ズルのレベルを上げます」
「どうぞ〜」
ラケットの自動返球機能に、こちらも打球の速度をプラスする。それも並大抵の速度ではない。卓球は理論上、見てから反応できない速度の球を左右に打ち分けられれば、一つの返球ごとに50%の確率で得点をもぎとれるはず。俺はその理論上の話を実現する。
もはや打った時の手応えも何もなく、ただ明らかに物理法則を無視した動きで引くほど速い球が相手コートに飛んでいく。が、瀬名川はそれを初球から当たり前のように打ち返してきた。しかし返ってくる球の速さはまだ目で追える範囲で、俺はまたそこにラケットを合わせることが出来る。そうなればこちらとしては勝率50%のインチキをひたすら繰り返すだけだ。正直スポーツとしての面白みなどは跡形もなく失われつつある感触があったけれど、それを惜しむのはまず1点を取ってからでも遅くないと自分に言い聞かせる。
……なのにそれでも、瀬名川から1点を奪うことはできなかった。こちらが反応できない速度の返球が来るようになったのだ。
「……なるほど。なんか分かってきました」
「お、なにが?」
「サキュバスは、速い」
「ふふ、そうです」
サキュバスは動きが速い。そして、その速さをコントロールするにあたって「何かが見えて」いる。
二択の打ち分けを使っても毎回球の行き先に相手がいる気がするのは、打ち返すことに必死になっている俺が見逃しているだけで、ただただ瀬名川が超速で移動している……というのが真相なのだと思う。しかしもし俺が彼女の立場なら、仮に必ず球の前に陣取れる能力を使っていたとしても、自動返球の機能なしではその飛んできた球を満足に打ち返せないだろう。しかし現に球は返ってくる。ということはつまり、瀬名川の視点では「人間にとっては見てから反応できない球」が「普通に見てから反応できる球」になっている。
そこで生じる疑問は、かつて瀬名川の父親は娘にどうやって卓球で勝ったのかということ。「学生の頃」という言い回しからして、それは魔力の扱いが覚束無い幼少期にだけ負けたという話ではなかったと推測できる。そしてこの天国にサキュバス以外の異種族はいない。男性である時点で間違いなく人間だったろう父親はしかし、人間に見えない速度の世界が見えている娘に卓球で勝ったのだ。いったいなぜそんなことが起こせたのか? ……その答えはきっと、その頃の瀬名川は「見えていても上手く返球できなかったから」だ。聞いたことがある、たとえばプロはサーブの回転だけで初心者を完封できると。学生時代の瀬名川はおそらくそれにやられたのだ。
しかし、今現在の彼女はただ球が見えて「反応」出来るだけではなく、見えた球に適切な「対応」をできるようになっている。だから球が全部返ってくる。それはつまり、俺が自動返球で高速の球を飛ばせるようになったところで、まだ彼女の実力には追いついていないということ。まだ「俺にだけ、見えていない球がある」ということ。ひいては、それで勝てるわけがないということ。
そこまで分かったところでなんとなく、相手の求めている物が分かった気がした。彼女にとっての卓球が、かつて「父親を乗り越える物」だったなら……。
「必殺!」
せめてものフェアプレー精神でわざと叫ぶ。今からさらなるズルをするぞという意味で。
その時俺が打った球は、不可視の属性を得た。ただし「返球できなかった」ということを実感させるために、その属性はワンバウンドした瞬間に解除される。
「えっ!?」
初めて瀬名川が球を見送った。4-1、全能の力を持つこちらがこれでようやく初得点を得る。
「どうだ必殺、消える魔球」
「やられた。本気出してきたね」
「求められてる物が分かってきましたからね」
「へぇ」
「要は瀬名川さん、男と本気の卓球がやりたかったんでしょう?」
「おわ、当たり。それもエスパーで読んだの?」
「いや、ただの推測です」
おそらく彼女の父親には卓球の心得があって、素人ではまともに返球できない回転等を操る人だったのだろう。すると飛んでくる球がいくら見えたところで、返し方が分からなければ返せない。ゲーマー的な例え方をするならそれは、敵のジャンプは見えているのに昇竜拳コマンドが上手く入力できないような感覚だろうか。だとすれば当時の瀬名川は相当悔しかったはず。そしてその悔しさをバネに、どんな球でも見えていれば返せるだけの技術を会得した。……けれどそうなると今度は、父親のことが一転して雑魚に見えるようになってしまったはず。
素朴に魔力を使い、素朴に負け、素朴にそれを克服した彼女にとって、卓球とはいわゆる「生身」で取り組む物ではないのかもしれない。けれど魔力をフル稼働した「サキュバスの本気の卓球」について来られるのは同じサキュバスだけで、かつて父の背中を追いかけていた頃の感覚は二度と戻ってこない。……相手の男が、サキュバスを超える無茶苦茶な力の持ち主でもない限り。
俺は瀬名川から「かつての父親のような対戦相手」を期待されている。異性から父親らしさを求められるだなんて話をこんな形で体験することになるとは夢にも思わなかったけれど、いざそれを求められてみれば、なんだろう、男としてとかではなく、大きな力を持つ者としてそれに応えることもやぶさかではないような気がしてくる。
口調がフランクになっていく瀬名川を見ていると、なんだかズルをすることも楽しくなってきた。
「行きますよ〜」
足元に転がってきた球を拾い、ゆるいかけ声と共に俺からサーブを出す。自動返球+高速化+消える魔球の全部盛りが初っ端から炸裂するが、相手はすでにそれに対応していた。
ワンバウンドするまで球が見えないなら、コートから距離をとって守勢に構えればいい。バウンドした球を見てからでもサキュバスである彼女は余裕で反応して食らいついて来る。けれどそれについてはこちらも想定済みで、さらなるズルを重ねることでそこに対応していく。
一定以上の速度で返球されると反応できなくなるのが負け筋なら、俺にもその球が見えるようにすればいい。相手がラケットを振りかぶった瞬間、俺は自分の視界がスローモーションに見えるように願う力を使う。そしてそのスローモーションの世界の中で、自身の体の動きだけは等倍速で動く。要するにそれが、魔力を活用したサキュバスたちが見ている世界なのだ。彼女らに見えて俺に見えない物などない。与えられた力に全力で頼りさえすれば……プライドさえ捨ててしまえば!
……が実際にやってみると、スローモーションの力に関してはいくつかの問題点があった。一つはスロー化の発動タイミング。これが早すぎると試合中にも関わらず極めて暇な時間が生まれてしまい精神的なストレスがかさむ、集中力が途切れる。一方で遅ければ当然間に合わない。トートロジーのようだけど、集中力を維持するには、血眼になって相手がラケットを振るタイミングを観察する必要があった。
そしてもう一つの問題は、スローの倍率について。これが緩すぎると等倍速の動きで追いつくことが難しくなるけれど、きつくかけすぎると遅すぎて逆にやりづらくなる。また、スロー化した世界の中で自分の体の動き自体も速くする方法に関しては、シンプルに初体験の感覚すぎてコントロールが効かずおよそ使い物にならなかった。
サキュバスはみんなこのあたりの調整を感覚だけで完璧にできるのかと思うと、これだけズルにズルを重ねてもまだ生物としての力の差を感じるところがある。しかしそれでこそ「いい勝負」というものだろう。それは瀬名川が望むという以前に、俺が望むことでもある。
ただ、そのシーソーゲームを愛する心にはもはや常識と良識が存在せず、押し切られて負けそうになるたびに、俺はさらなるズルを性懲りもなく思いついていく。
スポーツバラエティ番組から着想したその新たな技は、分身・消える魔球。正規のピンポン球とは別に、撹乱目的の全然関係ないボール状の物(テニスボールとか)が、本体と同時かつ複数個かつ別の方向へ、消える魔球属性を持って飛んでいく。なお撹乱要因の方にはホログラム的な仕様で実体がなく、返球することはそもそも不可能になっている。
「だぁー!? ズルい!!」
初めにズルをご所望だった瀬名川は、爆笑しながらまんまとその罠にかかってくれた。一瞬パニックになって本体の球を見失ったのだ。よっしゃあ! と俺は心の底からガッツポーズを決める。もはやこれが卓球……というかスポーツと呼べるのかについては、諸説あると思うけど。
その後も球がバウンドする音が消えるとか、球が失明しない程度の光量で発光するとか、勝つための悪意の大喜利みたいな必殺技が次々と炸裂する。そのうちのいくつかは気合いで初見突破されるのが末恐ろしいところだったが、返球された場合はこちらも「サキュバスに見えている世界」をなんとか上手く物にしようとすることで対応出来たり出来なかったり。一進一退の攻防を繰り広げながら、10-10のデュース(こちらがアドバンテージ獲得)まで漕ぎ着けることが出来た。
ここで決めきらなければ、いい加減にインチキ攻撃のネタが切れてしまう。まさに「必殺」の気持ちで、俺は叫ぶ。
「必殺、消える魔球!」
だがその台詞は嘘である。今回の球は消えない。見えている通りに高速で飛んでいく。……ただしそれはワンバウンドするまでの話で、バウンドした瞬間、その球は大幅に減速する。そして相手の空振りを確認した瞬間に再加速する。
俺が願う力を通して見た世界がサキュバスの世界に近いなら、瀬名川だって急な変速の連続には弱いはず。散々消える魔球への対応を迫り続け、最後の最後に嘘を叫びながら打つことで、どうにか全力で一瞬の判断ミスを誘う。これが通らなければ俺は、試合以前にまずメンタル面で負けたことになる……!
「とぅはっ!」
なんともいえない勢いで息の抜ける音と共に、彼女のラケットは無事に空を切った。喜び勇むかのように再加速した球は卓球スペースを仕切る壁としてのネットにめり込み、そのまま落っこちた球が固い床にコンコンと跳ねて、軽く乾いたその音が余韻として場に響く。
終わってみれば、確かな達成感を抱くと共に、大手を振って喜んでいいのかはちょっと分からない気がしてきた。
「やられた〜!」
瀬名川が崩れ落ちるかのように卓球台に突っ伏した。悔しがる顔はどこか晴れ晴れとしている。
まだこの卓球スペースの貸出時間は残っていたけれど、俺の方にもう再試合に臨めるだけの気力は残っていなかった。それを向こうも察してくれたのか、ひとしきり悔しがった彼女は台から離れ次第、そそくさとラケットを片付け始める。俺もそれに続いた。
「ありがとうお兄さん。楽しかった」
「死ぬほど姑息でしたけどね」
「そこがよかった」
「ははっ、どうも」
学生だった頃の瀬名川から見た父親のプレイスタイルも、どちらかといえば姑息に映る物だったのかもしれない。そんなことを考えながら、やや時間を余らせたまま俺たちはその場を去った。支払いは精算機による物で、そういう時は店員とのコミュニケーションコストがない分、自然とこちらが支払いを持ちやすくなるから気まずくならずに助かった。
ラウンドワンはゲーセンやボーリングのコーナーから絶えず爆音が流れていて、卓球コーナーもその音圧からは逃れきれない。施設その物から外に出ると、自然な環境音だけの世界と広がる青空に「地上に戻ってきた感」があった。
「このあとどうする?」
聞いてきたのは瀬名川の方だった。
疑心暗鬼じみてるけど、なんとなく自分の中に緊張感が走る。というのも、チカの時がそうであったように、サキュバスからこういうタイミングで出るそういう台詞は「家なりホテルなりに連れ込む合図」になっていてもおかしくはないから。
サキュバスは性欲を察知できる。俺が瀬名川をまったくそういう目で見ていないかといえば、ハイと答えればそれは嘘になる。初対面が裸だった異性……しかもサキュバスを見て、一切そういうことを考えないというのもむしろおかしな話だ。だから当然、そこから生じる欲は本人に筒抜けになっているはず。
もちろん俺だって、相手が人間なら迷いなくその欲を隠していたはずだ。どうせ隠せないのなら仕方ないとかそういう意味ではなく、楽しくスポーツをしたならそのまま楽しく解散する、それが一番だと心から思う。神に誓ってそう思いはしている。だけどその誓いの中にも存在するのが性欲という物だ。性欲は、清々しく別れるべき場面には沸かない……のではなく、そういう場面ではただ、優先順位の二番目以降に置かれる。だから表には出さないものの存在はしていて、サキュバス相手にはその存在が筒抜ける。
だから俺は焦った。軽くパニックだったかもしれない。この後どうするってどういう意味だ……? 彼女は俺のことをどういう人物として見ている? 優先順位の二番目以降に置かれた性欲は、サキュバスにとってどう扱うべき物に見えているんだ……?
素朴にこちらを見つめてくる瀬名川は、俺がホテルに行きたいと言い出せば、それを笑って受け入れてくれそうな雰囲気を持っていた。今までずっと、出来るはずの連絡すらしていなくて、今日偶然に再会しただけなのに、彼女の纏うその雰囲気は、セックスの相手である以前にまずフレンドであることが重視されるタイプのセフレ関係性を彷彿とさせる物に見えた。……全て気のせいでなければの話だけど。
卓球に熱中している間は忘れていたけれど、今の俺はすでに思い出している。今日、瀬名川と偶然再会したスーパーにそもそも足を運んだ理由は、誰かしらサキュバスをナンパするためだった。ナンパしたなら、その後何をするのかなんて決まっている。
べつにこれからまた、その本来の目的に戻ってもいいのだけど。どうしてもそうしたいというわけでもなく、俺は決断を投げる。
「……瀬名川さんは、何かしたいこととかは?」
「うーん。もうお昼過ぎてるけど、ご飯は食べた?」
「いや、まだ特には」
「じゃあどこか食べに行くとか?」
「あー、いいですね。どこ行きましょう」
「んー、アレとか?」
「アレ?」
瀬名川が指さす方向を見ると、遠くに高い看板が立っているのが見える。緑白赤の三色で構成されたそれは、文字が読めないほど遠い距離からでもその存在感を十分に主張しているファミレスの看板だった。
俺たち二人はゆるゆると自転車に乗って、サイゼリヤに向かった。
次回更新、未定。