「はぁ、はあっ、はぁ、はっ、っ……!」
そこから、必死に走って、逃げ回り続けた。足を止めてしまったら、また追い付かれてしまうのではないか。そんな恐ろしさが、疲労に震える立香の足を前に進ませ続けていた。
また、あの恐ろしいものが見えてしまったらどうしよう。今晩こそ、きっと夢で乱暴に犯されてしまうに違いない。そして、現実でも同じことが起こるのだろう。それを考えると、涙が溢れ出すのを止められない。
泣きながらあてどもなく走り続けていると、目の前に不思議な洋館が見えた。
「は、っ、……あ、あれ?」
逃げるのに必死すぎて、どこをどう走っていたのか記憶が曖昧だった。いつの間にか、見知らぬ場所に踏み込んでいたようで、辺鄙な場所に辿り着いてしまっていた。
鬱蒼とした木々に囲まれ、陽の光が届かぬ暗がりの奥に佇む洋館は、日本らしからぬ雰囲気を醸し出していた。
切り出した石煉瓦を積み重ねて作られた灰色の洋館。それを囲む、牢獄の入り口のような黒い鉄格子の門。窓に灯りはなく、人の気配はしない。幽かに霧がかかっているように白んだ、肌寒い程の空気。近くの木々に停まってがなり立てる鴉の声。
如何にも〈出る〉と噂になりそうな場所だが、立香の住む町でこんな場所があるなど聞いたことはなかった。すぐに洋館の前から立ち去ろうと思ったのだが、どうやってここまで来たのか分からなければ、帰り方も分からなかった。
どうしようかと少し惑っていると、背後からガサガサガサッ、と木の葉が揺れる音がした。まるで、立香が進んだ先を知っているかのように、こちら目がけて近づいて来る。
(追って来てる……!?)
それに、先程まで身体中に纏わりついて来た腕――霊たちを思い出して立香はぞく、と震えた。
「……!」
青ざめた立香は、震える膝でどうにか立ち上がる。何とかして隠れないと。焦る気持ちに突き動かされるまま、門を押し開けて洋館の中へと逃げ込んだのであった。
慌てて洋館の中に身を滑り込ませると、背中で押しやって重たい扉を閉じた。しっかりと扉が閉まったのを確認して、少しだけ胸を撫で下ろした立香は、洋館の中を見渡す。
(ここ、どこなんだろう……?)
幽霊屋敷の如き外観には相反するように、内部は人の住んでいる気配が残されているように見えた。豪奢な絨毯が敷き詰められ、精緻な細工の施された調度品が美しく並べられている。
どこか古めかしさはあるものの、家具の隅々まできちんと手入れが施されているらしい。それを見た立香は、この屋敷には誰かが住んでいるのではないか、と悟った。
緊急事態とはいえ、急に家に押し入るような真似をしてしまった。ともかく、住んでいる人に会って事情を説明しないと。そう思った立香は、この屋敷の住人を探すべく
「あのー……、誰か、いませんかー……?」
と声を上げながら、エントランスホールへと向かっていく。エントランスの最奥。そこには、まるで中世ヨーロッパのお城の中にあるような、立派な大階段が聳え立っていた。
中央の踊り場から、東西の棟へと枝を伸ばしてゆく雄大な階段。それを魅せるために空間を使い潰す贅沢ぶりに圧倒的されて、思わず溜息が漏れそうになる。
立香は床に敷かれた真っ赤なベルベッドの絨毯に沿うように、視線を上げていく。階段が交差する踊り場の壁。そこには、一際大きな絵画がかけられていた。その絵画……否、肖像画を目にした瞬間、立香は声を失ってしまった。
大きなキャンバスの中に描かれていたのは、あの金色の瞳の男性と重なって見えた――貴族めいた格好の、紅い瞳をした――男の姿だったのだ。
「これ、って――」
そう呟いた立香の視界の外から、声が聞こえた。
『フ、やはり私の姿が見えていたようだな。ようこそ、忌まわしき幽霊監獄へ』
声のする方向を探して立香がキョロキョロと辺りを見渡すも、人の存在どころか影一つ見つからない。彼女が動揺していると、目の前の階段の方から再び声がした。
『一つばかり手助けをしてやったが……。よもや、此処へ辿り着くとは。……幸運と言うべきか、不幸と言うべきか。ふふ……、考え物だな?』
そう囁く声の主は、階段の踊り場で蠱惑的な笑みを浮かべて立香を眺めていた。
時代錯誤な、貴族めいた格好をした男は、今日ぶつかってしまった金色の瞳の男性と瓜二つだった。白磁の肌も。この世ならざる美しい容貌も。髪の色さえも鏡写しのようにそっくりだった。
違いがあるとすれば。その白髪を目の前の貴族と思しき男性は一つに縛っていること。それと、瞳の色が紅い血のような色をしていることくらいだろうか。
その男性の正体どころか、素性すら分からない。だが、不思議と恐ろしさを感じなかった。それは、妙にくっきりと姿が見えるために、あの金色の瞳をした男性の双子なのかもしれない、というお気楽な思考がよぎったからだろうか。
男の言葉を繰り返し頭の中で咀嚼していた立香は、どこか引っかかりを覚えていた。疑問を確認するように、
「手助け……」
無意識のうちにそう呟いていた立香に、男は口の端を歪めて見せた。
『そうとも。逃げ出す隙を作ってやっただろう?』
すらりと伸びた脚を組む優雅な仕草は正しく貴族そのもので、立香は思わず見惚れてしまった。
この世ならざる美貌に酔ってしまっていた立香だったが、男の言葉の意味の前に、ハッと我に返る。
(隙を作った……。ということは、さっき鏡に映っていた炎は……)
トイレで襲われていた時。黒い炎のようなものが現れた途端、群がっていた霊たちが一斉に逃げ出していった。
先ほどの発言から考えれば、あの炎は目の前の彼の力に拠るもの……ということになる。あれだけの数の霊を怯えさせるほどの、強大な力。それを有するという目の前の男から、目が離せなくなってしまった。