心理カウンセラーになった事に、そこまで大きな理由は無かった。
進路は漠然と医療系を目指していたが、医者を目指せるような家庭では無かったし、学力も並だった。
周りから相談されることが多く、この長所を活かせないかと調べていたら心理専攻に辿り着いた。
看護師でなくとも、資格を得れば生きていくのには困らなそうだった。
カウンセラー、響きも悪くない。
現実は想像していた以上に過酷だった。
医療・福祉・教育などあらゆる機関との泥臭い調整役をさせられている時間は長い。
不安定な雇用や低賃金、キャリア形成なんて無いようなもの。
まともに仕事にありつけるようになるまでに、九条結嘉利先生には何度も助けられた。
医師と呼ばれる生き物との、付き合い方のイロハも叩き込んでくれた。
何より辛いのは、精神的な負担。
複雑な心理的課題や人命に関わる支援が多いので、私自身が強いストレスに襲われる事が頻繁にある。
学校での不登校やいじめに悩む児童生徒、職場で適応障害や強いストレスを抱える会社員、発達障害の特性や生きづらさに直面する成人、育児不安を抱える保護者。
どれもどこかで聞いた事がある話、でもこの仕事に就いて初めて、その苦しみの意味を理解した。
理解しすぎて、私は何度もクライアントと一緒に苦しんだ。
忍耐強く他人に寄り添える。
だけど、共感性が高すぎない。
感情を整理して、鍵をかけて片隅にしまう事ができる。
この仕事に向いているのは恐らくそんな人間だ。
私には、向いていなかった。
もう辞めよう。
来年こそ転職活動を始めよう。
来年こそ新しい資格を得よう。
そんなことを考えながら、いつの間にか4年目が過ぎた。
がむしゃらだったやる気も薄れ始めていたある日、私に新たなクライアントが充てられた。
その子は拉致被害者の家族で、中学生の少女だった。
心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱えていた。
彼女は些細な事象や言葉に反応してフラッシュバックを引き起こしていた。
日本国内で拉致事件は珍しいが、初ではなかった。
過去の参考資料を得ることが出来たのは私にとって幸いだった。
PTSDは自身で何度もあたった症例、今の私なら治療できる自信があった。
4年という歳月は、しっかりと私に経験や自信も与えていた。
私の独りよがりな自信とは裏腹に、治療は難航した。
症状の重さに加え、難航する最大の要因は家族全員が拉致現場にいたこと。
程度の差はあれど、家族全員がストレス障害を抱えていた。
こうなると誰かにセッションに参加してもらう形も取れなかった。
そんな中、私自身の状況もどんどん悪化していった。
類似の患者が増えるのだ。
ニュースでも連続拉致事件などと騒がれるようになっていた。
私には被害者家族の子供が何人か割り当てられた。
治してあげられない子供達が、私の腕の中に次々と積み上げられていく。
小さな命が、私に重くのしかかった。
他の公認心理師、精神科医、心療内科医との忙しない調整が続いた。
ここでも九条結嘉利先生に助けられた。
私自身が折れずにいられたのは、あの人の支えがあったからだ。
カウンセリング治療と聞くと、言葉巧みに人の心を導いて癒せると勘違いする人もいるが、心理師にそんな力はない。
少なくとも私には、そんな大それた力はない。
私に出来る事は『話を聞く』それだけだ。
ひたすら根気強く、使っていい言葉を厳選して、環境を作って『話を聞く』。
たったそれだけの事が、とても難しい。
私が好まない薬物療法、抗不安薬に頼る日々が続いた。
私のお酒の量も増えた。
天内アリスは、責任感がとても強い少女だった。
弟を守れなかった後悔。
どんどん壊れていく家族。
ほんの数秒目を離し、弟は車に引きづり込まれた。
姉としての役目をこなせなかった。
ちゃんとこなしていれば弟は守れた。
私がこの家族を壊した。
彼女は何度も泣き叫んだ。
彼女の後悔、悲しみ、恐怖は、自己嫌悪と自責に傾いていった。
うつ病が進行していく。
私が好まない薬物療法、抗うつ薬に頼る日々が続いた。
私はお酒に逃げる日が増えた。
薬の副作用で、情動鈍麻の症状が見られるようになった。
トラウマの記憶や強い苦痛から心を守るための防御反応。
改善するどころか傾向は強まり、彼女はとうとう感情を捨てた機械のようになってしまった。
弟が大切にしていた妹を、守らなければならない。
擦り減り続ける母達を、支えなければならない。
弟が帰ってくる場所を、守らないといけない。
二度と気を抜いてはいけない。
ミスをしてはいけない。
完璧な姉に、ならなければいけない。
天内アリスは、責任以外の感情を押し殺して、成すべき事をこなす子になってしまった。
あらゆる言葉、あらゆる物を使って心が戻るきっかけを探ったが、私の努力は全て空振りに終わった。
時間だけが無意に流れた。
この子に、私の言葉は届かない。
この子は、私に何の関心も示さない。
この子は、私を必要としていない。
居てもいなくても変わらない、空気のような存在が、私という人間。
私は担当者の変更を願い出た。
変更自体は珍しいことではない。
相性もあるし本人のためでもある。
だけど私は、自分の苦しみから逃げるために、天内アリスを見捨てた。
私は初めて、子供を見捨てた。
担当最後の日、私はもう何の期待もしていなかった。
彼女にも、私自身にも。
過去の治療事例を幾つかただなぞっているだけ。
他の子の引き継ぎもしたら、心理士は辞めよう。
そう考えていた最中、私は思わず目を見開いた。
流していたアニメのワンシーンに、天内アリスがかすかに反応を示した。
お姉さんを名乗る陽気な女性が事件を解決していくアニメだった。
一瞬だったけど、確かに笑った。
愚か者を見るかのように、小さく鼻で笑った。
私はお酒を飲まない。
お酒の代わりにオレンジジュースを飲みながら、子供向けのアニメを見る。
私は
仕事は心理カウンセラーをしている。