足腰が弱っていると聞いていたので、車椅子で来るのかと思っていた。
だけど、クリスティナさんに支えられながら、僕の部屋まで歩いて辿り着き、自分の足で立って僕と対面を果たした。
泣きたいのか、喜びたいのか、戸惑っているのか。
母の表情は僕にはよく分からなくて、声にならない声を短く発しながら、小さく震えながらこちらを見ていた。
憔悴しているのは一目で分かった。
頬はこけて、目には濃いクマが出来ていた。
僕が想像していたよりも痩せこけていて、年老いて見えた。
髪は後ろでまとめられているけれど、酷く痛んだ髪の毛が、入院生活の長さを感じさせた。
隣のアリス姉に顔を向けると、握り締めていた手をそっと離してくれた。
僕は母さんに近づいて向かい合った。
「ぁ………ぁ………ぁ………」
目の前でも、母が何を言っているのかは聞き取れなかった。
「僕の、お母さんですか?」
「あ………あぁ………そんな………」
「
「あっ……、そう、……わ、私が……、でも……」
「会いたかった、お母さん」
言葉が続かない母に、僕は子供らしい笑顔で抱きついた。
元気に。
でもそっと。
優しく。
母の体は硬かった。
骨しか残っていないのではないかと思えた。
母の体は冷たかった。
女性の温もりや、母親の温かさは感じなかった。
母は病人の匂いがした。
果実が腐敗した甘酸っぱいような、好ましい匂いではなかった。
でも少しだけ、優しい香りがした。
この体のお母さんがこの人なのだと、教えてくれるような、心が安らぐ香りだった。
「ぁ………、で、でも………、私………」
母は抱きしめ返してくれはせず、戸惑いながら小さく震えるだけだった。
抱きしめている僕の視線の先に、行き先を見失ったまま、宙を彷徨う右手が見えた。
枯れ木のように細くて、弱々しい手だった。
僕はその手を掴んで、自分の腰に回した。
反対の手も、同じように。
母を抱きしめ直して、少しだけ力を込めた。
僕に回された母の手に、少しだけ、力が入った。
僕はもう一度強く抱きしめた。
母の手が少しだけ持ち上がり、少しだけ力強くなって、少しだけ温もりをくれた。
「お母さん、あったかい」
僕は片腕を肩まで上げて、半身を包むように母を抱きしめた。
「う゛ぅぅ……あ゛ぁぁ……ごめん……ごめんね……」
母も枯れ木のような腕を上げて、僕を抱きしめてくれた。
「ひかる……ごめんね……ごめんね……」
母は泣きながら謝り続けた。
「テル……ごめんなさい……ごめんなさい……」
僕は謝り続ける母の背中を撫で続けた。
「きっと輝兄さんが、僕を救ってくれたんです。褒めてあげて下さい」
「っ、そんな、あぁぁ……うぅ、テル、テルぅ……」
─────────
母は順調に回復に向かっているという。
まだ通常量の食事を取るのは大変だけど、早く帰らなきゃと頑張って食べているとクリスティナさんがとても嬉しそうに話してくれた。
母と面会した翌日、妹の美雪ちゃんにも会った。
自己紹介はしてくれたけど、葵衣さんの病院服を掴んだまま、僕の近くには来てくれなかった。
兄である輝君の記憶も少しあるそうで、整理しきれていないのだと思う。
少しづつでも仲良くなれたら嬉しい。
「───引越し?もしかして僕のせいですか?」
「違うわよ。葵衣とも話して皆で決めたの。私達も前を向かなきゃいけないから、光琉のおかげよ」
住んでいる戸建てを手放し、マンションに移るという。
今日は1月19日の日曜日。
転居は二人の卒業式を終えた後なので、後1ヶ月半ほどは輝君が住んでいた家に僕も住む事になる。
忙しい時期のはずなのになんだか申し訳ない。
アリスさんの大学受験が大丈夫なのか心配になったが、推薦枠なので問題ないとの事。
もう1箇所受験申し込みはしていたのだが、大学の場所が少し遠い事を理由にどうでも良くなってしまったらしい。
なんとか受験には行かせるけどね、と困った顔で語った。
原因が僕っぽいので苦笑いしかできない。
輝君のお墓も建てたそうだ。
元々、輝君が植物状態に陥ってから半年が経過した段階で、戸籍除外通知は届いていたらしい。
葬儀は遺体の無い状態で、骨壷には遺品が入れられて執り行われたそうだ。
心の整理がつかず手元供養を続けていたが、ようやく送ってあげられたと涙を流して教えてくれた。
葵衣さんも一緒に、家族全員でお墓参りに行ける日が早く来てほしい。
「私には敬語を辞めてくれないのね?」
「社会人の姉に思えるんです。クリス姐って呼ばれるのも嫌ですか?」
「嫌じゃないし嬉しいわよ。でもこんなに年上の姉でいいのかしら」
本当は『あねさん』って呼びたいくらい尊敬しているが、極道じゃあるまいし、それもどうかと思い直した。
少し毛先が痛んだセミロングの金髪は、いつも大雑把にまとめているだけで、髪留めが変わる以外にアレンジはされない。
一人で天内家を支えてきたこの人には、髪の毛に気を配る余裕なんてなかったのだろう。
でもそこが、バチくそかっこいい。
僕は少しでもこの人の負担を軽くしてあげたい。
そう思っているのに、勝手に濡れてくるこの体が疎ましい。
「たまにはママって呼んでね?」
「それは恥ずかしいので、…考えておきます」
「ふふ、楽しみにしてる」
そんな人に言われると、嫌とは言いにくい。
「そうだ、護衛の話って聞いてます?」
「ええ、気の良さそうな人達だったわ。挨拶もしていただいたし、先に入居も済ませたみたい」
クリス姐は、僕が話題を変えたのを見透かすように、笑いながら教えてくれた。
退院日、つまり3日後から、
引越しまでは戸建ての近くの短期賃貸マンションから通いで、転居後は同じマンションの隣の部屋に住む。
警護官から護衛官に偽装するし、警戒・保護のレベルは下がってると思うんだけど、側に住んでくれるのはありがたい。
正直まだ、何をどう警戒すべきかも分からないので安心する。
配属期間は最短で満16歳まで、最長が満18歳までの予定。
『予定はあくまでも予定だ』と、草加部さんが眼鏡の端をクイってしながら言っていた気がする。
「なら良かったです。なるべく家族の皆とも仲良くして欲しいので」
「そうなのよねえ」
少し困ったような表情を浮かべるクリス姐。
「なにか問題でも起こしたんですか?」
「アリスがちょっとね。あの子、光琉の事になると力が入りすぎてて」
「あぁ〜…」
心当たりしかないな。
しかし、クリス姐ですら対処できないのは想定外だ。
「迷惑かもしれないけど、少しの間したいようにさせて貰えないかしら?あの子にもまだ少し、心の整理に時間が要るの」
「迷惑なんてそんな。分かりました」
分かってしまった。
だってさあ、この状況で嫌って言える奴いる?
いねえよなぁ...
は〜、どうしよ。